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テントと大道芸人とムーランルージュと ♯03

2023-04-15 21:30:00 | 自由研究

   ■サーカスの歴史 ⑶

 1930年代から1960年代までは20~30団体があったがその後激減し、1995年には国際サーカス、1996年には矢野サーカスが活動を休止。木下大サーカス、キグレサーカス、カキヌマ大サーカスの3団体を残すのみとなったが、同年12月にポップサーカスが旗揚げした。その後、カキヌマ大サーカスは拠点を海外に移した後、破産・解散した。 キグレNewサーカス・木下大サーカス・ポップサーカスが「日本三大サーカス」と呼ばれていたが、キグレNewサーカスは新型インフルエンザの流行で観客の入りが悪化した影響で赤字・資金繰り難となり、2010年には事業を停止した。 2020年、さくらサーカスが設立された。

  ■関連項目 ピエロ(道化師)

 ▼道化師 Ⅰ ー 概要 ー
(どうけし、中国語:小丑)または道化(どうけ)は、滑稽な格好や言動などをして他人を楽しませる者の総称。
 大道芸やサーカスのクラウン(英: clown)かピエロ(フランス語: pierrotから派生)、中世ヨーロッパの宮廷道化師(英: jester)、歌舞伎の道化方、幇間など、世界各地にさまざまな形がある。

 道化師の歴史は古代エジプトまで遡ることができる。西洋においては、古代ギリシャ・古代ローマでは物まねや軽口、大食芸などで座を楽しませることで裕福な家の晩餐に与る道化がいた。ローマ帝国の裕福な家では、魔除けとして、小人症の者や知的障害者、奇形の者などを奴隷として傍に置く習慣があり、これらを「愚者」としてペット感覚で所有する貴族趣味は、16世紀末まで続いた。中世のヨーロッパなどでは、王族や貴族などの特権階級が城内に道化としての従者を雇っていたことが確認されており、「宮廷道化師」と呼ばれている。その数は14世紀より徐々に増加して15-16世紀に最高潮に達し、中世の英国においては、宗教界・俗界問わず大物は道化を所有しており、居酒屋や女郎屋でも所有した。
 宮廷道化師達の肖像は犬と一緒に描かれることが多く、彼らが犬と同様に王の持ち物とされていたことを裏付けている。シェイクスピアの戯曲などにもしばしば登場し、重要な役を担う。日本では明治時代に初めて曲芸を行った。
 宮廷道化師の仕事は、その名の通りの主人または周囲の人物達を楽しませる役割を担っていた。また、宮廷道化師達は小人症などの肉体的障害を持っているものが多く、笑い物としての対象にされていた。しかし、君主に向かって無礼なことでも自由にものを言うことが許される唯一の存在でもあった。
 曲芸よりは冗談やジョークを言う芸風を主とする道化師である。 また、その職業的な役割(君主の機嫌取り、君主の感情を操れること)から、国家間の紛争における仲介(連絡)者や、行政と民の中立な立場で世間の風評を演技(表現、意見)する等、オンブズマンとしての役割も果たしていたという説がある。
 トランプでよく登場するジョーカーはジャック、クィーン、キングが宮廷の王族を意味する絵柄から関連して宮廷道化師が描かれることが多い。

    〔ウィキペディアより引用〕

 

