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Cozy小路

B級グルメとB級生活を愉しむB級ビジネスパーソンの日常

40年ぶりに上方落語の寄席にいく

2013-12-31 09:22:00 | 演芸
昭和40年台始め、上方落語復興の志を持って、日本基督教団島之内教会に定席を立ち上げた中心メンバーが、桂米朝、桂春団治、そして物故者となった桂小文枝、笑福亭松鶴、露の五郎だった。
私は大学卒業までの3年間弱、月に1週間だけ開かれる島之内寄席に通っていた。教会の椅子を片付け、畳を敷いて、祭壇部分?が高座となった。十字架は幕の後ろに鎮座していた。
入り口には下足箱が置かれ、当時下足番もやっていたのが 桂べかこ 今の南光である。米朝門下には桂小米がいた、後に枝雀となり爆笑王として一世風靡するも、もともとの躁鬱気質がたたって首つり自殺してしまう。春団治門下には春蝶、副団治がいたが春蝶は早世した。
小文枝門下は三枝がいて、笑福亭門下は仁鶴が一番弟子だった、通称六代目と言われた松鶴には光鶴という息子がいたが親父にまさる酒癖の悪い乱暴者で落語界追放となった。
創世時メンバーで高座に上がる可能性があるのは春団治だけとなってしまった。

当時米朝にしろ、春団治にしろ ものすごい年配者、大看板に私には見えたが考えてみれば彼らとて40代だった。松鶴は爺さんに見えたがそれでも50代半ばだったろう。

今から15年くらいまえ「もう一度、米朝さんが高座に上がれるうちに話を聞きたい。」と思った。既に米朝さん自身が「もうわしには地獄はでけん。」といっていた。地獄とは「地獄八景亡者の戯れ」という1時間半かかる大ネタである。
それより前に松鶴は亡くなっていたので「らくだ」・・これも一時間を超すが・・もう聞けないと諦めていた。
7~8年前に思わず早く、小文枝(文枝)が亡くなり、これで「立ち切れ線香」も聞けなくなると思うと残念であった。
いずれにしても、大阪に帰って、寄席に行く という心の余裕がなかった。

7年くらい前に桂三枝、笑福亭仁鶴あたりが音頭を取って待望の定席が天満の大阪天満宮にできた、私自身の心が昔帰りして京大阪の物見遊山をしようという気分になってきたこの数か月である。

30日の昼席は10人出演、知っている噺家はいないと思っていたが、何とか二人は、そういえば見たことあるなと記憶が蘇った。

米朝、小文枝、松鶴、そして枝雀の記憶が強いだけに、馴染みのない噺家の高座が楽しめるか少し不安はあったが満足した。
不安の要素は、デフォルメされ過ぎていないかということだったが杞憂だった。高座に上がった10名の中に30代が一人二人いたものの40代、50代の噺家達で私が知らないだけで、古典の研鑽をつんだ芸歴は十分長いわけだ。言い換えれば自分が歳食っただけだ。

最後の二つの話は初めて聞く話だったが、八つは何度も聞いたネタ、そして年の瀬にふさわしい「尻餅」を聞けたのはラッキーだった。
松鶴の録音でなじんだ噺だ。年の瀬に賃搗き屋を呼んで餅を搗く金のない夫婦が、長屋の連中に、さも餅屋を呼んだ如く声色を使って賃搗き屋とのやり取りを演じ、餅を搗く音は奥さんの着物をたくし上げて、親父さんが臼に見立てた奥さんのお尻をたたき続けるというちょっと色っぽくて切ない話である。


