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テントと大道芸人とムーランルージュと ♯16

2023-04-20 21:15:00 | 自由研究

 ■関連項目 Ⅱ 
     ー ムーランルージュ ー

 ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge、フランス語発音: [mulɛ̃ ʁuʒ]1889年に誕生したフランスのパリ市内、モンマルトルにあるキャバレーである。
 フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根の上に赤い風車がある。

 〔概要〕


 編集 歌やダンス、フレンチカンカン、大道芸を組み合わせたショーで有名。また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子たちをモデルに数々のポスターを描いたことでも有名である。 第一次世界大戦や第二次世界大戦下でも営業を続け、第二次世界大戦中にパリがドイツ軍の占領下に置かれた際も、多くのドイツ軍将兵でにぎわった。ここで活躍した著名なミュージシャンとしてはエルビス・プレスリー、フランク・シナトラなど多数いる。 現在もパリを代表する観光スポットの1つとして人気がある。1日に2回のショーがあり、19時(ディナー付)、21時(19時の回のディナーが終わったころに入場し、19時からいる人と一緒にショーを楽しむ。ドリンク付)、23時(ドリンク付)が開演時間。約840名が収容できる。

 ■映画『MULAN ROUGE』概要

『ムーラン・ルージュ』
(Moulin Rouge!)は、2001年製作のオーストラリア・アメリカ合作映画。
 バズ・ラーマン監督。
 ラブ・ストーリーであり、ミュージカル映画。 ムーラン・ルージュ


 パリにあるキャバレー「ムーラン・ルージュ」を舞台に、踊り子と若き作家のラブストーリーが、ビートルズやエルトン・ジョン、マドンナなどの曲に乗せてつづられる。 目まぐるしい映像と、有名な楽曲の使い方に関して賛否が分かれるが、主演二人(ニコール・キッドマン、ユアン・マクレガー)の吹き替えなしの歌と、豪華なセット・衣装が話題になった。 キャッチコピーは「ふたりの愛、ひとつの運命。」・「パリ、1899年この街で、最も愛された一人の女… 彼女の名はサティーン」。

 〔ストーリー概要〕

 英国の上流階級出身の作家志望の若者クリスチャンは、父親に反対されながらもボヘミアンな世界に憧れて華の都パリのモンマルトルに出てきた。モンマルトル一角の安宿に部屋を取り、自由と愛に就いての物語を書こうと試みるが、いざ書こうとすると物語に出来るような恋愛経験が無いことに気付き、クリスチャンは途方に暮れた。 その時、天井を突き破って意識を失ったアルゼンチン人が落ちてくる。驚愕して穴の開いた天井を見上げると、キャバレーのムーラン・ルージュに雇われている作家のオードリーや新進気鋭の画家アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック達がクリスチャンの部屋を覗き込んでいた。オードリー達はアルゼンチン人の様子はどうだ、明日までの原稿は完成するのかと大騒ぎ。トゥールーズ=ロートレック達は、経営者のジドラーが電飾に凝りすぎたせいで経営が傾いた「ムーラン・ルージュ」の新たなパトロンを見付けるために新しい舞台を考えていたが、披露する歌の歌詞が決まらず、喧々囂々の状態だった。セットの上で彼らのやり取りを見守っていたクリスチャンは、思わず知らずのうちに、彼らが披露するつもりであるショーに完全にマッチした歌を披露した。トゥールーズ=ロートレックらはこれほど完璧な歌を書ける人間はいないと絶賛し、オードリーに彼と一緒に歌を書いてくれないかと頼んだが、オードリーは見ず知らずの新人と一緒に書くことを拒否し出て行ってしまう。 これでクリスチャンを仲間に入れる障害がなくなったと見たトゥールーズ=ロートレック達は、クリスチャンにアルゼンチン人が持っている最高のスーツを着せて、ムーラン・ルージュの花形スターであるサティーンに取り込んで、経営者のジドラーにクリスチャンを認めさせる計画を立てる。かくしてクリスチャンはトゥールーズ=ロートレック達と共に歌を書くことになった。クリスチャンは生まれて初めてアブサンを飲み、完全な酩酊状態でムーラン・ルージュの舞踏会に潜り込むことになった。 ムーラン・ルージュでは多くの着飾ったカンカン踊り子が舞踏を盛り上げ、そして勿論、花魁で高級娼婦ののサティーンだった。サティーンは自分を本当の女優にしてくれると約束している公爵と二人きりで会うことを心待ちにしていたが、ちょっとした手違いから、クリスチャンを公爵だと勘違いしてしまう。クリスチャンはサティーンの目の前で自作の詩を朗読し、二人は恋に落ちてしまう。

