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Crystal Heart ・・☆

私はどこから来てどこへ行くのか・・・光の世界を追いかけて

長浜城と石田さんち

2010年07月20日 | 天地人

京都が祇園祭で兼続関係の史跡巡りができないため、急遽、秀吉の長浜城こと 長浜城歴史博物館 へ行って来ました!(長浜城歴史博物館HP)

ここには展示品の説明をしてくれる、ボランティアガイドさんがいて、声をかけると懇切丁寧に説明してくれ、感激でした!

「なぜここに秀吉の城が築かれたか」「火縄銃の着火方法」「太刀と刀の違いと展示方法の違い」「馬防柵と桶狭間の戦い」等々・・・
今まで知らなかったことを、いっぱい教えてもらい、勉強したぞ!


天気がとってもよかったので、天守閣から、対岸の比良山地、安土城跡、彦根城まで一望!


長浜城のガイドさんに、「石田町の公民館に三成の資料がある」と聞き、地図を頼りに行って来ました!

・・・というか、久しぶりに 『いしだみつにゃん』 を見て、今年は生誕450年だったのを思い出して火がついた。(笑)(ひこね街の駅・戦国丸HP)

石田会館は、と~ってものどかな町外れにあります・・・


建物の外に、三成の像と生誕の地の記念碑、堀端池があります。
この辺いったい、4500坪が屋敷だったとか。

ここでは三成の生涯のビデオを見せていただき、公民館の方に話を伺いました。
挨拶する時、お互い「昨年は一緒にテレビに出させていただき、お世話になりました~」・・・って、どうなの?

もう『うちの子(兼続)が、お世話になりました!仲良くさせていただいて、ありがとうございます!』のノリ。(大笑)


三成のご両親と、頭蓋骨、そこから復元した三成の顔。
その他にも、いろいろな資料や写真が展示してあります。


近くにある石田神社には、一族の慰霊碑が建っています。

慰霊碑の後ろの山、ここを越えると「関ヶ原」!

まさか石田三成ツアーになるとは、思わなかった一日。

来年のNHK大河ドラマは、浅井長政の三女、 江姫 と三姉妹の話『江』です。
またご縁をいただきそう!


最後は比叡山のガーデンミュージアムから見た京都市内。
祇園祭の山鉾巡行も終わった市内。

左から4分の1くらいの場所に、ピコッと京都タワーが建っていますが、見つけられた方は、ラッキー!

明日は、いよいよ浮気します!


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

直江川

2010年05月05日 | 天地人

ごく最近まで知らなかったのですが、新潟市南区(旧・白根市など)を流れる 中ノ口川 の別名を、直江川というのだそうです。(新潟市ガイドHP)

火坂さんの原作「天地人」の中で、「兼続が16年間治水工事を行った・・」と書かれているとのこと。

全長約32Kmのこの川は、現在の燕市の八王寺から、信濃川を分岐して掘った人工の川です。
この工事を「直江工事」といい、できた川は「川幅は2~3間(1間=ふすま2枚幅)で、歩いて渡れた」と、地元で口伝されているそうです。


その後、何度も大がかりな工事がなされ、現在では、押しも押されもしない一級河川!
その岸は、お米はもとより、桃・梨・葡萄などの一大産地となっています。


直江川の川辺に、この連休は、桃の花見に行って来ました。

満開の桃は、とっても綺麗!
癒されます~~~っ!!


新潟は、字のごとく「潟」の多い、水の土地。
信濃川が運んだ土砂が堆積してできた土地で、昔は、土地が低く、網の目のように水路があった場所。

良くも悪くも「水」がネックで、腰まで泥田に沈みながら田植えをする状態が、戦後まで続いた土地もあります。

そんな土地の治水は、どれほど大変だったでしょう。

兼続を始め、先人の頑張りが、現在のこの花を私に見せています。
時間がこの花一輪に、凝縮しているように感じます。

天と地と人に、感謝の日でした。


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

笹野高史講演会

2010年03月17日 | 天地人
天地人で豊臣秀吉を好演された 笹野高史 氏の講演会、「私の役者人生」を聞きに行ってきました。(所属プロダクションHP)

天地人の裏話を聞けたらいいなぁ~と・・・
とてもコミカルに、明るく、秀吉の役そのままの調子で、お話ししてくれました!

