大学時代の親友と数年ぶりに一献やることにした。再会の場所は たこ梅本店。
大学時代に彼と繁く通った大阪の「関東煮」の名店であるが先代が亡くなって暫くして閉じた。たまに帰った際、前を通り「いつかここも潰して雑居ビルが建つのか」と寂しく思っていた。
昭和40年代後半の学生時代。当時存亡の危機に有った上方落語の灯を消すまいと、40歳代であった桂米朝らが中心となり日本キリスト教団の島之内教会に毎月一週間だけ畳を敷き桂雀(今の南光)らが下足番をして島之内寄席を開いた。若手にはこの上ない修練の場であった。
彼に連れられて行った島之内寄席で上方落語に親しんだのだが、寄席が跳ねてから上方芸人も通う店として知られた たこ梅で彼から更に蘊蓄を聞くのがお決まりのコースであった。
親友から「たこ梅、再開するらしいで」と地元紙のコピーを送ってきた。じゃ今度一献やる時はたこ梅でという話にしたのが数年前。昨年6月に一度会うことにしたのだが、当時は豚インフルエンザが怖く 無茶は止めよう と中止した。
予約する際に「先代の女将はまだお元気ですか?」と聞いたのだが「まだご存命ですけど、もう店にでれる状態では」残念だ、会って一言礼が言いたかった。
礼というのは他でもない、相当通って顔も覚えて頂いてからだが看板まで彼と喋っていて「ここの時計って何時も進んでない?」「お客さん早く返すためにわざと15分進めてあるんよ」と軽口をたたいた後「お愛想!」といったは良いが、帰りの電車賃が残らなかった。そう女将に云うと「良いわよ!」とタクシー代分まけてくれた。その礼である。
店の雰囲気は一種独特だった。少し気むずかしく見える主人が錫の一升徳利から、多分6勺は入らないと思われる円錐を切り抜いた錫の器に黒松白鹿を注いでくれる。値札板なんて無粋なものは無く丸鍋には大根もコンニャクも入らない、ゴボウ天とか平天とか種は限られており、丸鍋には入っておらず奥から運ばれてくる「たこの桜煮」を食べ、そして締めは「さえずり」。そして小用を足したくなるとカウンターの内側に階段があり、下って右側に便所があった。そしてそこから更に奥を覗くと突き当たりは木戸になっており、昔はそこから道頓堀側に船乗り込みが出来た(らしい)。そして何故か道頓堀橋からかすめてきた?と思われる朱塗りの欄干が一本カウンター横に立っている。不思議であった。当時だってもう船乗り込みは不可能だったが木戸を開けて道頓堀の水面を横から覗いてみたいとどれくらい思っていたことか。
現在の5代目は店には余り顔を出さないらしい、で当時の若い衆が今は店を切り盛りして,味も当時の味から外れないようにしてくれていた。
大学生が行く店としては一寸高い店だった。今は値札があり「さえずり」は1串900えんである。
久しぶりに食した感触は「随分柔らかくなった」である。歯触りがよくて脂の解ける感じそのものはよかったが、昔のものはもう少し くちゃくちゃ して食うものであった。チューインガムのようなレベルまで行かないのだが、ほろっと頼りなげに食いきるものでなく、少し口中を一回りさせて後喉に落ちた気がする。満足したような物足りないような。
でもこの2時間くらいで学生時代以来記憶の箪笥にしまわれていた様々な記憶が(恋愛の苦しかった思い出は不思議に入っていないが)どんどんと引き出しから出てきた。
それにしてもあの割烹着の女将にもう一度軽口をたたいてタクシー代の借りを複利で返して店を出れれば最高だったが。
彼は何故、セーターで現れたか、バンカーだが、2度目の就職先、年次契約の貸付業務を3ヶ月半前に突然「契約終了」されたのであった。「毎日が日曜日や!」
卒業後就職し為替の責任者まで勤めた相互銀行は倒産、阪神淡路大震災で家が壊れ、サラ金で働いて繋いで、ようやくメガバンクの契約社員になったのに4年半で首。
