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Crystal Heart ・・☆

私はどこから来てどこへ行くのか・・・光の世界を追いかけて

高野山奥の院

2014年01月22日 | 天地人

今回は、天地人ジャンルでいかせていただきます。
三連休、和歌山の高野山に行ってきました。

まず向かったのが 高野山・中央観光案内所 。(高野山観光協会HP)
全く知らない場所なので、 音声ガイド を借りて、奥の院から本気で観光。


弘法大師の御廟があり、その参道の脇には杉の大木が茂り、数十万基ともいわれる墓碑や供養塔が並ぶ、霊場・高野山奥の院。

今回の最大の目的は、上杉謙信と景勝の霊屋でお参りすること!
で、できたら名だたる戦国武将の供養塔も・・・ゴメン、空海さん。


日中も霜柱が溶けず、雪は凍ってツルツルの高野山は寒い!
関ヶ原の戦いの後、高野山の菩提寺に身を寄せた真田幸村父子が、あまりの寒さに麓の九度山に下りて生活したって話、嘘じゃないかも!(^^;

冬はオフシーズンなのだが、けっこう参拝客がいます。
奥の院の音声ガイドも全部聞くと凍りそうなので、戦国武将メイン!


あった!
はす向かいに武田信玄と勝頼の供養塔がある参道から、少し昇った場所に、上杉謙信公と景勝(殿とよんでます)の霊屋発見。
位牌刻銘には、謙信は為権大僧都法印謙信、殿は為権大僧都法印宗心とあり、須弥壇に二基の石碑があるそうです。
一説には謙信の遺髪と殿の遺骨があるという話ですが、定かではありません。

「殿、やっと・・・やっと、来たよ~っ!」
何でそう思うんだろうね、そう言っちゃったよ。

その他、石田三成、明智光秀、織田信長、豊臣秀吉、そうそう伊達政宗は以前 お位牌 を抱きしめたことがあるので、親近感。(笑)
江戸時代の有名藩主など、枚挙にいとまがありません。


↑この御廟橋は、全体で37枚の橋板が金剛界37尊を表しおり、ここから先は最も神聖な場所で、撮影も許されません。

この先に 灯籠堂 があり、「消えずの火」とともに中は数え切れない釣り灯籠が下がっていて、その美しさ、荘厳さといったら!!

弘法大師御廟にもお参りさせていただきました。
古の真言宗は、ブッダというあの現世的な個ではなく、本来は姿のない大日如来が自ら説法するという「本地身説法」。
心静かに内なる空間とする対話、神との対話みたいな感じかな?
そんな風に思えました。(*^_^*)


皇心のセッションルーム Angel's smaile です。

栃尾城跡

2012年11月01日 | 天地人
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  (↑クリックすると大きくなるよ!)
旅の話がたまっているので順番に。

長岡市栃尾にある栃尾城跡に行ってきました。

標高227.7mの鶴城山の本丸跡から見た景色は、最高!(上の写真)

栃尾城は、上杉謙信が14~19才まで過ごし、城主である本庄氏の補佐の下、父・長尾為景が死去した後の跡目争いで初陣を果たした城。


知る限り3つある登り口のうち、諏訪神社からGO!
とりあえず頂上の本丸跡まで。


神社の右奥に、登り口の案内と「クマ出没注意」の看板が。
出るのか!


栃尾城は、県内でも屈指の規模を誇る山城。
馬場、武者溜り、二ノ丸、井戸跡、空堀、曲輪、等々の遺構を見ることができます。


2900平方メートルあるという馬場跡。
こんな山の上に?と思う場所だが、馬は坂が苦手と聞いたことがあるので、山城攻めの特訓したのかもね。


U字型の溝が続く、大空堀跡。


二の丸跡は、ちょっとした展望台になっていて、石動神社の奥の院でもある。


登り始めて30分くらいで着いた、本丸跡。
栃尾盆地側は、絶壁のような形状になっていおり、誰が登ってくるか一目で分かる。

殿(上杉景勝)の父上、謙信の出発点といえる城に来られて、感無量!

