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Cozy小路

B級グルメとB級生活を愉しむB級ビジネスパーソンの日常

久しぶりに焼き肉「味ヨシ」 大阪 鶴橋

2009-07-10 21:04:43 | 関西グルメ
母の後期高齢者医療保険証の更新手続き等で帰阪し久しぶりに鶴橋で焼き肉。
贔屓の店「白雲台」は団体客満員で入れず向かい側の「味ヨシ」へ。咀嚼力の落ちた母にせめてと思ってロースだけ極上2800円を頼みました。
確かに柔らかいですが金額に合った価値は見いだせず、これだったら「鶴一」にすればよかったと一寸後悔。でも「鶴一」の前は少し歩き辛いんですな、これが。
馬鹿馬鹿しい話ですが、鶴一本店の一軒おいて右隣が小学校時代にクラスで一番、二番を競っていた女の子(初恋の女の子でもある)の生家の呉服屋(勿論今は無いが)だったから何となく背中の寒くなる後ろめたい気分に襲われるのです。その子も私も体育は駄目だった。音楽は二人とも優秀だったが、その子は書道が上手く、私は書道もからきし駄目だった。修学旅行の集合写真でその子の両足だけが魔法使いサリーみたいに足と足の間に隙間が写っていない人形の真っ直ぐな足みたいに不思議な形だったこと。その子のお母さんは家業から当然だがいつも着物を着ていて綺麗なお母さんだと子供心に思っていたのに30代後半くらいで病を得て亡くなってしまい、可哀想だと思ったこと、PTAのお母さん達が「美人薄命よね」と噂していたこと・・
二人とも中学までは成績優秀で大阪の学区制の頂点の高校に進学したまでは順当だったが私は落ちこぼれて同志社止まり、その子もぱっとせず確か大阪市立大学だった。今はどんな小母さんになりどんな人生を歩んでいるかなんぞと云う類のことに頭がいってしまい勝ちになるのが予期されるので鶴一近辺は近寄りづらいのであります。
といっても、この店から鶴一まで直線で50メートル位ですが、そこは「焼き肉のメッカ鶴橋」ですからその間に数多の名店が犇めいており、焼き肉屋を10数軒は越さないと鶴一に辿り着かない訳で遠いと云えば遠いのです。
30代までは焼き肉が尤も私に似つかわしいジャンルの食い物でしたから最初の伊丹空港勤務の3年間、そして神戸に戻ってきた3年間に鶴橋の焼き肉屋は大凡制覇したはずです。でも随分知らない店が増えました。
子供の頃は焼き肉という言葉はなく「ホルモン焼き」で内臓肉がメニューの中心で、銭湯の行き帰りに毎日嗅いでいた髪の毛に染みついてなかなかとれない換気扇から直撃してくる煙ったくて香ばしい匂い、今は在りませんね。
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ヨネヤ 梅田地下街 立ち飲み串カツ

2009-05-24 22:04:00 | 関西グルメ
大阪の実家に戻るのに18時発のバスに乗り明石鳴門ルートを初めて渡りました。大鳴門橋は通過所要時間2分弱、淡路島北上は1時間近く掛かって明石海峡大橋は所要時間2分30秒。
18時31分に大鳴門橋を通過した際、渦潮を見ましたが最初で最後かもしれません。明石海峡大橋を渡るととっぷり暮れた左前方に小さな塔。一瞬考えて明石の標準時天文台と見当を付けました。
場所の記憶はありませんでしたが、小学校の遠足で見た塔の形と色は記憶に残っていたのですね。
なんば歩きの講座の後だったので大阪は難波で降りる予定にしたのですが、手前の梅田に着くと、懐かしい新阪急ホテルの横だったので降りることにしました。夕飯を食べるところを探して阪急三番街の地下を歩きます。そういえば神戸勤務時代以降三番街の地下は歩いたことがありません。計算すると25年ぶりですね。万博前に出来た大阪でも旧いほうに属する地下街です。私は高校時代から来ていた訳で何軒か懐かしい店があるので今でも有るかしらんと思って歩き回りましたが、よく行ったピラフ屋もカレー屋もオープンテラス風の喫茶店も別の店に変わっています。ざっと半分は入れ替わった感じです。
20時を過ぎた時間で、はてさてどこで食おうかと思案しましたが、2年前に友人と梅田で待ち合わせた際前を通りかかり「今度絶対来よう」と思った事を思い出して三番街を抜けてもっと旧い梅田の地下街にある「ヨネヤ」へ向かいました。
立ち飲みでカウンターに肘をついた際の足掛け代わりにビヤダルとビールの空き箱が置いてある店内に入ります。

