
10年ぶり位か、千日前の「天丼の店」へ。天丼の店が店名だから致し方ない。
思えば社会人になって職場の仲間を募って「食べ歩きツアー」を初めて企画した口あけの店がこの「天丼の店」だった。昭和49年の事である。ここを口あけにして、次が「千房」の「ぬかるみ焼き」で締めがバーサンボアというのが第一回企画だったように思うが後の2軒は定かでない。
私自身は大学生の頃から通っていて「旨い、安い、早い」の典型的な店だった。
天丼単品の店だから注文するとするのは「赤だし」を頼むかどうかだけなのだ。
当時天丼は幾らだったろう?180円とか250円とか、大阪人の誰もが安くてお得と感じる価格であって、カウンターだけで6人がかろうじて座れる窮屈さで戸もなくて夏は暑く冬は寒い店だがいつも行列ができる人気店であった。
それに比べると現在の600円という価格にはインパクトがない。
当時白髪交じりだった親父は揚げ鍋の前でいつもくわえ煙草で丼鉢に粉を溶き、海老1尾をくぐらせて油に放りいれ、次に2尾掴んで投入、そして10秒後位にオタマで水溶き粉を3尾の上に回しかけて連結する。そして別に揚げてある海苔を載せて奥さんに回す。奥さんが汁をかけて一丁上がり、漬物を添えて出てくるまで1分半だろうか。
当時店の手伝いを始めた息子は細かったが今は亡き親父と同じような体形になり狭いカウンターの中で揚げ鍋の前でお腹がつかえそうで窮屈げに全く同じ手順で揚げている。10年くらい前に訪問した時は親父と同じように煙草を銜えていたが煙草は止めたらしい。そして隣には高校を卒業したて位の3代目が立ち汁を回しかけている。2代目も白髪が増えたが、私が通いだしてから40年近いのだから初代が商売していた頃より今の2代目の方が年老いている事になる。
今となっては大して特徴のない天丼であり、海老の質も一番安い冷凍ものに違いないのだが、甘めで濃い目の汁のB級天丼をかっ込んですぐ近くの法善寺横丁水かけ不動に参るというのは浪速っ子にとってはごく当り前の親しみある行動パターンなのだろう。
思えば社会人になって職場の仲間を募って「食べ歩きツアー」を初めて企画した口あけの店がこの「天丼の店」だった。昭和49年の事である。ここを口あけにして、次が「千房」の「ぬかるみ焼き」で締めがバーサンボアというのが第一回企画だったように思うが後の2軒は定かでない。
私自身は大学生の頃から通っていて「旨い、安い、早い」の典型的な店だった。
天丼単品の店だから注文するとするのは「赤だし」を頼むかどうかだけなのだ。
当時天丼は幾らだったろう?180円とか250円とか、大阪人の誰もが安くてお得と感じる価格であって、カウンターだけで6人がかろうじて座れる窮屈さで戸もなくて夏は暑く冬は寒い店だがいつも行列ができる人気店であった。
それに比べると現在の600円という価格にはインパクトがない。
当時白髪交じりだった親父は揚げ鍋の前でいつもくわえ煙草で丼鉢に粉を溶き、海老1尾をくぐらせて油に放りいれ、次に2尾掴んで投入、そして10秒後位にオタマで水溶き粉を3尾の上に回しかけて連結する。そして別に揚げてある海苔を載せて奥さんに回す。奥さんが汁をかけて一丁上がり、漬物を添えて出てくるまで1分半だろうか。
当時店の手伝いを始めた息子は細かったが今は亡き親父と同じような体形になり狭いカウンターの中で揚げ鍋の前でお腹がつかえそうで窮屈げに全く同じ手順で揚げている。10年くらい前に訪問した時は親父と同じように煙草を銜えていたが煙草は止めたらしい。そして隣には高校を卒業したて位の3代目が立ち汁を回しかけている。2代目も白髪が増えたが、私が通いだしてから40年近いのだから初代が商売していた頃より今の2代目の方が年老いている事になる。
今となっては大して特徴のない天丼であり、海老の質も一番安い冷凍ものに違いないのだが、甘めで濃い目の汁のB級天丼をかっ込んですぐ近くの法善寺横丁水かけ不動に参るというのは浪速っ子にとってはごく当り前の親しみある行動パターンなのだろう。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます