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▼余白の春:金子文子 Ⅰ

2023-04-09 21:00:00 | 千思万考
 “金子文子”というこの名前は、以前から知ってました。
 久し振りに“瀬戸内寂聴さん”を検索していたら、この名前が・・・

『余白の春:金子文子』
   (岩波現代文庫)瀬戸内寂聴著

 ■金子 文子
   (かねこ ふみこ)
(1903年1月25日〜1926年7月23日)  大正期日本のアナキスト、ニヒリスト。

 関東大震災の2日後に、治安警察法に基づく予防検束の名目で、愛人(内縁の夫)である朝鮮人朴烈と共に検挙され、十分な逮捕理由はなかったが、予審中に朴が大正天皇と皇太子の殺害を計画していたとほのめかし、文子も天皇制否定を論じたために、大逆罪で起訴され、有罪となった(朴烈事件)。後に天皇の慈悲として無期懲役に減刑されたが、宇都宮刑務所栃木支所に送られてそこで獄死した。 韓国では大日本帝国滅亡と天皇爆殺の必然性を主張した在日朝鮮人無政府主義者を支持した「良心的日本人」とされている。2018年11月17日、日本人としては2人目になる大韓民国建国勲章(愛国章)が追叙された。

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 神奈川県横浜市に生まれる。父親の佐伯文一は広島県安芸郡の出身で、タングステン鉱石を掘り当てるため山梨県牧丘の杣口を訪れ、農家の娘であった文子の母親きくと駆け落ちする。父親が家庭を顧みなかったため、母以外との女性関係を幼い頃から見せつけられるなど、複雑で恵まれない家庭環境の中で過ごした。文子の出生は届けられず、小学校にはすぐに入学できなかった。その後、父は家を出て義妹(文子の母の妹)と同居。母は他の男と同居するという家庭状況のもとで育った。 8歳になり母の再婚先、山梨県北都留郡に同行するが、しばらくして叔父に引き取られ、母の実家金子家のある山梨県東山梨郡諏訪村大字下杣口(同郡牧丘町、現山梨市)へ移る。さらに母は他家に嫁ぎ、文子は「父には逃げられ、母には捨てられる」と自覚し、「子供ながらに考えても判らない自分の身の上に嘆き呪う」と後に予審の訊問調書で述べている。 9歳の時、実父の妹の結婚先、朝鮮忠清北道清州郡芙蓉面(現在の世宗特別自治市芙江面)の岩下家に引き取られ養子となる。そこに同居していた父方の祖母は、無籍者や私生子は引き取れない、という理由で文子を母方の祖父母の五女として入籍させた。文子は朝鮮でも養家先の親族から無理解な待遇を受け続け、自殺を考えるほどであった。1919年には独立運動の光景を目撃して「私にすら権力への叛逆気分が起こり他人事と思えぬほどの感激が胸に湧く」と予審で述べたように、朝鮮人の立場をみずからの境遇と重ね、深い共感と愛情を抱いていた。 16歳で母の実家に再び戻ったが、母はそれまでにも結婚を繰り返しており、当時は蚕種問屋に嫁いでいた。後に文子は「家の無い私は数日ずつ付近の親類方を彷徨つた」とこの頃のことを回想している。 やがて、学問への欲求が強くなり、また山梨での親族たちとの生活も嫌になったため、1920年4月、17歳で単独上京した。当初は下谷区三ノ輪町の洋服商をしていた母方の大叔父宅に居たが、上野の「新聞売り捌き店」に入って夕刊販売を始め、社会主義者らと出会う。この頃、働きながら正則英語学校と研数学館に通った。学校は3ヶ月で退学したがその間、同じ学校で学んでいた新山初代と知り合い、社会主義やロシアのナロードニキの活動に関する本を借り、大きな影響を受けた。
           【続】

    〔ウィキペディアより引用〕