今度は草のない時期に、他の登り口からチャレンジします。


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

如来堂と新選組の斎藤一

2012年09月10日 | 天地人

殿と兼続が、神指城を自らの手で破却して突入した江戸時代。
今度はその幕末に、この地は本気で天下分け目の主戦場になる。

それが1868年の 会津戊辰戦争 。(Wikipedia)

神指城跡 の南西の外側の土塁の所に、如来堂という集落がある。
文字通り「如来堂」があるのだが、ここが斎藤一を隊長とし、会津に残った新選組の激戦地。

会津の戦況が不利になると、新選組は仙台に向かう土方隊、会津に残る斎藤隊の2つに別れる。


最終的に如来堂で残った隊士、20名とも14~16名とも言われる内、13名が落命。

辛くも脱出した斎藤は、城外で最後まで戦い抜く。
それこそ会津藩が降伏しても戦いを止めず、殿様に説得されてやっと戦闘を中止したと言われている。

戦後、その斎藤一 が新潟県に来ることになる。
新潟と新選組の接点などないと思っていたので、正直驚いた。

1869年(明治2年)、会津藩士は1700人ほどが上越の高田藩に「永預け」となり、寺町のお寺に分散して1年半ほど暮らすことになる。
斎藤一は、「一瀬傳八」と名乗り、惣持寺というお寺に、朱雀寄合隊の一員として謹慎。

翌年、謹慎を解かれた藩士は、青森の新しい斗南藩へ。

1874年(明治7年)「るろうに剣心」でもおなじみの藤田五郎として、警視庁の警察官となり、西南戦争でも活躍、等々。

1915年(大正4年)71才で亡くなる時は、床の間に結跏趺坐をして息を引き取ったと言われてます。


本人の希望で、お墓は会津に。
七日町の阿弥陀寺に静かに眠っています。

福島は、今また原発を抱え、時代の天下分け目にあるように思える。
私達は、先人が残していった「生き抜く力」「戦い抜く力」、それを徒や疎かにできない時なのでは?

すごく、すごく考えさせられた神指城跡です。


皇心のセッションルーム Angel's smaile です。

神指城跡

2012年09月09日 | 天地人

久々に兼続の天地人ネタ!
仲間と福島県会津若松市神指町にある 神指城(こうざしじょう)跡 へ行ってきました。

今回は、会津の史跡研究家の大御所の皆様に案内をしていただけた、超豪華な旅!


豊臣秀吉により1598年に会津へ移封された上杉景勝が、関ヶ原の戦いに敗れ、徳川家康によって1601年に米沢へ移封されるまでの3年数ヶ月。
秀吉亡き後、家康と険悪になった景勝が兼続に命じ、1600年5月から家康と一戦交えるつもりで建て始めた城。

上の写真が土塁の復元図。
外側の土塁の一辺がほぼ300m、内側本丸の一辺が180mと広く、鶴ヶ城の2倍くらいの規模。
どちらも水堀がセットです。
左上が変形しているのは、後の洪水で削り取られたため。

一番上の写真は、下の写真の「現在地」という場所で、東北の角に残る土塁。


築城の頃からある「高瀬の大木」という、根本の直径12.6mの大ケヤキ。


そこから本丸の土塁跡を見るとこんな感じ。
遠い・・・広すぎ!

当時、幅18m、高さ10mの土塁が築かれたが、現在は少しが残るのみ。

結局、城も完成に至らず、米沢移封時に景勝が自ら破却。
石垣の石が、鶴ヶ城の石垣に使われている。


「私の先祖が、築城のために移転させられ、苦労したんです。」

川沿いの肥沃な土地から13ヶ村が、築城のため移転させられた、地元ならではの生きた話も聞けましたし、なかなか入手できない資料もいただき、勉強になりました!