まず牛カツと鶉卵と砂ずり、カウンターには当然、二度漬け禁止のソースとキャベツが置いてあります。
牛カツを食べながら、「俺がこの店に来ていたのは、目の前で接客してくれている兄ちゃん達の生まれるよりはるか昔だな~」
この店に繁く通っていたのはガイドのアルバイトをやって金回りの良かった大学時代の後半と最初の勤務地だった伊丹空港で旅客取り扱いの交代勤務をやっていた頃です。つまり昭和47年頃から52年頃までです。(初回は子供の時、死んだ親父が連れてきてくれましたから昭和30年代末かもしれません)店の奥で洗い物をして、時々タバコをふかしているオバサン以外は絶対生まれてない。
あの頃牛カツは50円だった。いや30円か?、キスは少し高かったかな。今は牛カツは130円です。

牛カツだってパン粉は余りついていないし、ましてフリッタ状になっているのはソースを付けること自体難しいですね。
品物を運んでくるとプラスチック札を目の前に置いていく。色で値段が決まっており札を数えて勘定するのは昔と一緒。
味も変わっていません。B級には及ばないC級グルメの懐かしい味です。肉の薄いのを如何に「かさ増し」て供するか、これにつきます。戦後の貧しかった日本の食文化遺産みたいなもんです。
昔はここで10本程食べて大ジョッキ2杯飲んで、家に帰って普通に晩飯食えたのが不思議です。へたった旧い油の串カツ飽きずに食べたものだと思います。
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いづう 鯖寿司

2008-06-16 15:54:35 | 関西グルメ
今回帰阪の主目的は母の大阪市発行の敬老乗車証の切り替え手続き。住民票は確かに大阪に置いてあるが、東京に住んでいるのだし、もう今更要らないだろうといったのだが、大阪に生まれ育った証として本人はどうしても欲しいらしい。
手続きは郵便局で5分で終わり、天気が良かったので「久しぶりにお伊勢さん参りでもしてみる?」と言うと「お伊勢さんなんて赤福しかないし、どうせなら京都へ行って、いづうの鯛寿し食べて、鍵善で葛切りが食べたい」母がそういうのであれば母の意向優先ですから。
久しぶりに京阪電車に京橋から乗って四条京阪まで。着くと母がとっとこ先に歩いて行く。場所を私自身はうろ覚えなのだが、母は四条通りを迷わず左折、町屋の小路をついて行くと「いづう」の前。 へ~おふくろの京都の街の記憶というか食いものへの執着、大したもんだ。
古い水車を横倒しにした丸テーブルと腰掛けが並んだいかにも「お持ち帰り」が本業ですと思わせる店内。、大学時代は父に連れられて3人で何回か来ている。母はお茶のお友達とちょくちょく来ていた筈だが。私にとってはそれこそ大学時代以来か。
学生時代は京阪電車の始発は三条京阪駅だったが、いずうの売店があり、確か三千円だった。随分高いと思ったが金回りが良かったのでよく買った。
そういう意味では私にも馴染みの味である。

母が女将に「お宅値段ずっと変わりませんね」というと「たぶん消費税が変わらん限りずっと値段は変えしません。」とのお言葉。
「そりゃ元々くそっ高いんだから当たり前っしょ」とおもうのが本音なれど、ありがたいお言葉か。
母の食べた鯛寿しは「今は明石の鯛やのうて大分の鯛使うてます」だそうな。
昔から人が言うほど絶品とは思わない鯖寿司だけれど、相変わらず醤油が置いてなくて、やっぱり少し醤油にひたした方が美味いと思う鯖寿司だけど、久し振りでおいしく気分よく頂きました。
店から出ると丁度前を舞妓が日傘をさして前を歩いて行きました。
生憎「鍵善」は月曜休みで食べられず。秋にはレンタカー借りて真如堂の紅葉を母に見せて葛切りを食べさせてやろうと思った久しぶりの京都。




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いちぼ は 中止? 白雲台 焼き肉 鶴橋

2008-06-15 18:42:54 | 関西グルメ
帰阪の夕飯はいつもの通り鶴橋駅前の白雲台で焼肉と冷麺。メニューがカラフルな体裁に変り、並は輸入牛と読めるが、上、特上は佐賀牛使用をアピールしている。
いつもは塩タンと上カルビと特上ロースの組み合わせだが、佐賀牛の中でも綾牛一日10食限定の「いちぼ」に興味を覚えてカルビの代わりに組み合わせることにした。
店の従業員はいずれも可愛い韓国人の女の子なので、あえて「いちぼってどんな肉?」
「固くない?」と聞いてみる。「固いって言われたことないですよ」「そう、いちぼは
中止!」「えっ中止なの?」「いえ、そうじゃなくてジューシ」「あ~ジューシーね」
私の育った鶴橋は日本で最も在日の多い街。彼女達は多分KJ3つまり在日3世だと思うのが、鶴橋にある朝鮮学校で学んだであろう彼女達にはやはり誤頭に濁音がない母国語の影響が残る。
ふと関東大震災の際、朝鮮人暴動のデマが広まった時にガ行の言葉をしゃべらせて日本人かどうかの確認をしたという忌わしい記事を思い出した。

