母校は今、三国友好のシンボル小学校とされています。
鶴橋市場に近く、在学時は日本人6割、朝鮮人3割、中国人1割 という特殊な構成比の小学校だった。今も概ね同じかな。
戦後大阪最大の闇市にして、三国市場と言われた鶴橋市場から程近い。当時 「日本国猪飼野」 と書けばそれだけで郵便が届くんだよと言われていた猪飼野もすぐ近く。
尤も当時は殆どの家は日本姓を名乗っていた。母から聞いたのか、それとも特定の誰からというのでなく誰彼からも自然に聞き知る事になったのだろうか。誰が日本人ではないというのは三年生の頃には全て分かっていた。
母は学校で日本人じゃないからといって友達を馬鹿にしたら絶対あかんよと何回も私に言い聞かせた。そういわれたからではないが、私は差別的言動はしなかったし、そんな人を苛めること自体理解できなかった、私は成人するまで自分の感情を表わして怒ったり、喧嘩する事が無かった。いじめられる事も無かった。
3年生4年生の頃がピークだったのだろう北朝鮮への引き上げが喧伝され春休み夏休みの度に何人かが理想国家 北朝鮮に家族で帰っていった。
4年生の夏だと思うが、特に仲の良かった豊山君が「お母ちゃんと本国に帰るんやて」というので家にお別れに行った。土間の奥に居間のある広い間口の家だった、土間にキムチの樽があったのだろう微かに匂った。彼との別れは悲しかった。彼はグローブをくれた。
今でも鶴橋市場に豊山商店というキムチと乾物を売る店がある、もしかしたら親族かと思うのだが。果たして無事に暮らしているだろうか。
成績が良かったせいか、性格が穏やかだったお陰か、1年生から6年生まで1学期は級長になった。1年生の時の選ばれようは分からないが、当時はまず選挙委員を選び、選挙委員が教壇に立って挙手を求めて級長から順番に決めていく民主主義的制度?だった。私はまず選挙委員に選ばれ級長には圧倒的多数で私自身を選ぶ羽目になった。2学期は従って風紀委員か美化委員を仰せつかるのだが、3学期になると又私が級長に選ばれた事があった。先生もそれで一旦よしとしたものの職員室で他の先生にまずいですよと言われたのだろう。「同じ年で前の人が又なるのはいけないので、違う人を選びます」と私が選挙委員として再選挙をした。
6年生の時は自然な成り行きで児童会長に立候補し当たり前の如く当選した。児童会長は時々朝礼台に上ってラジオ体操をやらされた。体育は不得意で通知簿が3だったから当然のごとく所々間違えてやっていた。当時初めて導入された校内放送は私に役目が回ってきた。
しかしこの児童会長は6年生の運動会で不正工作を行った悪いやつである。写真の塔から右方向に当時は階段があり途中の踊り場に白組赤組の合計得点の札を掲示した。私は赤組の総隊長で得点集計係も命じられていた。私は走りっこもスプーンレースもからきし駄目でいつもビリケツで内心恥ずかしかった。運動会も終わりに近づき赤組が勝つ形勢だった。優勝旗を貰いにいくのは嫌だ。そう思った?私は、最後の2競技の赤組、白組の得点を改ざんし僅差で白組が逆転で勝ったよう工作した。お陰で私は優勝旗を貰いにいかずに済んだ。^^^ よくだれかが「おかしいじゃない?」と言わなかったものだ。
こんな事を思い出し写真を撮りました。随分狭い校庭だったですね。今は芝が張られて綺麗です。