天下分け目の戦は関ヶ原でしたが、天下分け目のエネルギー「直江状」は、ここ福島から発信されていました。

涼しくなったら、今度、ゆっくり土塁跡沿いに歩いてみたい。(*^_^*)♪


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

上杉の愛の軍旗

2011年11月05日 | 天地人
春日山の 林泉寺 の宝物館で、上杉の軍旗と兼続の愛の兜に関して、少しお勉強。(林泉寺HP)

上杉軍の軍旗に『毘』という旗がありますよね?
これをずっと「び」とか「毘沙門天」と読んでいたんです。私。

なんと「毘」一文字でも「 刀八毘沙門 (とばつびしゃもん)」と読むそうです。(仏様の世界HP)
もとは京都の羅生門にあった 兜跋毘沙門天 からきているとありました。(Wikipedia)

軍旗の文字や兜の前立ての形も、自分と神が一体となり戦に挑む、そういう意味をもっているそうです。

そういう意味で、直江兼続の『愛』の兜の前立ても、愛染明王に由来しているという説明が書いてありました。

ここでは「愛」の字の軍旗が、謙信の時代から存在していた、というところから話が展開。

謙信が使った軍旗の「愛」は、愛染明王からとったもの。
草書で「ホ-乙」という字を縦に書いたような一字の旗で、竿の先に赤く染めたヤクの毛を飾りに付けていたそうです。
実物は こちらの写真 。(信州Live on HP)

それを景勝が受け継ぎ、いつも共に戦っていた兼続と離れて戦わなければならない場合が出て来たため、兼続に与えた。
兼続もその文字の愛染明王と自分を一体とするために、兜にも同じ「愛」の字を付けたという話でした。

もちろん愛の軍旗の実物も見たのですが、本当のところはまだ霧の中でしょうか?
歴史は分からないから面白い!

11月27日(日)まで、上越埋蔵文化センターで 謙信公と春日山城展 をやっています。
久しぶりの大河ドラマ「天地人+天と地と」展みたいな感じ?
天地人の小道具やセットもあります。

タッチパネルのクイズ方式で上杉の歴史を学んだり、戦国時代の勢力図を垣間見たり、よくできていて面白いです。

GACKTファンも、謙信公祭の準備やインタビューなどの勇姿が見れるよ。
「上越おもてなし隊」のクリアファイルももらえるよ!↑

まだまだ天地人の旅は続きます。


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

春日山の神社仏閣

2011年11月04日 | 天地人
灯台もと暗しで、20年ほど前に行ったきりの春日山。
今回も別目的で行き、「まさか立ち寄れるとは思わなかった。けどラッキー!」の旅。

春日山は標高は180mほどの山で、春日山城はその頂上。
麓の集落はもちろん、中腹の神社仏閣も城の一部として存在しています。


春日神社 ノ一の鳥居。(上越市HP)
「春日山城」の名前の由来になった神社が、奥のこんもりした丘にあります。

958年(平安時代)、越後の国司・藤原朝臣為信が奈良の春日大社を分霊を勧進して祀り、1362年(南北朝時代)の越後国司・上杉憲栄が今の春日山に城を築く時、鎮守として鬼門封じにおいた神社。


山門の表↑ 裏↓


曹洞宗春日山林泉寺 の山門には有名な謙信直筆の大額・・のレプリカ。
本物は宝物館で見ることができます。(林泉寺HP)

林泉寺は、謙信の父、長尾能景公が長尾家の菩提所として創建した寺。
上杉謙信が7歳の時から、天室光育和尚に学問を学んだ場所。
大正5年に建てられた謙信の墓所があります。

兼続が学んだ雲洞庵を想像していたのですが、明るくて禅寺の枯れた感じ今ひとつ。

が、この宝物館で目から鱗の上杉軍旗の話を知り、とても勉強になりました。
長くなるので別ページを書きます。(萌え!)


春日山神社 は、明治34年に米沢の上杉神社を分霊して建立。(Wikipedia)

・・・なんだか戦国時代です。

上杉おもてなし武将隊 の皆様に遭遇。
存在を知らなくて、「今日はお祭りですか?」と聞いてしまった。。。(滝涙)

謙信公にも銅像(白い矢印)の下で同じポーズをとってもらったのだが、携帯のカメラなので写り悪い。ゴメン!

鎧兜のフル装備をすると男性陣で20kg女性陣で15kgの重さの衣装を、夏のさなかも抱えておもてなし!
言葉遣いまで、あっぱれななりきり度!

上越埋蔵文化センターで3月~11月27日までやっている 謙信公と春日山城展 のPRをかねてやっているそうです。(知らなかった・・・(T^T))

この辺からミーハー一直線になっちゃって、神社仏閣巡りから逸脱・・・
楽しかったです!


