2013年9月23日出発。
生憎の雨・・・・・・
と思いきや、次第にお天道様が!
初日は前回ゆっくり楽しめなかった
聖徳太子御遺跡霊場第1番「四天王寺」
!!!!
ところがどっこい、お彼岸だぁ~~
人や出店が一杯。
でも、なんだか、楽しい雰囲気で良いな。
法要なのかな。
お坊さんが鳴り物鳴らして登場。
阿弥陀堂へ入っていかれた。
今回はお彼岸なので内覧が無料開放。
こういう回廊の画が大好き。
まっすぐ伸びた通路。
ここを古の時代から様々な人が行き来していたんだと思うと
なんだか胸がほっこりする。
これは昭和の時代に作り替えられたものかな。
物は現代の物でも、やっぱり「ここにあった」という事実だけあればいい。
今回はここから始まる。
にぎわいと、古を感じながら「四天王寺」を後にした。
次はすぐ近くにある
聖徳太子御遺跡霊場第29番「勝鬘院」
方向音痴のオレにはとてつもなく大変だった。
普通に行けば5分とかからない。
四天王寺を出て勝鬘院の入口の到着するまで
10分はかかった・・・・・・・
ナビを酷使するも何故か自分だけとんでもない方向に向いていたりする。
地図の見方も分からないのか!と自分に怒ったりして(笑)
まぁ、無事到着。
西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる
四天王寺を建立されました。
その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されたのです。
当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと
我が国の社会福祉事業発祥の地。
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは
このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお経を人々に講ぜられていたため
そして勝鬘経に登場するお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像が
本堂に祀られているため、後にこう呼ばれるようになりました。
勝鬘院HPより
地元では“愛染さま”と呼ばれて親しまれているとか。
愛が叶う「愛染めの霊水」があるらしいが
これは、飲むと愛が叶うといういわれがあるらしい。
どこにあったか・・・・・
あったとしても、オレは思い浮かぶ相手がいない・・・さみしいかな。
ここで御朱印を書いていただいたおばあさんが
なんとも、大阪人らいしい(?)どぎつい対応(笑)
「御朱印頂きたいんですが」
「はぁ?」
って、ちょっと怖いんでない?
愛染さんの前でその態度はどうかと…。
「書いてる間、裏の多宝堂を見てきたらええ
生憎の雨・・・・・・
と思いきや、次第にお天道様が!
初日は前回ゆっくり楽しめなかった
聖徳太子御遺跡霊場第1番「四天王寺」
!!!!
ところがどっこい、お彼岸だぁ~~
人や出店が一杯。
でも、なんだか、楽しい雰囲気で良いな。
法要なのかな。
お坊さんが鳴り物鳴らして登場。
阿弥陀堂へ入っていかれた。
今回はお彼岸なので内覧が無料開放。
こういう回廊の画が大好き。
まっすぐ伸びた通路。
ここを古の時代から様々な人が行き来していたんだと思うと
なんだか胸がほっこりする。
これは昭和の時代に作り替えられたものかな。
物は現代の物でも、やっぱり「ここにあった」という事実だけあればいい。
今回はここから始まる。
にぎわいと、古を感じながら「四天王寺」を後にした。
次はすぐ近くにある
聖徳太子御遺跡霊場第29番「勝鬘院」
方向音痴のオレにはとてつもなく大変だった。
普通に行けば5分とかからない。
四天王寺を出て勝鬘院の入口の到着するまで
10分はかかった・・・・・・・
ナビを酷使するも何故か自分だけとんでもない方向に向いていたりする。
地図の見方も分からないのか!と自分に怒ったりして(笑)
まぁ、無事到着。
西暦593年(推古天皇元年)、聖徳太子は、敬田院、施薬院、療病院、悲田院からなる
四天王寺を建立されました。
その中の施薬院は、あらゆる薬草を植え、病に応じてあまねく人々に与えられるようにと現在の愛染堂の場所に建立されたのです。
当時の面積は現在より一層広大であり、また、建立の意味あいからいうと
我が国の社会福祉事業発祥の地。
施薬院が勝鬘院と呼ばれるようになったのは
このお寺で聖徳太子が勝鬘経というお経を人々に講ぜられていたため
そして勝鬘経に登場するお姫様・シュリーマーラー夫人(勝鬘夫人)の仏像が
本堂に祀られているため、後にこう呼ばれるようになりました。
勝鬘院HPより
地元では“愛染さま”と呼ばれて親しまれているとか。
愛が叶う「愛染めの霊水」があるらしいが
これは、飲むと愛が叶うといういわれがあるらしい。
どこにあったか・・・・・
あったとしても、オレは思い浮かぶ相手がいない・・・さみしいかな。
ここで御朱印を書いていただいたおばあさんが
なんとも、大阪人らいしい(?)どぎつい対応(笑)
「御朱印頂きたいんですが」
「はぁ?」
って、ちょっと怖いんでない?