テントと大道芸人とムーランルージュと ♯02

2023-04-15 21:15:00 | 自由研究
   ■サーカスの歴史 ⑵

 日本にはじめてサーカスが訪れたのは1864年で、『アメリカ・リズリー・サーカス』により横浜で興行がなされた。それまで日本でも見世物は存在したが、「芸種別に一座を組んで個々に興行を行う」というスタイルが一般的で、「様々な演目を一度に見せる」というサーカスは大きな反響を呼んだ。次に来日したのは、1872年(明治5年)、フランスのスリエ曲馬団であり、大人気だった。人気に当て込んで、同年、中村座において歌舞伎「音響曲駒鞭」が興行されている。1886年(明治19年)には、イタリアのチャリネ一座が来日する(東京での初演は9月1日から10月30日まで秋葉原の火除け地であった。連日大盛況であった)。この公演に強い衝撃を受けた五代目尾上菊五郎は12月、黙阿弥の『鳴響茶利音曲馬』という猛獣使いなどが登場する歌舞伎を千歳座で上演している。
 日本人のサーカスとしては、チャリネ一座から名前をとり、1899年(明治32年)に山本政七らによって設立された「日本チャリネ一座」が最初であるとされる。日本チャリネ一座では馬や象、熊なども用いて曲芸や猛獣芸などを披露した。その後、大正末から昭和にかけて有田サーカス・木下大サーカス・シバタサーカスなどが続々と創立し、人気を博した。ただし、各団体が「サーカス」の呼称で名乗るようになるのは、1933年のハーゲンベック・サーカスの来日以後のことである。 1933年(昭和8年)、内務省は児童の健康と道徳的に危険な仕事を禁じる児童虐待防止法案を国会に提出。委員会では、法案が成立すると曲馬団などの経営が不可能になるとして反対意見も出たが可決。その後、内務省令にて児童が軽業、曲馬その他危険なる業務にして娯楽の様に供するものに携わることが禁じられた。
 1943年(昭和18年)、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い恩賜上野動物園で戦時猛獣処分が始められた。この時点で日本国内の18のサーカス団にはライオン51頭、ゾウ11頭、クマ8頭、ヒョウ6頭、トラ2頭などが飼育されていたほか、サーカス団に所属しない猛獣使い14団体も複数の動物を飼育していた。同年9月、内務省、警視庁は大日本興業協会仮設興行部に対し猛獣の飼養は都市外に限定すること、警戒警報発令後は興行を中止することを求めるとともに、動物の射殺準備やあらかじめ「懇篤な処置」を施すことも求めた。 これらの動物については、1943年10月、警視庁から処分命令が出され、ライオン52頭などが処分対象となったが、他の動物の行方は不明である。 1948年(昭和23年)に児童虐待防止法に代わる形で児童福祉法が制定され、「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務」に満15才未満の児童を使用する事が禁止された。これにより、年少期に芸を仕こまなければならないサーカス芸の後継者を育てる事が困難となった。現在の日本のサーカスに子供達が出演しないのはこの法によるものである。ただし、労働基準監督署はサーカスを家業継承する団体で、子供に義務教育を受けさせ、かつ出演料も発生しない場合には児童のサーカス出演を認めるとしている。
 高度経済成長期以降に「ボリショイ・サーカス」というCMが日本テレビ系で頻繁に打たれ(初期には東京都体育館、そのあと後楽園から東京ドームで開催)、その印象が強烈に残っている人を中心に「ボリショイ・サーカス」というサーカス団があると誤解するものがいた。しかし、これは日本の興行会社(呼び屋)がソ連のさまざまなサーカス団を呼び「ボリショイ・サーカス」という共通呼称で毎年興行を打ったためにそういった誤解が生まれたのである(後にその興行会社が「ボリショイ・サーカス」という法人名を取得する ボリショイ・サーカス )。ただし、その後平成になって、ロシアで既存のサーカスが「ボリショイ・モスクワ国立サーカス」と「ボリショイ・サンクトペテルブルク国立サーカス」と改名された。 1992年(平成4年)、テレビ局のタイアップでシルク・ドゥ・ソレイユが来日。再びサーカスブームが訪れる。その効果からテレビアニメのカレイドスターやテレビCMの鉄骨飲料などサーカスを取り上げたものが多く放送された。 2001年、NPO法人国際サーカス村協会が運営する4年制の沢入国際サーカス学校(学校法人ではない)が日本唯一のサーカス学校として創立される。

