ちゅーたのたび

人生メロメロ奮闘記!?

聖徳太子を訪ねる旅12

2015-08-19 | 旅行記

2014年の旅。
御朱印も残すところわずか。
今回の旅は結構余裕を持ったスケジュールにしてみた。
4度目なのでだいぶわかってきたつもり(笑)

もちろん今回も近鉄を使った。

2014年6月17日。

まずはご挨拶で上ノ太子。
夏もすぐそば。

天気は良いとは言えないが
雨が降らなかっただけよかったか。

「太子和みの広場」にて。

御廟のレプリカ。

中はこんな感じになっているのだとか。

もちろん17条憲法も撮ってきた。

さらに、たくさんの絵巻が紹介されていた。


そして霊場へ向かう途中にあったマンホール。

土地土地のユニークなマンホール。

聖徳太子御遺跡霊場第6番「叡福寺」

お邪魔いたします、ということで
旅はスタート。






叡福寺の向かいにあるこちらも霊場。

聖徳太子御遺跡霊場特番「西方院法楽寺」

創立は推古天皇30年(622年)開基は聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女
善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)
禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)
恵善(俗名玉照、物部守屋の娘)により
聖徳太子廟がある叡福寺の門前に法楽寺の寺号で創建したとされている。

聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わっている。


残念ながら御朱印をもらわず退散。



この上ノ太子は磯長陵で多くの天皇や豪族の古墳がある。

聖徳太子の父・用明天皇や推古天皇の御廟もある。
用明天皇の古墳へ行ってみた。

用明天皇は聖徳太子の父。

「日本書紀」では橘豊日天皇
いみなは池辺皇子、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の表記である。
用明天皇の父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛。


ここへ来る数日前に残念ながら桂宮さまがお亡くなりになられた。

追悼旗が掲げられていた。

この後推古天皇の御廟にも行きたかったが
これは断念。
暑さと距離だ。
次は涼しい時に訪れ、推古天皇や小野妹子の御廟も回ってみたい。

さて、気を取り直して
次に向かったのは、何度も挑戦している
聖徳太子御遺跡霊場第4番「西琳寺」

今日こそは御朱印を
と思って張り切っていってみたが
やっぱり無理だった(涙)


何故ここはいつ来ても誰もいない感じなのだ?

本当に御遺跡霊場なのか!?


悔しい気持ちを心に残したまま次へ。

午前中に行った上ノ太子に対して
こちらは中ノ太子と呼ばれている場所にある。
聖徳太子御遺跡霊場第5番「野中寺」

太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされている。

飛鳥時代~奈良時代前半には、大規模な伽藍が存在したことは明らかで
渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説もある。


伽藍跡の土壇や礎石の列が残っていて
創建当時は東に金堂、西に塔を配置する
法隆寺式の伽藍配置だったことが判明している。





金堂跡や塔跡だけでなく
中門跡・講堂跡・回廊跡にも多くの礎石が現在も存留しており
「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。

しかしここ野中寺はいろいろあって
天武天皇の寺ではないか、とか
安置されている弥勒菩薩半跏思惟像の制作がいつなのか、とか
論議のネタに尽きないお寺のようだ。



この日はこれで時間切れ。

ここから奈良まで戻る。
宿泊はもちろんいつものスーパーホテル大和郡山。

暑くて、梅雨入り前の湿気もあり
なかなか思ったように動き回ることができなかった1日。
それでも野中寺では御朱印をいただくことができて
とりあえず収穫有り。

次は何度も訪れている飛鳥。
今回はゆっくり散策になるかな。
もちろん自転車は借りるとして。
聖徳太子とはちょっと離れて
飛鳥のロマンに浸ってみたいと思う。


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