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Cozy小路

B級グルメとB級生活を愉しむB級ビジネスパーソンの日常

八重洲 豊月 閉店日に集う

2013-04-25 09:41:30 | Decades before

八重洲の鉄鋼ビルの向かい、地下におりていく蕎麦屋。閉店情報を聞いたのは2カ月ほど前。

我々の根城であった鉄鋼ビルは既に解体され面影ないが、鉄鋼ビルの9階から毎日のように食べに出て、時には夜ワイワイ騒いで飲んでいた八重洲の街の飲食店はどんどん消えてゆく。

我々も同様一線からとっくに消えているわけだが、飲んで賑やかに話を咲かせる元気はまだまだ残っている。

約40年続いた店の閉店日このテーブルが確保できたのは誠に持ってラッキーと言うほかない。

「相変わらず半袖で通してるのね、長いのもってないの?」と聞かれたが「葬祭用に持ってたけど、母の見送りは済んだし、もう不要ですな。」

「自らの葬式のときには、基本的に不要だし」「半袖の帷子がいるんじゃない」

こういう方たちと集うと私は相変わらず、いじられキャラです。

店の方に「私、若いころいつも天せいろ、5段食べてたんだよ」と話したら帰る時ペットボトルを渡されました。

真っ黒いボトルで何だろうと思ったら ツユが入ってました。店を閉めれば確かに使えなくなるものである。・・・せっかくのご厚意ですから

何回か夕食の調理に活用しましよう。

八重洲で飲むのはまだまだ楽しい。

 

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久しぶりに呉服橋交差点から第二鉄鋼ビルを見る

2010-10-05 21:18:20 | Decades before
業務外出の帰り、うさぎ屋のどら焼きが食べたくなり日本橋に立ち寄った。東京駅からJRに乗ることにして呉服橋交差点を通過した。交差点通過の時に久しぶりに第二鉄鋼ビルを仰ぎ見た。後ろに高層ビルが何本も建っているがやはり、夕刻に光を受けている鉄鋼ビルには風格がある。
第二鉄鋼ビルにも、第一鉄鋼ビルにも居たけれど、第二鉄鋼の9階に居たのは20代後半から30代前半にかけてだから私のJ社人生の原点の一つだ。
朝早めに出勤して何層にも折りたたまれて貯まっていたテレタイプを巻き取って一通ずつ定規で切り取って「相変わらずあの貨物行方不明だな」・・・台紙にテレタイプを時系列にテープで張り付けながら「今日はどう言い訳しようか」と考える。一方上司には「まだ今週のセールスレポート出てないぞ」と言われ・・
昼間は都内、都下の当時はまだ貨物代理店と称していた取引先をめぐり、夕方戻ってきてイレギュラー処理のテレタイプを一本指で打って、それが済むとこのビルから八重洲の飲食街に消えていった。充実した?社会人前半を過ごさせてくれた根城である。随分立派な根城に居させてもらったものだ。
そういえば、先日の人形町で集まった際に「伊那盆地」という八重洲にある崩れそうな建物で、不思議な女性のいた飲み屋で「幻」という酒を飲んだくれた話題で暫し盛り上がった。
東京駅に辿り着いた際少々尿意を催し、北口改札内のトイレで小用を済ましながら「そういえば、八重洲で飲んでよく皆で連れションしたな」
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Back to 70's ロイヤルウイング船内で

2009-11-01 22:31:09 | Decades before
先の八重洲大飯店で記事にしたMs.KのJ社卒業パーティーが横浜港のロイヤルウイングのナイトクルーズ個室借り切りで行われました。
Ms.Kは私が旅客部門から貨物部門に移った時に仕事のイロハを教えてくれた恩人お姉さま。
曰くTACT RULE BOOK, PRORATION 計算, チャーター料金の立て方。代理店若手の落とし方云々、そして女性の自立した生き方。
二人でよく飯にも行ったし、若かりし頃の飲み友達。
鹿児島出身の彼女の親御さんがなくなったとき私は偶々鹿児島支店勤務、頼まれた香典を抱えて吹上浜近くの実家での葬儀に参加しました。田舎らしい素朴ないい葬式だったなあ。
「初めて貨物に来たときさ~、5歳位年上だと思ってたよ」「じゃ今は?」「いや同年代に見えるよ」相変わらず彼女との会話は劣勢に立たされる。

小宴で私の前に座っていたのはE夫妻。私が初めてNYCに添乗出張した時に中華街に連れて行っていただいた。「あの時の脱皮蟹、忘れられないですね」
「あのときさ、真冬だというのにコート着ないでジャケットに半そでだったからびっくりしたよ」
夫妻がNYCに赴任したのが1978年の夏、私が貨物部門に移ったのが1978年の9月頃、なので私の初めてのNYCは1979年の2月頃ということになります。
確か、その前の週にNYCは10年ぶりとかいう大雪だったのです。
そしてわかったこと、私の半そでスタイル始まりは1970年代終わりから~う~N

MS.Kには宴の後に、一緒に仕事した否、彼女に仕事を教えてもらった販売1係時代の、『「販1」で一杯やろうね、八重洲で』とメールしたことでした。
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真夏の面接授業への参加前日 於:鹿児島 火山との共生

2007-08-10 14:49:05 | Decades before
屋外実習ものに特化している私の面接授業選択の基準、今回は2日目に京大火山研究所の見学を含む授業。
京都学習センターと鹿児島学習センター共催という面白い企画で一日目の夜には懇親会までセットされている。京都も鹿児島も縁なき衆生ではない私としては是非参加して一席ブツべしと期するものありて参加。往路は前日の金曜日の便が朝便からびっちり満席となり「果て困った」と思ったが幸い熊本便が空いている。これは最初で最後の?九州新幹線利用で鹿児島入りしようと経路変更。熊本空港からバスに乗り、終点の熊本駅に向かう予定が昼飯でもあり、繁華街の通町にバスが近付くと「あっ確か前回熊本から空港行きのバスに乗る時気になる洋食屋があった」と思いだし下車、熊本ダブルランチを挙行するはめになる。それは後述するとして九州新幹線は乗るとトンネルばっかりだがあっと言う間に鹿児島中央に到着。翌日の授業まで時間があるので出来るだけ課題をこなすことにする。
元職場を訪ねることにする。昔は1階にあったのだが今は5階に逼塞?している元職場には、まだ共に働いた美女数名がいまだ生存中。
勿論初対面の総務課長と話を始めると、昔世話を焼いてくれた美女の一人(後ろの横縞シャツ)が冷えたお茶をコップ3杯出してくれる。そう昔は馴染みの店に入ると私の前にはさっとピッチャーが出されたものです。全部飲みほしてお持たせのプリンを食べるうちに今はセールスレディをやっている美女も戻ってきた。
「相変わらず私、綺麗でしょ!」(右隣)そう昔から彼女はこんな調子だったなと思いつつ。ますます会話が滑らかになりギャグも頻発「今の会社ではギャグのお相手してくれる人いるの?」「適当に流してくれる人いるよ」「それはよかったわね~」
横縞の女性に「確か家訪ねた時になぜか焼き魚を土産に貰って帰ったよな、あれどうしてだっけ?」「いやあ、あの時は何か持ってきていただいて、親が何かお返し渡さなきゃと慌てて冷蔵庫開けて賞味期限切れの食べ物出しかけて、慌てて止めたらどういう訳か動転して焼き魚渡しちゃったんですよ」酒屋の娘さんだったが実家の店は閉めたそうだ。こういう場所に来ると昔のことを思い出す。鹿児島で免許とりたてのとき、新車を買って颯爽と事務所を彼女達の歓声に送られて出発する時にドアミラーを開けようとしてワイパーを回してしまい大いに面目を失ったこと等、昔に一挙に戻った楽しい1時間余り(たぶん彼女達も多少は同じ気分を感じてくれたはず)
そのあと鹿児島在勤時代にオジサンを見送ったのだがそのあと独居老人となっている叔母さんを訪ねることにする。シラス台地の上に家がありさっき飲んだお茶がすっかり汗になって出てしまったが母と折り合いが悪く付き合いはしていないが、親族として気がかりであった叔母さんの消息が分かりホッとした一日だった。
そう鹿児島職場のクールビズは男性社員は「かりゆし」着用でした。
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たこ梅本店 道頓堀 大阪