もともと自分が秀吉の自画像に似ていると思っていたので、ずっとやりたかったそうですが、秀吉クラスの有名人になると、おいそれと誰でもやらせてもらえるわけではない。

2007年に『武士の一分』で、第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、2008年に出演した『おくりびと』が第81回アカデミー賞外国語映画賞を受賞。

そういう経緯もあって、天地人で豊臣秀吉役に。
信じられなくて、何度もNHKに確認を取ったそうです・・・

決まってからは、カツラ、衣装、化粧は言うに及ばず、少しでも秀吉の肖像画に似せるべく注文をつけまくり、秀吉になりきる努力の数々。

それが功を奏して、彼の秀吉は評判がよく、もう少し早く死ぬはずだったのに、なかなか死なせてもらえなかったそうです。。。

が、いざ死ぬ時は、自分の周りにカッコイイ小栗 旬さんがいて、憧れの富司純子さんや、惚れ惚れするほど美しい深キョンもすがりついてくれ、こんなに幸せなことはなかった・・・とおっしゃり、もう一回臨終の場面を再現してくれました。。。

それは別にしても、役者として幸せで泣けたそうです。


ブッキーは誰がみても同じ、笹野さんがみても、好青年という評価ですね!

小栗さんは、何を考えているか分からなかったそうで、俳優であり監督でもある小栗さんは、いつも演じながら遠くを見ていた・・・とおっしゃってました。(笑)
しかもツーショットでは、セッシュ(踏み台)を使って、背丈の調節をした話を面白おかしくしてくれました。

北の政所役の富司純子さんは、出演を迷ったそうですが、笹野さんがプッシュしたとか・・・

織田信長役の吉川晃司さんは、笹野さんより若いのに、史実の信長は秀吉より年上!
年齢的に恐ろしい役者設定の信長と秀吉だったという話も、聞かされて始めて気づきました。
確かに、老けた羽柴秀吉でしたね・・・

天地人以外にも、いろいろ話を聞けたのですが、最後に「人はみんな役者だから、それぞれの役所を、上手に演じてください。」というお話。
その通りだなぁと思いました。

天地人から学ぶこと、これからもまだまだありそうです!


皇心のセッションルーム Angel's smaile です。

天地人を語る@原作者

2010年01月24日 | 天地人

まず始めに、本日をもってNHK大河ドラマ「天地人」公式HPが閉鎖になります。
また今後も天地人博HP等の閉鎖も考えられ、ブログ記事のリンク切れが発生します。
この点、あえて修正いたしませんので、ご了承ください。

さて今日は、「天地人」の原作者である、 火坂雅志 氏の『天地人を語る 直江兼続の義と愛』という講演会を聞いてきました。(Wikipedia)

天地人の放送決定後、いろいろな場所で講演会をされているんですが、地理的また日程の問題で、聴講できませんでした。
今回やっと念願かなって、行ってきました!

私は原作を読んでいません。
「天地人を訪ねる旅」系の本は、読んでいるんですけどね。

すでにドラマは終わっているわけですから、どんな風に話をされるのかなぁ~、と思っていたのですが、それなりにラッキー?

「ドラマが終わるまで話せなかった、俳優さんや撮影の話なんかもします。」とおっしゃってくれて、1時間半の講演スタート!

ご自身が歴史小説家になった経緯、兼続を書くことになった経緯や、大河ドラマに決まっていく経緯を皮切りに、話は始まります。

子役の加藤清史郎君の話を交えながら、兼続が謙信の元で学んでゆく課程を、そして謙信の死後、景勝24歳、兼続19歳で戦国の世に投げ出されていく様と、信長、秀吉、家康と渡り合っていく課程を、それぞれの俳優さんのエピソードを交えながら、聞くことができました。

しかし、何度聞いても「魚津城の戦い」の話だけは、『あと1日もってくれれば・・・』と言いたくなります!