   〔ウィキペディアより引用〕




テントと大道芸人とムーランルージュと ♯15

2023-04-20 21:00:00 | 自由研究

 ■関連項目 Ⅱ ー マタ・ハリ ー

 離婚したマルハレータはオランダへ帰国し、間もなく職を求めフランスのパリへ渡る。だが、なかなか恵まれた仕事に就くことが出来ず生活は困窮していく。ある日、友人のパーティーの余興で見よう見まねのジャワ舞踊を披露するとそれが受け、ダンサーの話が持ちかけられる。1905年、エキゾチックな容姿を活かし、「インドネシア・ジャワ島からやって来た王女」ないしは「インド寺院の踊り巫女」という触れ込みでダンサーとしてデビュー。「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じた。ショーは好評を博し、興行的にも成功を収めた。この成功を機にマルハレータの踊りは話題となっていく。最初は小さなサロンで少人数の客を相手に踊りを披露する程度であったが、やがて活動の場は欧州中に広がり、遂にはイタリアのミラノ・スカラ座で公演を果たすなど、一躍人気ダンサーとなった。この頃から、より観客に受けるよう東洋的な「マタ・ハリ」の芸名を名乗り始める。なお「マタ・ハリ」とは、「太陽」あるいは「日の眼」を意味するムラユ語(マレー語またはインドネシア語)に由来する。
 彼女はまた、多くの高級士官あるいは政治家を相手とする高級娼婦でもあった。「マタ・ハリ」ことマルハレータは、数知れないほど多数のフランス軍将校あるいはドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、国際的な陰謀の道具となっていった。 1917年2月、彼女はフランスにおいて二重スパイとして第一次世界大戦で多くのドイツ人、およびフランス人兵士を死に至らしめたとの容疑で起訴された。その逮捕は、ドイツの在スペイン駐在武官がマタ・ハリを暗号名「H-21」なるドイツのスパイとした通信がフランスによって解読されたことからなされた。しかし、2017年に公開された情報によれば、マタ・ハリがフランス軍およびドイツ軍の諜報要員であったことは判明したが、彼女の諜報活動は非常に低質なものであり、フランス・ドイツのいずれの陣営に対しても有意義な情報をもたらしたという証拠は一つも見つからなかった。また、彼女の諜報活動が具体的にどのようなものであったかについても、報酬欲しさに功を奏しようとしたものが多く、具体性及び実効性は低かったことが判明している。 当時、戦況はフランスにとって不利であり、政府は戦争による甚大な被害の責任の所在を追及されていた。前年のソンムの戦いでも、膨大な損害を出しており、政府に対する国民の不満は頂点に達していた。そのため、フランス政府にとって全ての軍事上の失敗をマタ・ハリの責に帰することは大変好都合であり、輸送船がUボートに沈められたのも彼女の働きにされた。マスコミもフランス軍の作戦失敗及び大敗の原因をマタ・ハリに押し付けるように報じ、彼女をかばうことはなかった。フランス・ドイツの両国民も、かつてのスターだったマタ・ハリを売国奴として非難した。 大戦中の1917年7月24日、彼女は有罪となり死刑判決が下された。同年10月15日、サンラザール刑務所にて銃殺刑に処せられた。処刑前、マタ・ハリは泰然自若としており、気付けのラム酒一口は受けたものの、目隠しならびに木にくくりつけられることは拒絶したといわれている。

     〔ウィキペディアより引用〕