それはともかく、いちぼは無事出てきたが、ステーキのごとき塊でハサミを添えて登場した。焼き肉グリルでどの程度焼けばいいのか見当がつきにくい。ということを口実に又可愛い彼女を呼んで「どうもういい?」「もういいです。」
5切れ位に切って頂きました。美味かった。


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千日前自由軒 名物カレー

2008-06-15 15:26:55 | 関西グルメ
帰阪時、前は通るものの中にいる昔の美女の姿を見るだけで入らなかったのだが、今回は大阪ダブルランチを試みることになった。前半は「いずも屋のまむし」。
だが店の前には放置自転車多数。休店日かと思って閉まったシャッターに貼り紙が
「三月末をもって閉店しました、永年のご愛顧に感謝申し上げます」
あ~道頓堀の太鼓叩きのメガネ君より前に大阪の名物が消えてなくなってしまっていた。去年食っておかなかったのが何とも口惜しい。
ということでダブルランチ戦略は破たんし意気消沈して自由軒へ。中に入るのは20年ぶり位か知らん。
中に入って思ったことだが今は亡き主人の二人の娘、跡目争いがあったのか?
妹が帳場に座り店を仕切る。姉はいなくなったのかと思ったがごく痩せたウエートレスの長と思える女性がよく見ると姉さんである。
他の給仕のオバサン達とはPositionは違うようだが、店を訪れた芸人たちとの写真に納まっているのは妹で、白べたに化粧を塗りたくって、真っ赤な口紅がストロボの光に不気味に浮き上がっている写真が帳場の後ろにびっしり。勝負はついているようである。
どの写真も黒地に同じような花柄のドレッシーな服装で、袖に水玉模様がついていたりして、高価なものらしいがどうも私にはピエロに見える。
対して大きな店内でないがテーブル毎に「東南」とかロケーションが割り振られている。私の座った長テーブルの端は「東南のトップお1人」と呼ばれる位置らしい。
変わらず繁盛していたが来店客の8割位が「名物カレー」。私の記憶では正式名称は「インディアン」とか「まぜカレー」。恥ずかしい響きのある「名物」とは余り言わなかった。他のメニューも昔通り残っているのだが実質「名物カレー」単品の店となった雰囲気である。店内の貼り紙を見るとレトルトまで販売している。おいおい、勘違いせんといてや、レトルトにして売るほどのもんやおまへんがな。
5分位何故か待たされて出てきたカレーは気のせいか昔の方がもう少し中高に盛られていたような気がするが味は同じ、結構辛くて卵と混ぜてグチャグチャ食べるがちょうど宜しい。
中に「織田作死んでカレーを残す」の看板が。
織田作之助は旧制高津中学卒、私は昭和44年高津高校卒、先輩である。