下克上の戦国の世で、謙信が『義』を貫くために、平行して『経済』の基盤をしっかり持つことが大切という話には納得です。

最後に禅林文庫を作った兼続が、まだやり残したことは、蔵書の銅活版印刷。
それを完成させたのがお船さんとは、知りませんでした。

火坂さんは、原作をドラマにすることについて、ただ一つ『雪国の心』を描いて欲しいと望んだそうです。
年の半分を雪に閉ざされた中で育つ人間。
それに負けない心。
そして雪国新潟の、景気の美しさを。

あの最終回は、火坂さんもとてもよかったと言っていました。
もちろん、火坂さんの要望は、ドラマの脚本として映像として、全編を通して随所にちりばめられていたことにも、満足だったそうです。

自分の原作が、素晴らしいドラマになったこと、それに関わるすべての人達、見てくれた数多の人達に、心から感謝され、最後に感極まって涙されて講演会を終わりました。

火坂さん自身も、長い不遇の時代を経てやっと作品が認められたのは、厳しい冬の雪を過ごす、雪国の人達に通じます。
きっと、心に響くものがあったのでしょうね。
ちょっと幸せな感動を、もらい泣きでした。

素晴らしいことは響き合う。
あなたの幸せは私の幸せ。

いろいろ話をしてくださってありがとうございました!
とても素晴らしい時間に感謝です!


皇心のセッションルーム Angel's smail です。

景勝の土塁跡と伊達政宗屋敷跡

2009年12月31日 | 天地人

伏見稲荷の次は、景勝と兼続が作った伏見城の総構の土塁跡へ。

桃山町丹下の 栄(榮)春寺 と、桃山正宗町の 海宝(寶)寺 に跡があると聞いています。(伏見区役所HP)

栄春寺さんに行くつもりが、迷って海宝寺さんの正面駐車場に突入!

海宝寺さんは、 普茶料理 で有名なところなので、お客さんかとお寺の方が門まで出てこられました。(トップの写真)

正直に、新潟から兼続の史跡を訪ねてきている旨を伝えると、土塁は住宅地になってしまったと教えてくれました。(残念!)

が、お寺は伊達政宗の上屋敷跡なので、ゆかりの品々を見ていくように誘ってくださいました。(ラッキー!)


正宗公お手植えのモッコク。↑
樹齢400年以上と言われ、木が弱っているため包帯を巻いて治療中。
脇に仙台市から寄贈された二代目のモッコクがあり、屋敷跡の説明板も仙台市のものでした。

もう舞い上がったのが、正宗公のお位牌を見せていただけたこと!
サプライズ・ラッキーです!

高さ60cmは軽くある大きさ!
竹に雀紋と裏に死没の年号が入っています。

写真撮影も許していただき、持たせてもいただきました。
けっこう重いんですね、木なのに。(義父の位牌と比べたりして・・)

しかし、なぜここに位牌があるのか聞き忘れました。
海宝寺さんは300年ほど前に建てられていて、正宗はその70年以上前に亡くなっています。
またお位牌は、仙台市のお寺にもあるんです。
住職さんのお話では、今でも18代当主との行き来があるそうですから、深いご縁があるのでしょうね~。


今度は方丈(住職の居間)にあげていただき、見せていただいたのが、豊臣秀吉遺愛の手水鉢。(↑写真)
秀吉が鷹狩りに行って腰掛けた石を、記念に利休に持ち帰らせ、伏見城の白書院の手水として使ったもの。


何気なくつっきたのが「若沖筆投げの間」。(↑写真)
江戸時代の絵師、 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) が、この部屋の襖絵「群鶏図障壁画」を最後に、絵を描かなくなったので、そう呼ばれています。

件の襖絵は、京都国立博物館にあり、文化庁が運営する 文化遺産オンライン で見ることができます。(「群鶏図障壁画」にリンクしています)

その後、住職さんが来られて、お茶を振る舞っていただきながら、若沖の話やお寺の歴史などを、うかがうことができました。
信じられないほどラッキーな一時でした!