愛染さんの前でその態度はどうかと…。
「書いてる間、裏の多宝堂を見てきたらええ
」といわれ
愛染様にご挨拶をして、裏へ回った。
開いてないし・・・・・・・
そんなこんな、ここの滞在時間は5分。
なんだか、愛をもらいに来たのか
愛なんて無いと言われに来たのか・・・・・・・
次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第2番「大聖勝軍寺」(たいせいしょうぐんじ)
ここへ向かう途中
JR関西本線王寺行の電車の中から「法隆寺」斑鳩一帯を拝んだ。
立ち寄る時間はなく、今回はこれで許してもらいたい。
どうしてオレはこうも方向音痴なのか。
必ずと言っていいほど、一度は道を間違える。
ここへ来る時も、1本違う道を歩いていた。
屋根は見えているのに・・・・・・なのになぜ到達できないのか。
無駄に歩く距離が増える。
そんなオレをあざ笑っていらっしゃるのか。
仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅が、ここにあった。
587年(用明2)4月、瀕死の病床で仏教に帰依することを用明天皇が
群臣たちに諮問したことから、廃仏派の物部守屋は身の危険を感じてこの地に退いた。
7月下旬の暑い盛りに、崇仏軍は渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。
その攻防戦の主戦場となったのがこの地。
本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。
これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので
持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体。
彼岸花。
どこへ行っても目にすることができる。
自生ではなく、中国から帰化したもの。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になるとか・・・・
聖徳太子が物部軍に追われたとき、この椋の霊木が二つに割れ
この間に隠れ難を逃れたと言われている。
人が人を殺した場所。哀しいかな。
ここでも彼岸法要が行われていた。
御朱印はどこでもらったらいいかわからず(小心者)
あきらめてこの場を去った。
さて、次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第23番「大安寺」
聖徳太子が建てた熊凝精舎。
病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に
本格的な寺院にすべきことを告げ
太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)
百済川のほとりに建て始めたのが百済大寺であるという。
初めての国家寺院。
熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する
額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。
平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に
力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから
額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている。
ここで御朱印を書いていただいている間に
“だるまみくじ” ひいてみた。
「小吉」
内容はいたって普通だったかな。
あまり覚えていないから、特に良いことも悪いこともなかった気がする。
境内に結んで置いてきた。
この穴に入っていた。
だるまさんだけは 記念に頂いた。
このだるまさんの顔は2種類あったかな。
「好きな顔のものを持って行って」と言われ
この顔を選んだ。
特にこれといった理由はないが
こっちの方が笑っているように見えたからかな。
と、ここでこの日の旅は終わり。
今回も宿はもちろん「スーパーホテル大和郡山」
1日5個のアメニティーを頂いた。
歩き疲れていたから
これをもらった。
初日はスーツケースごろごろ転がし疲れたから
晩飯もコンビニ弁当で。
大浴場に入り、ほっこり。
缶ビール飲んでぐっすり。
翌日に備え、早寝。
愛染様にご挨拶をして、裏へ回った。
開いてないし・・・・・・・
そんなこんな、ここの滞在時間は5分。
なんだか、愛をもらいに来たのか
愛なんて無いと言われに来たのか・・・・・・・
次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第2番「大聖勝軍寺」(たいせいしょうぐんじ)
ここへ向かう途中
JR関西本線王寺行の電車の中から「法隆寺」斑鳩一帯を拝んだ。
立ち寄る時間はなく、今回はこれで許してもらいたい。
どうしてオレはこうも方向音痴なのか。
必ずと言っていいほど、一度は道を間違える。
ここへ来る時も、1本違う道を歩いていた。
屋根は見えているのに・・・・・・なのになぜ到達できないのか。
無駄に歩く距離が増える。
そんなオレをあざ笑っていらっしゃるのか。
仏教の導入に反対したと伝えられる物部守屋の別宅が、ここにあった。
587年(用明2)4月、瀕死の病床で仏教に帰依することを用明天皇が
群臣たちに諮問したことから、廃仏派の物部守屋は身の危険を感じてこの地に退いた。
7月下旬の暑い盛りに、崇仏軍は渋川の阿刀で守備を固める守屋を攻めた。
その攻防戦の主戦場となったのがこの地。
本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。
これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので
持国天(蘇我馬子)、多聞天(秦川勝)、広目天(迹見赤檮)、増長天(小野妹子)の四体。
彼岸花。
どこへ行っても目にすることができる。
自生ではなく、中国から帰化したもの。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になるとか・・・・
聖徳太子が物部軍に追われたとき、この椋の霊木が二つに割れ
この間に隠れ難を逃れたと言われている。
人が人を殺した場所。哀しいかな。
ここでも彼岸法要が行われていた。
御朱印はどこでもらったらいいかわからず(小心者)
あきらめてこの場を去った。
さて、次に向かったのは
聖徳太子御遺跡霊場第23番「大安寺」
聖徳太子が建てた熊凝精舎。
病床にあった聖徳太子は、見舞いに来た田村皇子(のちの舒明天皇)に
本格的な寺院にすべきことを告げ
太子の意思を受けた田村皇子が、即位後の舒明天皇11年(639年)
百済川のほとりに建て始めたのが百済大寺であるという。
初めての国家寺院。
熊凝精舎については、大和郡山市額田部(ぬかたべ)に現存する
額安寺(額田寺)がその跡ともいわれる。
平安京に移ってからの大安寺の伽藍整備に
力のあった僧・道慈が額田氏の出身であるところから
額田氏の氏寺である額田寺と関連づけられたのではないかとみられている。
ここで御朱印を書いていただいている間に
“だるまみくじ” ひいてみた。
「小吉」
内容はいたって普通だったかな。
あまり覚えていないから、特に良いことも悪いこともなかった気がする。
境内に結んで置いてきた。
この穴に入っていた。
だるまさんだけは 記念に頂いた。
このだるまさんの顔は2種類あったかな。
「好きな顔のものを持って行って」と言われ
この顔を選んだ。
特にこれといった理由はないが
こっちの方が笑っているように見えたからかな。
と、ここでこの日の旅は終わり。
今回も宿はもちろん「スーパーホテル大和郡山」
1日5個のアメニティーを頂いた。
歩き疲れていたから
これをもらった。
初日はスーツケースごろごろ転がし疲れたから
晩飯もコンビニ弁当で。
大浴場に入り、ほっこり。
缶ビール飲んでぐっすり。
翌日に備え、早寝。