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串カツ ヨネヤ 梅田地下街 大阪

2007-10-19 22:45:03 | 関西グルメ
高校、大学時代を通じての親友と3年ぶり位で食事することとなった。実際は彼曰く「こましな焼き肉屋」で彼にお世話になったのだが。
大阪帰省中で時間があったので暫く徘徊していない梅田近辺を1時間程度歩いてみた。2回生から4回生まで阪急電車で京都に通学していたし、社会人になってからの最初の3年3ヶ月は伊丹空港に勤務したので梅田地下街は当時は庭であった。
この店は所謂「二度浸け禁止」の庶民串カツの代表店。初めて行ったのは死んだ親父に中学生時代に連れて行かれた時でかれこれ45年ほど前か。この「ヨネヤ」と阪神百貨店の地下から国鉄大阪駅に上がる階段の左脇にある「松葉」が梅田地下街の大衆串カツ代表店だと思うが松葉は通学、通勤の通り道だったので「いい匂いを只で嗅がせて貰った」というのが殆ど、立ち飲みの味として馴染んだのはヨネヤである。松葉は今もあるのかどうか、あの地下道を通らないので分からない。
ヨネヤは親友とも何回も入ったし伊丹空港勤務の時にも一人で、あるいは仲間を誘って繁く通った。
もう20年位暖簾をくぐったことはないのだが余りに懐かしくて携帯で写真を撮った次第。
牛串が定番だが一串当時幾らだったろう。親父に連れられて入った時には10円とか20円位だったろうか。昭和40年代から50年代自腹で繁く通った頃日本はインフレの最中だったが50円だったような気がする。薄い一片の肉が厚い衣を纏ってフリタ風で出てくるのが如何にも大阪庶民グルメだった。
二度浸け禁止とは串もキャベツもソースに浸けて好いのは一度だけという意味だが、当時私も周りの客もそんな注意書きは(そもそもあったのか?)無視して1メートル間隔に置かれたカレーの深皿と思われるソース皿に適当に浸けていた。生ビールか燗酒か気炎をあげて飲んでいるのに一々覚えているわけがない。キャベツの切れ端はソースに浮き沈みしていたしカツの油がべっとり浮いていたが汚いとかこざかしい事をいう客なんか居なかったし店から嫌みを言われた記憶もさらさら無し。
2時間立って飲んでいると揚げ台の前でなくとも髪とシャツに油の匂いがべっとりついたし、脂をタップリ吸い込んだ衣と種が絶妙だったと云う程でもないが満足感はあった。
社会人になると金回りがよくなって「串の坊」だとか「五味八珍」だとかもう少し高級な店?にも通ったが立ち飲み串カツには相変わらず捨てがたい魅力があった。ソーセージだとか牡蠣だとか、うずらだとか必ず食べてました。キャベツはお代わりしてましたーあたり前のことですが。
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天丼の店 千日前 大阪

2007-05-27 18:44:44 | 関西グルメ
10年ぶり位か、千日前の「天丼の店」へ。天丼の店が店名だから致し方ない。
思えば社会人になって職場の仲間を募って「食べ歩きツアー」を初めて企画した口あけの店がこの「天丼の店」だった。昭和49年の事である。ここを口あけにして、次が「千房」の「ぬかるみ焼き」で締めがバーサンボアというのが第一回企画だったように思うが後の2軒は定かでない。
私自身は大学生の頃から通っていて「旨い、安い、早い」の典型的な店だった。
天丼単品の店だから注文するとするのは「赤だし」を頼むかどうかだけなのだ。
当時天丼は幾らだったろう?180円とか250円とか、大阪人の誰もが安くてお得と感じる価格であって、カウンターだけで6人がかろうじて座れる窮屈さで戸もなくて夏は暑く冬は寒い店だがいつも行列ができる人気店であった。
それに比べると現在の600円という価格にはインパクトがない。
当時白髪交じりだった親父は揚げ鍋の前でいつもくわえ煙草で丼鉢に粉を溶き、海老1尾をくぐらせて油に放りいれ、次に2尾掴んで投入、そして10秒後位にオタマで水溶き粉を3尾の上に回しかけて連結する。そして別に揚げてある海苔を載せて奥さんに回す。奥さんが汁をかけて一丁上がり、漬物を添えて出てくるまで1分半だろうか。
当時店の手伝いを始めた息子は細かったが今は亡き親父と同じような体形になり狭いカウンターの中で揚げ鍋の前でお腹がつかえそうで窮屈げに全く同じ手順で揚げている。10年くらい前に訪問した時は親父と同じように煙草を銜えていたが煙草は止めたらしい。そして隣には高校を卒業したて位の3代目が立ち汁を回しかけている。2代目も白髪が増えたが、私が通いだしてから40年近いのだから初代が商売していた頃より今の2代目の方が年老いている事になる。
今となっては大して特徴のない天丼であり、海老の質も一番安い冷凍ものに違いないのだが、甘めで濃い目の汁のB級天丼をかっ込んですぐ近くの法善寺横丁水かけ不動に参るというのは浪速っ子にとってはごく当り前の親しみある行動パターンなのだろう。
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松葉屋 カレーうどん 丼池心斎橋