さて、本題の景勝の土塁は、栄春寺さんで発見!
裏手の墓地にひっそりと、でもしっかりとした石組みが残っていました。
やっと探せたよ・・・殿、兼ちゃん!

今回もいい旅で、この年を締めくくることができました!

皆様も、どうぞ佳いお年を!


皇己のセッションルーム Angel's smail です。

景勝町と伏見桃山城

2009年12月29日 | 天地人

恒例の年末・京都の旅。
今回は、伏見区の天地人の史跡をまわってきました。

ずっと亭主が行きたいと言っていた、景勝町の 景勝橋 を見に。(Mapion地図:赤の+が景勝橋)
景勝の下屋敷がここにあったことが、景勝町の名の由来になっています。

で、上の写真が件の景勝橋。
TVや写真で紹介されるので、ちょっと期待して行ったんです!
が、橋のたもとがゴミ置き場になっていまして、「殿、町の生活に溶け込んでますねぇ~。」と、思わず・・・


景勝橋の隣には、緑色の新景勝橋がかかっています。


さて、殿がホッと一息つく下屋敷跡を後にして、景勝橋から南下、舞台町を通って徒歩5分ほどの丹波橋通へ。
通りの 西丹波橋 に立つと、殿のご近所さんの武家屋敷跡が見えます。(Mapion地図:赤の+が西丹波橋)

1.が毛利家の下屋敷のあった毛利町。
2.が石田三成の下屋敷のあった治部町。(三成は、従五位下治部少輔という位だった)

そこで振り返ると、あら~!伏見城が見える!

残念ながら伏見城ではなく、今は閉園している遊園地、伏見桃山城キャッスルランドの模擬天守閣です。

しかしキャッスルランドの跡地一帯は、秀吉の 伏見城 の跡地でもあるので、行ってみることに!(フリー百科事典・Wikipedia)
昔はこんな風に、殿のお屋敷から、お城が見えたのかも。


景勝町から車で10分くらいで 伏見桃山城 に到着。(Mapion地図:赤い+が城)

有料駐車場があるんですが、イベントがあり、「散策?なら無料にしとくよ。」と、超ラッキー!!

城の外観は、映画撮影のため、大阪城に作り替えられているとのこと。
花の季節には、見応えがあると思います。

実際の本丸は、伏見桃山陵(明治天皇の陵)。
伏見城の跡一体は、そうそうたるメンツの戦国大名の屋敷跡であり、町名がそれを物語っています。


本丸のすぐ近くにある、 桃山町治部少丸 は、三成の上屋敷跡。(Mapion地図)
今は、治部池という池があります。

笑えるのが、隣の桃山三河町というのが、徳川家康の上屋敷。
隣同士で犬猿の仲?
秀吉の死後、加藤清正らが三成の大阪の屋敷を襲った時、彼はここに逃げ込んだようです。

その他にも訪ねてきましたが、また次ぎに・・・


皇己のセッションルーム Angel's smaile です。

上越天地人博

2009年12月21日 | 天地人

大雪注意報の中、開催を残すこと2日となった、 越後上越 天地人博 (上越天地人博HP)に行ってきました。(もう根性!)

