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テントと大道芸人とムーランルージュと ♯02

2023-04-15 21:15:00 | 自由研究
   ■サーカスの歴史 ⑵

 日本にはじめてサーカスが訪れたのは1864年で、『アメリカ・リズリー・サーカス』により横浜で興行がなされた。それまで日本でも見世物は存在したが、「芸種別に一座を組んで個々に興行を行う」というスタイルが一般的で、「様々な演目を一度に見せる」というサーカスは大きな反響を呼んだ。次に来日したのは、1872年(明治5年)、フランスのスリエ曲馬団であり、大人気だった。人気に当て込んで、同年、中村座において歌舞伎「音響曲駒鞭」が興行されている。1886年(明治19年)には、イタリアのチャリネ一座が来日する(東京での初演は9月1日から10月30日まで秋葉原の火除け地であった。連日大盛況であった)。この公演に強い衝撃を受けた五代目尾上菊五郎は12月、黙阿弥の『鳴響茶利音曲馬』という猛獣使いなどが登場する歌舞伎を千歳座で上演している。
 日本人のサーカスとしては、チャリネ一座から名前をとり、1899年(明治32年)に山本政七らによって設立された「日本チャリネ一座」が最初であるとされる。日本チャリネ一座では馬や象、熊なども用いて曲芸や猛獣芸などを披露した。その後、大正末から昭和にかけて有田サーカス・木下大サーカス・シバタサーカスなどが続々と創立し、人気を博した。ただし、各団体が「サーカス」の呼称で名乗るようになるのは、1933年のハーゲンベック・サーカスの来日以後のことである。 1933年(昭和8年)、内務省は児童の健康と道徳的に危険な仕事を禁じる児童虐待防止法案を国会に提出。委員会では、法案が成立すると曲馬団などの経営が不可能になるとして反対意見も出たが可決。その後、内務省令にて児童が軽業、曲馬その他危険なる業務にして娯楽の様に供するものに携わることが禁じられた。
 1943年(昭和18年)、第二次世界大戦の戦局悪化に伴い恩賜上野動物園で戦時猛獣処分が始められた。この時点で日本国内の18のサーカス団にはライオン51頭、ゾウ11頭、クマ8頭、ヒョウ6頭、トラ2頭などが飼育されていたほか、サーカス団に所属しない猛獣使い14団体も複数の動物を飼育していた。同年9月、内務省、警視庁は大日本興業協会仮設興行部に対し猛獣の飼養は都市外に限定すること、警戒警報発令後は興行を中止することを求めるとともに、動物の射殺準備やあらかじめ「懇篤な処置」を施すことも求めた。 これらの動物については、1943年10月、警視庁から処分命令が出され、ライオン52頭などが処分対象となったが、他の動物の行方は不明である。 1948年(昭和23年)に児童虐待防止法に代わる形で児童福祉法が制定され、「公衆の娯楽を目的として曲馬または軽業を行う業務」に満15才未満の児童を使用する事が禁止された。これにより、年少期に芸を仕こまなければならないサーカス芸の後継者を育てる事が困難となった。現在の日本のサーカスに子供達が出演しないのはこの法によるものである。ただし、労働基準監督署はサーカスを家業継承する団体で、子供に義務教育を受けさせ、かつ出演料も発生しない場合には児童のサーカス出演を認めるとしている。
 高度経済成長期以降に「ボリショイ・サーカス」というCMが日本テレビ系で頻繁に打たれ(初期には東京都体育館、そのあと後楽園から東京ドームで開催)、その印象が強烈に残っている人を中心に「ボリショイ・サーカス」というサーカス団があると誤解するものがいた。しかし、これは日本の興行会社(呼び屋)がソ連のさまざまなサーカス団を呼び「ボリショイ・サーカス」という共通呼称で毎年興行を打ったためにそういった誤解が生まれたのである(後にその興行会社が「ボリショイ・サーカス」という法人名を取得する ボリショイ・サーカス )。ただし、その後平成になって、ロシアで既存のサーカスが「ボリショイ・モスクワ国立サーカス」と「ボリショイ・サンクトペテルブルク国立サーカス」と改名された。 1992年(平成4年)、テレビ局のタイアップでシルク・ドゥ・ソレイユが来日。再びサーカスブームが訪れる。その効果からテレビアニメのカレイドスターやテレビCMの鉄骨飲料などサーカスを取り上げたものが多く放送された。 2001年、NPO法人国際サーカス村協会が運営する4年制の沢入国際サーカス学校(学校法人ではない)が日本唯一のサーカス学校として創立される。

     〔ウィキペディアより引用〕



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