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

居多(こた)神社と五智国分寺

2011年03月20日 | 天地人

白鳥の、シベリアへの渡りが始まりました!
今日は朝から多くの白鳥が、鳴き交わしながら、編隊をつくって飛んでいくのが見えます。

世の中で何があっても、春ですね・・・

さて昨日、用事で上越に行ったついでに、越後一ノ宮  居多(こた)神社 に行ってきました。(Wikipediaより)


主祭神は、大国主命と奴奈川姫、その子の建御名方命(諏訪大社の祭神)。

弥彦神社が伊勢系の越後一ノ宮なら、居多神社は、出雲系の越後一ノ宮?

この神社のある「居多ヶ浜」は、比叡から流罪となった親鸞聖人上陸の地でもあり、聖人の伝説がいろいろ残っています。

越後七不思議の一つ、葉が片方にのみ生える、「片葉の芦(かたはのアシ)」が群生する場所。


神社から徒歩3分の場所に、 五智国分寺 があります。(五智国分寺HP)

1200年前に聖武天皇によって、日本全国に建てられた国分寺の一つですが、ここは上杉謙信の時に、この場所に再興されています。

神社でもお寺でも、手を合わせ、この国の厄災を救いたまえと、祈らずにはいられませんでした。

この2つの史跡は戦国時代、上杉謙信亡き後の御館の乱の戦場として、景勝と兼続に焼かれた神社仏閣でもあります。


遠い戦国の世と違い、今はみんなが助け合える。

領民のために、私財を投じた直江兼続を思い出しました!

家康に会津120万石から米沢30万石に移封された時も、家臣みんなで米沢に行き、一軒の家に何家族も住んで冬を越した景勝と兼続。

できる!!今はもっと安々とできる!!

私達の先祖は、あの乱世から今の時代を作りました。
私達の血と遺伝子の中に、脈々とその力が流れていることを忘れずに、頑張りましょう!!


龍馬・・・伝2

2010年11月22日 | 天地人

以前書いた日記「 龍馬・・・伝 」でバスツアーに行った、 京都霊山護国神社 幕末維新ミュージアム・霊山歴史館 を、今度は自力でゆっくりと訪れました。

京都東山は今、紅葉の真っ盛り!→
観光シーズンも真っ盛りで、ミュージアム近くの駐車場をゲットするため、8時半には現地へ。

それなのに高台寺のまわりで迷い、狭い石畳の道を右往左往しちゃいました。(T^T)

めでたく駐車場に入れ、まずは龍馬と中岡慎太郎のお墓参り。
今回は人が少なめで、キッパリ写真も撮って来れました!↑

先回行けなかった、桂小五郎(木戸孝允)と高杉晋作のお墓にもお参りしてきました。
それにしても早くから、大勢の方がお参りに来てますね~。

ミュージアムが開くまで時間があったので、ねねの道を通り、円山公園を抜けて八坂神社へ。

観光案内をしてくれる人力車や、観光客の扮した舞妓さん(かな?)が歩いていたり、外人さんが托鉢僧をしていたり、楽しかった!


円山公園には、龍馬と中岡慎太郎の銅像が、紅葉を背に立っていました。
お墓の前にある銅像を大きくしたもので、TVで紹介される銅像ですね。


八坂神社 の南楼門。↑

ハッピーなカップルの、結婚式が始まるところでした!

幕末維新ミュージアムは、先回見れなかった解説ムービー系を全制覇し、いくらか替わっている展示品を見て来ました。
特に「船中八策」は、凄いと思ってみてきました。


お天気がよくて、とってもいい旅になりました。
帰りに撮った立山の夕暮れ。
雪がバラ色に染まり、実はこの横にほぼ満月の月がでていて、幻想的な風景を楽しめました。

さて来週は・・・ふふふっ


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

とらえ方の面白さ

2010年08月17日 | 天地人

NHK新潟放送局ハートプラザで昨日から始まった、 龍馬伝巡回展 に行ってきました!