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春蝶襲名

2009-08-23 22:02:09 | 演芸
ネットで先代春蝶の形見の着物が盗まれ、襲名する息子が「金は良いから着物だけ返して!」と盗人に呼びかけている記事を読みました。
上方の落語家で痩せて目のぎょろっとした人でしたが40歳代で早死にしました。
桂春団治の弟子でしたから、演目によっては派手目な着物でした。ピンク系の明るい着物で「植木や娘」を演じていたのをよく覚えています。好きな芸人の一人でした。
私が通っていたのは昭和40年代後半に日本基督教団島之内教会に月に5日間位畳を引いて行われていた島之内寄席です。
春蝶は既に「あにさん」と楽屋内で呼ばれていましたが、今の南光は「桂べかこ」で入り口で下足番をやっていました。
社会人になってからは寄席はとんとご無沙汰で今の上方落語の面々については殆ど分かりませんが、春蝶の息子が襲名するとは・・
写真をみて「あ~親父に目元似てる」です。大名跡ではありませんから今の落語ファンで先代春蝶を憶えている人がそんなに居るわけないでしょうが。
米朝さん、春団治さんが何とかまだこの世にとどまってくれているのがせめてもの救いですが、次代をつなぐべき、枝雀、春蝶が役目を果たす前にあの世にいってしまい上方落語の行く末がずっと気になっている私です。
それにしても、短いのでいいから米朝さんの噺をもう一度寄席で聴きたい。「天狗裁き」か「算段の平兵衛」か「壺算」か・・・贅沢云わず「七度狐」でもええわ。
春団治さんの噺きけるなら「親子茶屋」か「代書」・・叶いそうにないですけど。
コメント (1)
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天満天神・繁盛亭 天神2丁目 大阪

2006-10-14 16:42:14 | 演芸
最近、待望の上方落語の定席が出来たとテレビで見て、上方落語を聞きこむ事に青春の多くの時間を費やした私としては是非一度足を運んで見なければと思っていた。
場所を確かめてから出かければよかったのだがJR天満で降りればすぐ分かると勝手に思い込んで天満の駅で降り、東洋ショーの立て看板を見て「落語は猥雑ではないが、大衆演劇だから東洋ショーの傍にあるに違いない」と天神橋商店街を6丁目方向にずんずん。
アーケードにはずらりと天満天神繁盛亭のノボリが林立していたのだがそれらしい建物を発見できず天六まできてしまったので仕方なく引き返す。横筋に入るとすぐに駐在所を発見。かなり年配のお巡りさんに尋ねると「こっちじゃないです。ずっと向うで(と指をさし)なんでもお初天神の裏あたりらしいでっせ」と確信的では有るが曖昧な回答をする。・・なんでお初天神なの・・・と訝るも、お廻りが云うんだからそうだろうとJR天満を通り越してどんどん行ってみる。・・・・しかしお初天神だったら何で天満天神なんて名前がつくんだ~・・・・でもお初天神だったら夕霧蕎麦が久しぶりに食えるからまあいいか、夕霧に入ったら思い切って一斤も食ってみるか・・・・それにしても天神橋商店街は長い。そりゃそうだ、戸越銀座と天神橋は大阪人と東京人が「うちの方が長い」と長さを張り合う商店街だから。
結局は6丁目から2丁目まで戻って大阪天満宮の鳥居の横に繁盛亭を発見した。なんだやっぱりあのお廻りの親父、おお嘘つきじゃん。その後1丁目まで歩いたがどう考えても銀座八丁歩くより疲れた感じ。
繁盛亭の建物だがおもったより小ぶり。中の席数は200弱位か。
週代わりで昼席、夜席と分かれており、昼席は所謂前座から始まって、中トリがおり、トリが最後を締めて、途中に色物のマジック、漫才が各一組入る構成。
昼席は既に「満員御礼」で入ることは出来なかったが中トリは「ざこば」トリは「小米朝」だった。小米朝の落語は聞いたことがないので何ともいえないが大立て者がトリを務めた高座を聞いていた者にはいかにも寂しい。
少し、上方落語のことを今後書いていこうと思う。大学に入って直に高校大学と一緒だった友人に誘われて「島の内寄せ」にいったのがのめり込む最初である。
今から考えると不思議な寄席だった。場所は「日本基督教団島の内教会」だったのだから。絶えかかった上方落語の灯を米朝、松鶴、春団治、小文枝がなんとか再興しようとした時に顎鬚を伸ばした老牧師が好意で場所を提供してくれたのだから。
「島の内寄席」以外には若手落語家の修練の場は当時は得られ無かったはずである。
顎鬚の牧師はそういう意味ではキリストの使徒というよりは福禄寿の神様みたいなものである。
入り口の教会の看板を除けば耶蘇教を感じさせるものは無かった。当然祭壇があったはずだが、幕で覆われていたのだろうか、さすれば高座に上がる落語家はキリスト像を横切って上がったのか知らん。
床にござがひいてあった。そして入り口に下足番がいるのだが、その頃は桂南光が下足番をしていた。当時「桂ベカコ」という名前だったが駆け出しの落語家から「べかこ兄さん」と呼ばれて下足番仲間では幅を利かせていた。
・・・・この項、そのうち又続く・・・・


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