写真撮影:2010.08.03
目立たぬものですが、訪問の資料として記録しておきたいものを紹介します。
Photo-01 鋳造工場跡
Photo-02
【鋳造工場】鋳造工場は、木型工場で組まれた木型を基に作られた鋳型へ溶けた金属を流し込み、さまざまな種類の機械部品を製造する施設であった。鋳造工場や鍛造工場などで製造された機械部品は、仕上工場で最終的な加工作業が行われた。発掘調査によって、鋳造工場のコンクリート製の柱や巨大な地下穴、レンガ敷きの床面などが見つかった。また、鉄を溶かすためのキューポラ(溶銑炉)も残っており、当時の工場施設の規模がよくわかる貴重な構造物である。
公園のように整備されている諸施設跡地も、今は姿・名残を見せているものと、結果的には伏せられたものがあるようです。利用されなくなって久しい施設ですから致し方ありません。現場で紹介されている説明案内板の資料も添えておきたいと思います。
Photo-03
【北沢地区工作工場群】北沢地区工作工場群は、濁川を挟んだ北沢浮遊選鉱場の対岸に位置し、佐渡鉱山の各施設で使用する機械部品類の製造や修理のためにつくられた施設である。この場所には、明治20年代には、すでに選鉱・製錬施設のほかに、器械製作場や鍛冶場などが設置されていた。さらに昭和10年代の大増産時代になると、木工工場や鋳造工場、仕上工場、製缶工場、分析所など複数棟の施設がつくられ、昭和27年(1952)まで稼動したが、時間の経過とともに数多くの施設が撤去された。平成20年、明治以降の施設全容を確かめるために発掘調査がおこなわれ、当時の建物の基礎部分が残っていることが判明した。現在の広場は、昭和の大増産時代の建物配置に基づいたものである。
Photo-04 北沢地区工作工場群は今やこの下にありです。
Photo-05 トロッコのレール
Photo-06
北沢地区は、明治期に入り佐渡鉱山の本部組織である御料局佐渡支庁が置かれて、佐渡鉱山全体の一大拠点となった。また、北沢地区では、明治から昭和にかけ、当時最先端の選鉱・製錬技術が実用化されていった。このため、北沢地区には濁川両岸の斜面地を利用して、金銀生産ラインの最終工程を受け持つ製錬所や選鉱場などの施設が次々とつくられた。特に、昭和12年(1937)以降、佐渡鉱山は国策による増産体制を整えるために、北沢地区にある施設の大改修を行い、昭和27年(1952)までこの施設を使って操業を続けた。
Photo-07
北沢地区に残る主な施設には、明治期に建設された佐渡鉱山の本部建物(旧御料局佐渡支庁、後の旧鉱山事務所)や旧北沢青化浮選鉱所などがある。また、昭和初期の増産体制のもと建設された主要施設として、東西約115m、南北約80mの規模を有する北沢浮遊選鉱場、直径50mのシックナーなど巨大な施設がある。このほか、急斜面の物資運搬をおこなう装置であるインクラインや、各施設に電力を供給したレンガ造の火力発電所、機械部品類の製作・修理を担当した工場の跡など、佐渡鉱山の生産システムを支えていた一連の施設群も残っている。
Photo-08 この石積みは何法でしょう。
Photo-09
【旧佐渡鉱山】重量のある鉱石を原材料とする鉱業では、山の上から下に向かい作業工程が設定される。旧佐渡鉱山では、採掘場所の大立・高任地区から、鉱石選別のための高任・間ノ山地区、選鉱や製錬をする間ノ山・北沢地区を経て、生産品を積み出す大間港まで、約3kmにわたる生産ラインが設定されていた。明治2年(1869)、政府はいち早く佐渡鉱山を官営化すると同時に、お雇い外国人たちを派遣して世界の最新技術を次々と佐渡に取り入れていった。この結果、佐渡鉱山は近代的な鉱山へと変貌を遂げた。明治20年代には、国内の「模範鉱山」と目されるようになり、生産量・技術ともに国内の貴金属鉱山をリードする存在となった。昭和に入り、戦争の影が色濃くなると、国策により金銀の大増産がはかられるようになり、北沢地区では北沢浮遊選鉱場や50mシックナー、高任地区では粗砕場などが次々と建造された。この結果、昭和15年(1940)には、年間の金生産量が1,537k9となり、佐渡鉱山における年間最高生産量を達成した。昭和27年(1952)の佐渡鉱山の大縮小により、北沢浮遊選鉱場をはじめ数多くの施設が閉鎖された。その後も操業は続けられたが、鉱脈の枯渇と金価格の低下などによって平成元年(1989)に休山となった。日本で最も早い鉱業の近代化が進められた旧佐渡鉱山は、一連の施設を良く残す貴重な文化財であるとして、国指定史跡としての保護がはかられている。
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写真撮影:2010.08.03
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2010年 地理の部屋と佐渡島 sadotiri
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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相川北沢地区、濁川の地名が出てきましたね。
小さな川ですがいつも濁っていたように思います。
子供のころ、相川鉱山祭りに行って、道に迷った思い出の川です。
知らなかった北沢地区、貴重な歴史を勉強させてもらっています。
「佐渡鉱山ヲタヅネテ」シリーズも
あと残すところ一回で終了の予定で
す。願わくばまた現地を訪ねてみた
いものです。まさに自分も発見のあっ
た佐渡鉱山久しぶりの訪問でした。
しかし、綺麗によく整備されていますね。
その当時の人々の思いを慈しむように。
静かに当時のことを思いこうして残されたものは大切にして欲しいですね。
佐渡の鉱山は学校で習いましたがこうして目にするのは初めてでした。
昔の姿、、今、何処~ですね、
本当に、綺麗に整備されて、今でも
トロッコがゴットン、ゴットンと
遠くから走って来そうです、
雑草も綺麗に刈り取られ、静けさが、
昔の繁栄を偲ばれます
使われなくなった跡地には、独特の風情が漂っていまする。
私の知る佐渡金山は観光ルートしか知りませんので、かつての歴史の面影に感銘しています。
花の島佐渡と地下資源の佐渡がありそうな感じです。
一度は行かなくちゃ。。。
罪人が送られてり、鉱山があったり、
歴史に顔を出すところですよね・・・
Photo-01 鋳造工場跡の右側の柱は主筋がむき出しになっているようで、左端の柱の一部も?
明治のころの建造物のようですので(それはないでしょうが)コンクリートの被り厚さがなかったということは云えるのかなと思いました。
日本の発展を担ったトロッコレールを拝見し、こちらのトロッコレールに思いをはせます・・・
http://yutaka901.fc2web.com/page5bux76.html