4月にもお邪魔ししているのですが、その後、 「御所参内・聚楽第行幸図屏風」 (上越博物館HP)などが発見され、複製が展示されているということで・・・(実物は、現在一般公開されていません)

閉幕間近とあって、イベント盛りだくさん!
イメージキャラクター 「上越忠義隊けんけんず」 の『けんけん』がお出迎え!(上越天地人博HP)

南魚沼の「こめつぐ君」や、米沢の「かねたん」達は可愛いと思ったけど、上越のキャラは、固くて柔らかい羊羹みたいな、とらえどころのないキャラです・・・

入り口で、4月には配っていなかった、謙信公「義の塩」をいただき(南魚沼の米に対抗したらしい)、中へ。

この会場のメインは、役者さんが化粧や衣装を着ける課程を見ていける、スタンバイエリアと春日山城内の再現セット。
パパイヤ鈴木さんが、甘粕さんになっていく様子が楽しいです。

また謙信役の阿部さんのインタビューが、楽しめました。
もちろん再現セットでは、撮影で使った謙信の衣装などを着て、記念撮影もOK!
あっ、撮影で使った、謙信の遺骸を入れた瓶が置いてありました・・・

屏風も、写真複製のものでしたが、見てこれました。

もちろん上杉の歴史や史跡の紹介も、よかったです!
上越は、行っていない史跡が、いっぱいあります。

そんな上越天地人博も20日で終了。

外に出ると、坂本龍馬くんがいるではありませんか!!
次の大河ドラマ「龍馬伝」の 「土佐・龍馬であい博」 のイメージキャラクター、坂本龍馬くんが高知から駆けつけてくれていました!

「写真撮らせて!」と言ったら、「ちょっと待って!」と左手で制して、右手をやおら懐に・・・
龍馬の銅像のホーズをとってくれました。(笑)

しっかりハンサムな龍馬をPR~!


帰りに、近くの御館公園によってきました。
謙信が、関東管領・上杉憲政を迎えた屋敷跡であり、謙信の後継者争いで、景虎が本陣とした場所です。

どんな栄華も戦いも、この地に積もる雪のように、いつか消えゆく定めなのでしょう。

四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒


皇己のセッションルーム Angel's smail です。

天地人・NHK新潟

2009年11月23日 | 天地人

『大河ドラマ天地人』が最終回を迎えました。
ドラマなので、「そんな史実はない!」と目をむかず、「さすが兼ちゃん!よっ!日本一!!」くらいの大らかな心持ちで、見届けたいです。

そこで最終回の日、ずっと行きたかった NHK新潟放送局 天地人ロビー に行ってきました。


何度か模様替えをしているのですが、初めて訪れました。
今回は衣装を中心に展示。

天地人の衣装は、人物感重視で、季節感がないというか・・・夏冬通して同じ衣装を着ているなぁ~と。(笑)

その他に、役者さんのインタビューパネルや、甲冑・書状などの歴史的な裏付けパネルなどがありました。

面白いのが、メイキングやCG合成裏話の映像!
どれもドラマの初期のネタだったのですが、思わず吹き出したり感心したり。
楽しませていただきました。

帰ってから見た最終回「愛を掲げよ」は、涙々でした~。
まぁ、話の流れの中で、いろいろ感じるところはありました。

家禄も領地も返上して、直江の家を(婿に入ったにもかかわらず)自分の代で、終わらせるという考え方。
兼続が亡くなる場面で、「こんな風にチューブも針も刺されずに、家で最後が迎えられるって、いいなぁ~」とかね。

そしてお船さん。
子供達に先立たれ、夫にも先立たれるその時の気持ちって、どんなだろう?
まぁ、上杉家の跡継ぎの「母」という立場ではあったのだけれど・・・

現実は小説(ドラマ)より奇なり!
きっと私達の日々も、紅葉のごとく織りなす錦が色濃く、美しいのでしょうね。

大河ドラマは最終回ですが、私の天地人紀行はまだまだ続きます!
よろしくお願いします!


皇己のセッションルーム Angel's smail です。

景勝・兼続の屋敷跡

2009年11月16日 | 天地人

いよいよ天地人も最終回が近くなってきましたが、私の天地人は、まだまだ続きます。

先週に続き、週末の京都強行軍、第2弾!
今回は、車で京都市内の景勝・兼続の屋敷跡(聚楽第の武家屋敷跡)を巡ってきました。

上の写真は、かの有名な 安倍晴明神社 (晴明神社HP)
一条戻り橋の晴明神社に車を置き、駅の方に向かって散策開始!