厳しいなあ。
大学時代に彼と繁く通った大阪の「関東煮」の名店であるが先代が亡くなって暫くして閉じた。たまに帰った際、前を通り「いつかここも潰して雑居ビルが建つのか」と寂しく思っていた。
昭和40年代後半の学生時代。当時存亡の危機に有った上方落語の灯を消すまいと、40歳代であった桂米朝らが中心となり日本キリスト教団の島之内教会に毎月一週間だけ畳を敷き桂雀(今の南光)らが下足番をして島之内寄席を開いた。若手にはこの上ない修練の場であった。
彼に連れられて行った島之内寄席で上方落語に親しんだのだが、寄席が跳ねてから上方芸人も通う店として知られた たこ梅で彼から更に蘊蓄を聞くのがお決まりのコースであった。
親友から「たこ梅、再開するらしいで」と地元紙のコピーを送ってきた。じゃ今度一献やる時はたこ梅でという話にしたのが数年前。昨年6月に一度会うことにしたのだが、当時は豚インフルエンザが怖く 無茶は止めよう と中止した。
予約する際に「先代の女将はまだお元気ですか?」と聞いたのだが「まだご存命ですけど、もう店にでれる状態では」残念だ、会って一言礼が言いたかった。
礼というのは他でもない、相当通って顔も覚えて頂いてからだが看板まで彼と喋っていて「ここの時計って何時も進んでない?」「お客さん早く返すためにわざと15分進めてあるんよ」と軽口をたたいた後「お愛想!」といったは良いが、帰りの電車賃が残らなかった。そう女将に云うと「良いわよ!」とタクシー代分まけてくれた。その礼である。
店の雰囲気は一種独特だった。少し気むずかしく見える主人が錫の一升徳利から、多分6勺は入らないと思われる円錐を切り抜いた錫の器に黒松白鹿を注いでくれる。値札板なんて無粋なものは無く丸鍋には大根もコンニャクも入らない、ゴボウ天とか平天とか種は限られており、丸鍋には入っておらず奥から運ばれてくる「たこの桜煮」を食べ、そして締めは「さえずり」。そして小用を足したくなるとカウンターの内側に階段があり、下って右側に便所があった。そしてそこから更に奥を覗くと突き当たりは木戸になっており、昔はそこから道頓堀側に船乗り込みが出来た(らしい)。そして何故か道頓堀橋からかすめてきた?と思われる朱塗りの欄干が一本カウンター横に立っている。不思議であった。当時だってもう船乗り込みは不可能だったが木戸を開けて道頓堀の水面を横から覗いてみたいとどれくらい思っていたことか。
現在の5代目は店には余り顔を出さないらしい、で当時の若い衆が今は店を切り盛りして,味も当時の味から外れないようにしてくれていた。
大学生が行く店としては一寸高い店だった。今は値札があり「さえずり」は1串900えんである。
久しぶりに食した感触は「随分柔らかくなった」である。歯触りがよくて脂の解ける感じそのものはよかったが、昔のものはもう少し くちゃくちゃ して食うものであった。チューインガムのようなレベルまで行かないのだが、ほろっと頼りなげに食いきるものでなく、少し口中を一回りさせて後喉に落ちた気がする。満足したような物足りないような。
でもこの2時間くらいで学生時代以来記憶の箪笥にしまわれていた様々な記憶が(恋愛の苦しかった思い出は不思議に入っていないが)どんどんと引き出しから出てきた。
それにしてもあの割烹着の女将にもう一度軽口をたたいてタクシー代の借りを複利で返して店を出れれば最高だったが。
彼は何故、セーターで現れたか、バンカーだが、2度目の就職先、年次契約の貸付業務を3ヶ月半前に突然「契約終了」されたのであった。「毎日が日曜日や!」
卒業後就職し為替の責任者まで勤めた相互銀行は倒産、阪神淡路大震災で家が壊れ、サラ金で働いて繋いで、ようやくメガバンクの契約社員になったのに4年半で首。
厳しいなあ。