2007-03-17 14:15:22 | Decades before
たこ梅は現在は梅田阪急横の飲食街に2軒、多分難波の地下にもあるはずである。しかしこの本店は畳んで何年たつのだろう。
この本店に通ったのは大学生の時代である。酒というものが飲めるようになると当時はコンパなどというカクテル主体に若い人が集まる店がはやったが私は酒は少人数で気根かいに飲むを旨とした。
おでん屋が中でも好きでここ以外では大阪では北の「常夜灯と、京都は四条河原町の「花ふさ」に通った。
どこも旨かったが「花ふさ」の場合は家付き娘に岡惚れしたのが大いなる理由であった。
今は面影のみ残す「たこ梅本店」は「花ふさ」に次いで足繁く通ったがこちらは当時島の内教会で復活の狼煙を上げた上方落語会「島の内寄席」の帰りにお邪魔したのだった。
私を落語へ導いてくれた友人と興奮冷めやらず落語の話題で酒を飲んでいたのである。
当時私も結構レコードを買い、深夜ラジオの録音もして噺を仕入れたが、どうしても彼に質量共に敵わなかった。
店はコの字のカウンターで柱には大きな柱時計が掛かっていたが針はいつも15分進んでいた。カウンターの内側の中央は下り階段になっていてトイレはその下がった処の右側にあった。通路は更に先に続いていて木戸で行き止まりになっていた。
木戸を開けると道頓堀の川面でその昔この場所から舟に乗り込むことが出来たのよと女将から聞いたのは通いだして暫くしてからである。
何故15分も進んでいるの?と問うと「だって早く店閉めれるもん」成程そうですね。確か10時前には客は体よく追い出されたのである。
ある時結構ヘベレケになるまで飲んで勘定しようとすると残金が電車賃に足りなかった。「やあ困ったな~」というと女将が「いいわよ。」といって千円位負けてくれた。女将さんはふっくらとしていつも割烹着姿であった。主人は痩せていて少し先代の雁治郎に似ていたが額に薄い青あざがあり酒の飲みすぎで肝臓の悪そうな感じの人だった。こんなご夫婦と手伝いの女性が一人いたように思うだがこの店では錫の一升徳利から燗酒を注いでくれた。「これで燗するからうまいんやで」酒は黒松白鹿だったか剣菱だったか・・・よく思いだせない。でも首の部分の細い錫の徳利から注がれ錫の器でのむ酒は殊のほか旨かった。
ここのおでんの名物は店名の由来にもなっている蛸の桜煮である。甘くて柔らかく煮てあって旨かった。でもなんと言ってもこの店を大阪で名だたる店ならしめたのは「さえずり」であろう。
鯨の舌を干して戻したもので、おでんの汁をタップリ吸った「さえずり」は一種チューインガムのようでもあり。歯でしがんでくちゃくちゃすると鯨独特の臭みもかすかにして他の店ではまねの出来ない旨みのカタマリみたいなおでん種であった。
松福亭一門の落語家も時々見かけた懐かしいおでんやである。主人はとうの昔になくなったと思っているが一度あの女将さんと柱時計に再会したいものである。
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昭和28年の八重洲