晴明神社は、千利休の屋敷跡でもあり、 晴明井 の水で最後のお茶を点てたといわれています。

神社から400mほど行った黒門通りに、 弾正町 (Mapion地図)があり、景勝の屋敷跡の石碑があります。
景勝の弾正少弼という官職名から、町の名前が来ているといわれています。
ちなみに弾正少弼とは監察・警察のことで、利休の最後を警護したのは当然の職務だったわけです。
ご近所さんで、きっと頻繁に行き来があったのでしょうね。

さて、一条から下立売通までの一体に、秀吉の 聚楽第 (他人様のHP)があったといわれています。

左の写真は、中立売通に面した西陣ハローワーク向かい 聚楽第跡の碑 。(Mapion地図)
右は、同じ通にある、正親小学校前の聚楽第跡の碑。

この辺いったいは聚楽第跡でもあり、その前は大内裏でもあり、史跡がかぶって存在しています!

晴明神社の二の鳥居の前の道を真っ直ぐ、1.5㎞ほど二条城に向かうと『直家町』という町に着きます。
ここに 直江兼続・上杉景勝屋敷跡の碑 (Mapion地図)、があります。
直家町が、兼続の屋敷跡。
北側の堀川通に面した長尾町が、景勝の屋敷跡だそうです。

今でも町名が残っているなんて、うれしいです!
戦国時代の後、この地で大きな動乱がなかった証拠でもありますか?

うふふっ、亭主が近くのコンビニでゲット!

今は、昔を偲ぶものはありませんが、2時間ほど散策して神社に帰りました。

次回は、ぜひ伏見の屋敷跡の方を訪ねてみたいと思います!


皇己のセッションルーム Angel's smail です。

家康の二条城

2009年09月25日 | 天地人


旅の2日目は、京都の寺院をいくつか巡り、天地人で松方さんが好演している家康の城に行ってきました。

二条城 、もしくは二条亭。(二条城公式HP)

ここは、時代の始めと終わりが同時に存在する場所・・・

関ヶ原の戦いに勝利した家康が、京都での宿舎として建てたもの。
現在では、↑写真の二の丸御殿だけが、当時の様子を伝えています。

中は部屋に沿って、廊下をずっと歩いて行くのですが、保存状態のいい 障壁画 を見ていくことができます。(このリンクからも一部見れます)
残念ながら、建てた時から20年以上後の絵ですが・・・

板張りの廊下が「キュッキュッ」って、鳥みたいに鳴くんです。
とてもいい感じ!(「鶯張り廊下」と教えていただきました)


また、やたら松の多い 二の丸庭園 があります。
よく考えると障壁画も松が多いので、戸を開け放った時に、内にいながら外にいるという、一体感を感じられるのかもしれません。


今回、清流園が特別公開されていたので、そちらも見てきました。
きれいな水の流れと緑が、本当に調和して、ホッとさせられる空間でした!

しかし、この二の丸御殿の奥の大広間は、「大政奉還の間」。
徳川の歴史は、二条城に始まり、その終焉も、この地で迎えました。

すべては、ただ春の夜の夢のごとし・・・


この二条城を、府道187「丸太町通」で挟んだ向かいに「直家町」という小さい区画があります。
秀吉の「聚楽第」が上京区(直家町のさらに奥・北の方)にあった時の、兼続の屋敷跡です。

直江屋敷跡(マピオン地図) 、赤い+印から丸太町通あたりまで。

この地図で、直江屋敷跡の斜め上、堀川通に面した「寺崎ビル」がある辺り一帯が「長尾町」といって、景勝の屋敷跡です。

次回、伏見や弾正町の屋敷跡も含め、行ってみたいと思います!


皇己のセッションルーム Angel's smail です