     〔ウィキペディアより引用〕


テントと大道芸人とムーランルージュと ♯01

2023-04-15 21:00:00 | 自由研究

 ■サーカスの歴史 ⑴

 近代サーカスは、1770年のイギリス「アストリー・ローヤル演芸劇場」で開催されたことに始まり、その円形劇場で催された新機軸が評判となった。その後、これを「サーカス」と呼ぶことが広まった。近代サーカスは、曲馬(馬による曲芸)を主要な演目として発展しつつ、そこに新しいショー形式が取り入れられ、興行として成長してきたものである。
 近代サーカス(つまり人々がサーカスと認識しているもの)につながる歴史について説明する。
 語源については諸説ある。
・英語のサーカスの語源は、ラテン語で環(円周・回転)だとする説。
・古代ローマの円形競技場(キルクス)が語源である、とする説。
・歴史的に円形広場で催された見世物は、一応、古代エジプト時代やローマ時代には存在しており、古代エジプト時代に動物の芸や人間の曲芸が見世物として成立はしていた。
・古代ローマで見世物は存在していてその一部が円形競技場で行われることはあった。だが、近代サーカスは必ずしも古代ローマの見世物の延長上にあるわけではない。
・近代サーカスの起源を古代ローマの円形競技場キルクス・マクシムス(Circus Maximus)に置いてしまう人も一部にいるが、実際には古代ローマのキルクス・マクシムスは近代サーカスとは別物であり、区別したほうがよい。
 
 近代サーカスはイギリス人退役軍人のフィリップ・アストリー(1742年〜1814年)によって確立され、ヨーロッパからロシア・アメリカへと広がったとされる。従来より見世物として確立していた動物芸、人間の曲芸に加え、アストリーは道化芸という概念を新たに取り入れた。(なお、アストリー自身は「サーカス」という用語を使っていなかった) 道化芸は19世紀初頭に活躍したパントマイム役者ジョセフ・グリマルディ、ジーン・オリオールらによって、「喜劇中のふられ役・失敗ばかりして観客の笑いを取る」というスタイルが確立され、真っ白に塗った顔にだぶついた服装というお決まりのピエロ姿で、近代サーカスでは欠かせない要素のひとつとなった。
 ロシアではバレエなど様々な芸術を取り入れることで発展し、サーカスは子供向けの芸術ジャンルとして認知されている。ソ連時代にはサーカス団は公団として組織され、アトラクションと呼ばれる大規模な動物演技や大編成のグループアクロバットによって国内外で広く知られていた。
 1974年にモナコ公国のレーニエ3世がモンテカルロ国際サーカスフェスティバル(英語版)を創設した。これにより、それまで単なる見世物と見られがちだったサーカスが芸術の一種としても認知されるようになり、サーカス団員の社会的な地位も向上するようになった。 (現在、世界では有名なサーカス・フェスティバルが5つほどあり、それらは主に新人サーカス団員の"登竜門"の役割を果たしている。サーカス・フェスティバルの会場には、世界の有名サーカス団のスカウト担当者も来て見ており、金賞・銀賞などを受賞すると、さまざまな有名サーカス団から公演依頼が寄せられることになる。5つほどのサーカス・フェスティバルの中でも頂点に位置するとされているのが、モンテカルロ国際サーカスフェスティバルであり、現在ステファニー・ド・モナコ公女が先代のレーニエ3世の志を引きついでモナコ公国の国家事業として主催している)
 
  1980年代以降、欧米ではニューサーカスと呼ばれる新しい形態のサーカスが盛んになった。ニューサーカスはストーリー性やコンセプトに重きを置き、最新の音響・視覚効果を積極的に取り入れたライブイベント的なエンターテイメントであり、リングマスター(英語版)(団長)やピエロによる狂言回しを用いず、動物の演技や円形劇場も使用しないことで従来のサーカスとの差別化を図っている。

     〔ウィキペディアより引用〕