浮気、しまくってますね。

本当に昨年の「天地人」、今年の「龍馬伝」と、いろんな意味で変化する今の時代的に、とてもタイムリーな内容だと思っています。

個人的に今年の龍馬伝は、天地人ほど本を読んだり、史跡褒めぐったりといった入れ込みはありません。
ありませんが、龍馬という人間像、人との関わり、時代の動き、そういうものに関心を持ちながら、毎回ドラマを見ています。

面白かったのは、龍馬を演じる福山雅治さんのインタビュー。

単独インタビューの中では、龍馬が人の話をよく聞く人だったんじゃないか?という話。
また変化する動乱の時代の中で、この時、この瞬間に、これが正義だと思うことを、選択していったんじゃないか?という話。

そんな坂本龍馬のとらえ方や時代のとらえ方が、バシャールの話に通じるものがあったり、深いなぁと思って聞いてきました。

また、ビビる大木さんの番組紹介インタビューで、こんな言葉の使い方が心に残りました。
物語が進むにつれて、龍馬が腹芸をするようになって行く。
顔と言葉、それと違う内心を持つようになる。
福山さんは、そういう人のずるい面、ひたむきな面も見てほしい的なことを言っていたんです。

あぁ、そういう言葉で捉えるのか?と、ちょっと驚き。
人の二面性、腹芸って、気持ち悪いというか、よくは思わないでしょ?
それを「ひたむき」という言葉で、物事を成し遂げる人の、一つの心のアイテムとして、必死な一つのパフォーマンスとして、ポジティブに捉えることを教えてもらったように思いました。

インタビュー全般そうだったのですが、さすがシンガーソングライター、言葉を選んで、丁寧に話をしているなぁって思いました。

人の言葉のとらえ方も、また人それぞれなのですが・・・

弥太郎を演じている、香川照之さんのインタビューも面白く聞きました。

まぁ、ここに書いたのはほんの一部ですので、お近くの方は、ぜひ行って聞いてみてください。


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

龍馬・・・伝

2010年07月21日 | 天地人

京都2日目は、亭主の希望で「京の龍馬伝~大龍馬展と伏見のまち~」のバスツアーに参加!

今年の大河ドラマに、ちょっと浮気。。。

上の写真は、東大路通りから京都霊山護国神社へ向かう参道「維新の道」。
すぐ側に 高台寺 (高台寺HP)、二年坂、三年坂、ねねの道などあり、東山の一大観光地です。


維新の道を登ると 京都霊山護国神社 。(Wikipedia)

ここは明治5年に、明治天皇の命で維新の志士たち、千人以上の御霊を祀った神社。
ここに近江屋で暗殺された、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓が並んであります。

この二人の墓だけ鳥居があり、別格。
←写真は龍馬の墓で、龍馬は体育座りをして、眠っているそうです。

ものすごい数の参拝客で、写真を撮れる状態じゃなかったです!


京都霊山護国神社の隣が、 幕末維新ミュージアム・霊山歴史館 。(霊山歴史館HP)

幕末維新の専門歴史館で、今年は年間を通して展示物を変えながら、「大龍馬展」を開催。

映画の特殊メイクの人が作った、龍馬の等身大人形がリアル!
バスガイドさんが「夜中に動いていると思います。」って言ってたけど、そうかも・・・
2時間はほしい場所でした。


そして伏見の 寺田屋 さん!
専属のガイドさんがいて、龍馬と寺田屋事件について説明してくれました。

ここも人でごった返していて、中に入るのに長蛇の列!
恐るべし大河ドラマ。


中には、龍馬と寺田屋に関する資料などが、所狭しと置いてあるのですが、寺田屋自体は伏見の戦いで焼失しています。

このお龍さんが入ってた風呂も、こんな感じ?というレベル。

知らなかったのが、死後も活躍した龍馬の話。

日露戦争の時、龍馬は明治天皇の皇后の夢枕に立ち、日本海軍守護を誓い、その通り大勝利する。

これで霊山護国神社の龍馬の墓の前に忠魂碑が建ち、寺田屋にも金一封が下賜され、寺田屋事件で散った薩摩九烈士の碑が建てられたそうです。

恐るべし坂本龍馬!

また東山をはじめ、京都の歴史を散策したいと思います!


皇心のセッションルーム Angel's smail です。