2007-01-30 16:39:50 | Decades before
この写真は一ヶ月ほどの「ぶらり途中下車の旅」で昔の東京駅周辺を撮っておられた写真家の紹介があり、その回の番組HPから取っています。まだ完成直後の鉄鋼ビルヂングと完成前の国際観光ホテルです。なんと鉄鋼ビルからは煙が!
先日、鉄鋼ビルを久しぶりに訪ねました。
ここに会社の営業の本体も、カウンターもあり私も通算7年位は職場であった場所で先の記事に写っている老壮男女(反対の語順にすると問題あり)にとってとてもなつかしいビルです。
なんといってもこの鉄鋼ビルで直行すべきはトイレでしょう。JRを挟んで反対側にあった東京ビルヂングと同様、大理石の荘厳なる小便器が今も健在です。
一階の階段から仰ぎ見るとずっと上まで磨き上げられた黒大理石の階段が吹き抜けで見えます。こういう光景は現代建築のビルにはありません。
地下に降りてみると昔社員食堂のあった場所は他の会社のやはり社食になっています。社食をそもそも小馬鹿にしていた私は滅多にいかなかった。
ビル内でたまにいったのは万平グリルだけれど、これも今はない。一番繁く行ったのは蕎麦の「浅間」だったと思いつつ地下の曲がりくねった通路を歩いて行くと、ありました。
早速「冷やしたぬき」を食べるべしと思ったのですが、生憎その日は20分ほど前にダブルランチを済ませており、寄る年波、トリプルランチをこなす自信が無いので止めました。
記憶だと蕎麦屋の前に2軒店舗あり。一軒は活版印刷屋、これは無い。活版印刷なんて今時ニュー新橋ビルの即席名刺屋位しか残っていないでしょう。でもここにあった店で詫び状を印刷してもらったと感慨しきり。後の一軒、テーラーメードの靴屋も残念ながら無くなっていました。いつかこの店で一足誂えたいと思っていましたが。
地下からエレベーターに乗り昔事務所のあった9階へ。そこは名前も知らない外資の損保らしき事務所になっています。
このビルに昔、政府出資のD社が入っていましたね。その会社に通称「ねずみ男」といわれる人物が居ましたね。なんでも東大出身だが、頭がおかしくなって資料室勤務を続けているとかいう風の噂で汚い服と丸めがね、髭面で表情のきついオジサンでした。夜エレベーターで乗り合わせると少しは身の毛のよだつ思いがしましたね~。
ビルを出て通りを渡り「豊月」なんて蕎麦屋の前を通るとせっかくトリプルランチを思いとどまったのを忘れそうになって。
進歩ないね~。



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石川芋

2006-08-15 23:48:02 | Decades before
「結きの」2日目の最後に出た石川芋の揚げ物。
1986年9月の記憶が蘇った。
9月5日に私は鹿児島に転勤したのだが、溯る86年7月21日に私の出自の会社は始めての地方進出を果たした。そして初便のご祝儀として日通から貰った貨物が石川芋だった。初便実績は日通が宮崎から引っ張ってきた石川芋13トン500キロと地元の代理店がご祝儀でくれた100キロ位の貨物。一応華々しいデビューだった。しかし、あくまでご祝儀であるからして一回こっきり。
その後は私が着任してからも連日実績は0行進であった。
使い勝手の悪い時間帯の便であった。にも関わらず営業売値は先行他社よりはるかに高かったのである。会社は他の路線で提供している割引施策でこの路線でも客を付いてこさせられると思っていた。
「石川芋なんて安いもん本来飛行機には載せんもんや」「つきあいで本来の商売積んでやってもいいがせめて価格は揃えてもらわんとね」ここから虚虚実実の駆け引きをすること数週間。今まで国内の商売はしたことが無かったし鹿児島の地で言葉も今一分からないし、表情をみてもどこまで本音が分からないし、最後はエイヤッで割引率を決めて談判した。結局相手の術中にはまったのかも知れないが翌月からは安定した実績を上げることができた。お祝いに石川芋の煮物を行き着けになった店で作ってもらった。なんだこんな食い物かが結論だった。里芋の早生品種のことである。
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First Flight Cover (FFC)