2007-03-16 15:40:09 | 関西グルメ
心斎橋筋をどんどん北へ。目指すは大阪丸善。そして隠しミッションあり。
長堀通りを越えて心斎橋を北上するのは本当に久しぶり。入って直右手に駸々堂があり、小学校時代には算数ドリルとか参考書を親に買ってもらった店なのだが撤収したらしい。淋しいなと思いつつ丸善を目指したが丸善があった筈の場所も取り壊しになっている。大学に入って丸善でオリベッティーのタイプライターを買って貰った。そしてモンブランの万年筆は自分の稼いだバイト代で買った。タイプは教本を見ながらパチパチやったが結局実につかなかったけれど。
致し方なく隠しミッションを果たすのに専念することとした。
松葉屋でうどんを食う。そして吉野寿司で蒸し寿司を食う。そうなれば大阪での昼食トリプルアクセルが完成する。
しかし松葉屋が見当たらない。船場センタービルを超えてとうとう淀屋橋の手前まで来てしまった。松葉屋の場所を行き過ぎたのは見当がついたが、吉野寿司も見当たらない。
どうも私の地理記憶は間違いが多い。私は両方とも心斎橋筋の延長線上にあると信じて疑わなかったがどうも一本間違っているらしい。途中で鰻の「現長」をみつけて蒲焼とも思ったがそれはやめて一本東側の筋つまり丼池筋を南下して戻ることにした。
吉野寿司は確か平野町と思ったのだがやはり見つからない。船場センタービルを再び超えてようやく「松葉屋」にはたどり着くことが出来た。
でも確か店先に行灯が掛かっていたはずだがない。宇佐美さんはまだ元気かな?と案じつつ店に入ったが度々テレビでも見た宇佐美さんの姿は無い。しかし店内の雰囲気は昔のまま。そうな~この店も25年ぶり位か~。
奥さんに「ご主人は?」と聞くと「え~6年前に」あ~やっぱり。
何を頼もうかと迷った。宇佐美さんに敬意を払えば正統「けつねうろん」もしくは一番好きだった「オジヤうどん」でも結局頼んだのは「カレーうどん」
何故かと言うと東京でカレー蕎麦でもカレーうどんでもそうなのだが、入っている肉は鶏の胸肉が多い。一方大阪のカレーうどんは大概牛肉だと最近気がついたからである。
ここのカレーうどんははたして、やはり牛肉だった。・・・でも最近大阪で食べたカレーうどんは牛肉だけを甘く煮てトッピングしている。しかしここのはそのように別煮した形跡は無かった。ま~何が正統カレーうどんという気は無いけれど。
うどん自体は昔と変わっていない気がした。少し柔らかめのうどんである。
出汁は・・いかんせんカレーうどんなんて下世話なうどんでは昔の記憶と比べることは出来なかった。でも青ねぎが鮮やかだな~。

満足して店を出た。歩いて難波まで戻り、やはりトリプルアクセルを貫徹するか・・と思案しながら、そうか法善寺横町近くの「坂町の天丼」と思い当たった・・
天丼屋の前まで来たが・・まっ歳を考えトリプルはやはりやめておくことにした。
結局ダブルランチと17000歩のお散歩でした。
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明治軒 串カツとオムライス 心斎橋 大阪

2007-03-16 15:35:53 | 関西グルメ
20年ぶり位かな~明治軒で昼飯。最初に行ったのは高校を卒業してから大学に入るまでの無益な一年間で桜川の図書館からトボトボ歩いて帰るときに何回かオムライスを食べた。図書館の食堂のオムライスより旨いと思ったのだろう。
その後10年位ちょくちょく通う店になった。私の大学時代の友人がこの店の跡取りと中学時代同級生だった、つまり現在の主人。
大学時代及び社会人になってから行くときはオムライスに串カツ5本セットの両方を頼むのが常であった。
オムライスはご飯以外に固形物は見当たらない。でも単なるケチャップ飯ではない肉と野菜の旨みが充分に沁みている。ここのオムライスは同じくミナミにある北極星と並ぶ大阪のオムライス代表選手である。
でも私は串カツのほうに思い入れは強い。薄い肉がサクッと軽い衣にくるまれている。そして少し酸味のあるソースが掛けてあるのがなんとも好きである。
今回もオムライスと串カツセットを頼む積りが、やはりこの2種を頼む客が多いのだろう。3本セット、5本セットと串カツとオムライスをあわせた定食メニューが出来ている。歳を考え3本セットを頂くことにした。
店内は改装して綺麗になっているが味は昔と変わらず安心、満足した。
食べ終わったのは丁度正午、まだ昼は長い。
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七福亭 カレー天うどん 鶴橋 大阪

2007-02-17 18:03:10 | 関西グルメ
実家から鶴橋駅への途中にある。駅前通りにあったのだが一本中に入った処でこぎれいな店を構えてからも結構経つ。
最近大阪に帰る機会が図らずも増えてちょくちょく行くようになった。
うどんと蕎麦と比べれば今は蕎麦の方が好みだが、ここのうどんは少し腰が強くて讃岐風だが出汁は大阪風である。
カレー天うどんが一番高いが甘く煮た牛肉をカレー汁に載せた上に海老が2尾、レンコン、カボチャ他盛りだくさんに熱々が載っている。
地元の評判も上々でミニコミに結構紹介されている。1360円でもお値打ちだと思う。

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