2006-04-20 08:12:16 | Decades before
日本航空便のFirst Flight Coverが某所に展示されている。
新規路線が開設された際に発着地の郵便局が特別に消印を押す世界的な郵便の制度でマニアの蒐集アイテムになっている筈だがマイナーアイテムだと思う。
私は鹿児島にいる最後の頃の鹿児島伊丹線の開設の際、そして函館にいるときに函館伊丹線の開設がありそれぞれに際に何枚か個人用に頂いたはずだが蒐集する趣味が無いので所在不明になっている。
しかし某所で展示されているのは日本の民間航空の歴史を偲ぶ上で感慨深いものである。
1950年代のパネルの左上段にあるのが昭和26年の国内線東京大阪第一便のFFC

当時の封書は20円だった。その下にあるのが那覇宛国際便第一便、私が航空業界に入った時は確か伊丹-沖縄-台北-香港という各駅停車の国際便があったように思うのだが佐藤首相の時の沖縄返還まで確かに沖縄は米国の占領地であった。富士山が背景に描かれているのがいかにも当時の日本と沖縄の距離感を表している。

最後は1960年代のパネルの中にある世界一周便開設のFFC 。
何故か安い15円だが記念切手と思しき図柄を見ると経路は東京-ホノルル-ニューヨーク-ロンドン-バンコック-東京だったようである。
調べたわけではないが世界一周便というのは現在世界の航空会社で運行している会社は無い幻の便の筈である。少なくとも旅客便で採算が取れるとは考えられない。貨物便でフルのトラフィックライトが確保できれば可能性無きにしも非ずだが。
日本航空のこの便は昭和42年に開設されたが数年で大西洋区間(ニューヨークーロンドン)は運行休止になって、私たちにとって世界一周便と言えばパンナムの001便の事だった。東京にも寄っていたと思うのだが次は香港だったのだろうか記憶定かでない。何より栄光のPA001便は会社毎姿を消してしまった。パンアメリカーナというアングロサクソンの亡霊は未だ生きながらえているが。

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函館名物イカ踊り

2005-08-03 22:32:48 | Decades before
函館に在勤した4年間の中で最も楽しみにしていたイベント。毎年もう一度参加したいと思うのであるが、今年も行けずじまい。毎年8月1-5日の開催でほぼ「青森ねぶた」とぶつかるためにマイナーな位置づけから脱出できないのであるが、単純なるが故に興奮する踊りである。一部と二部があり一部は函館港祭りでYosakoiソーランの向こうを張って振り付け曲でのパフォーマンス。知名度は全然無いが3曲有りその中にソーラン節は必ず入る各団体のパレード。毎年練習に一回は出たのであるが、元より不器用で何度云われても右に回るのか左に回るのか覚えられない始末故、一度は御輿担ぎをやってみたものの平均身長より少し低かった私は御輿ぶら下がり状態になってしまい、ヘビー級がぶら下がったんでは気の毒なことをした。
二部がイカ踊りで一部のパレードが終わってから参加するのであるが、パレードが解散してから時間までに出発点に戻るのが大変。私はイカ踊りの部の責任者会議で頼んで自分のグループの出る組を最終組にして貰ったのであるが、それでもタクシー確保、マイクロバスのチャーター等結構苦労したし金がかかった。
唄も踊りも単純極まりなく山車からマイクでお兄ちゃんから曲を連呼されて呼応しながら踊るのだが興奮状態に陥る不思議な踊りである。
終わると恒例のジンギスカンパーティをホテルの屋上でやるのであるが、有る年職場の部下の女性達に職権乱用でポーズをさせた、これが私の函館時代の傑作写真?の一つ「天からお宝じゃ!」になったのである。

これが終わると函館の夏も終わり、次に冷たい雨が降ると本当に夏が終わってしまう。
イカ踊りの曲は首都圏のスーパーで「活イカの販売イベント」をするとき等に時々掛かっている。耳にされたことがあるかもしれない。
因みに上の方の写真の4人組の一番左の豆絞りの女性がが私の畑の共同耕作者である。
地黒ではなくみんなドーランを塗っています。勿論私も塗りました。
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