気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

万葉とは、すぎにし君=草壁皇子と軽皇子をつなぐ霊的な言葉

2018-05-22 00:15:19 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

前回のブログは、次のようにおわりました。今日は、初期万葉集の編纂に話を進めます。

㊻ 人麻呂こそが勅を受けて万葉集の編纂をしたいよいよ、この事に迫らなければならない。

今日は「すぎにし人の形見とぞ」㊼からです。 

万葉集巻一の主題は「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」

㊼ 万葉集の中心歌は45~49番歌である。原万葉集=初期万葉集は、この歌がクライマックスとなるように編集されていた。

「やすみしし我が大王 高照らす日の皇子」と、軽皇子を詠んでいる。「高光る」ではなく「高照らす」だから、統治者であると云っているのである。人麻呂は皇子や皇女のおかれた位置をはっきりと読み分けている。彼は、皇統とその継承者の立場と順位、すべてを承知していた、のである。

高照らす日の皇子と人麻呂は詠んだ 軽皇子、生まれながらの統治者だったのである

 

黄葉(もみじば)葉(もみじば)が意味する呪歌「安騎の野の冬猟」の歌は、草壁皇子と軽皇子をつなぐ赤い糸

 

㊽ 人麻呂の歌・人麻呂歌集の歌に「もみじば」は、下記の14首に使われている。そのうち6首は挽歌である。また、万葉集の挽歌★に使われた「もみじば」は12首で、12首のうちの6首が人麻呂の歌である。(モミジバ=人麻呂の作りだした詞、かも知れない)

38 春へは花かざしもち 秋立てば黄葉(もみじ)かざせり  

47 ま草刈る荒野にはあれど葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ来し  

135 大船の渡りの山の黄葉(もみじば)の散りのまがひに

137 秋山に落つる黄葉(もみじば)しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む 

★196 春へは花折りかざし秋立てば黄葉(もみじば)かざし   

★207奥津藻のなびきし妹は黄葉(もみじば)の過ぎていにきと  

★208 秋山の黄葉(もみじ)を茂みまどいぬる 妹を求めむ 山道知らずも  

★209 黄葉もみじ)の散りゆくなえに玉梓の使いを見れば逢いし日おもほゆ  

★423 九月(ながつき)のしぐれの時は黄葉(もみじば)を折りかざさむと  

1094 我が衣色取染めむ うま酒三室の山は黄葉(もみじ)しにけり  

1306 この山の黄葉(もみじ)が下の花を我 はつはつに見て さらに恋ふるも  

1676 背の山に黄葉(もみじ)常しく 神丘の山の黄葉は今日か散るらむ 

1703 雲隠り雁鳴く時は 秋山の黄葉(もみじ)かた待つ 時は過ぐれど  

1796 黄葉(もみじば)の過ぎにし子らと携わり 遊びし磯を見れば悲しも (★) 

2178(題)黄葉(もみじ)を詠む *題詞に使われている 

(妻ごもる矢野の神山 露霜に にほひそめたり散らまく惜しも)

葉(もみじば)のすぎにし君=草壁皇子

㊾ 『葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ』この言葉に集約する万葉集の主題。万葉集巻一のクライマックスの一首なのである。もみじば=葉 集中には一か所しかつかわれていない。まさに、草壁皇子を象徴する詞である。魂をこめた呪語なのである。

49 日並皇子の命の馬なめて み狩立たしし 時は来向かう

 日並皇子尊の皇統を受け継ぐべき軽皇子(文武天皇)のために「万葉集」は編纂された!その皇統は、草壁皇子につながるものである。草壁皇子こそが日並皇子である。

45 国の四方をお治めになるわが大王であり、高くより統治なさる日の皇子が、神でありながらより神らしくなって、治めておられた都から、人郷を離れた泊瀬の山、その真木が立ち並ぶ荒れた山道を岩や木の根がさえぎるのを踏み越え、朝早くから夕方になるまでかかって、雪がちらつくような阿騎の大野に来て、ススキや小竹を押なべて旅の宿リとなさった。いにしえをお思いになりながら。

46 阿騎の野に宿りする旅人は、すっかり手足を伸ばして寐ることなどできないなあ。いにしえをいろいろ思うので眠ることはできはしない。

47 ま草を刈るような荒れた野ではあるけれど、ここは黄葉のようにお亡くなりになったあの方の形見の地。形見の地だからこそ、我々は此処に来たのだ。

48 東の野にかぎろいが立ち始めた。いよいよ日が昇り始める。振り返ると月が将に沈もうとしている。まるで、月があの方の魂で、皇子の魂である新しい日に全てを委ねるように、月が沈もうとしている。

49 日並の皇子の命が馬を並べて、遊猟の儀式にお立ちになった、あの瞬間が近づいた。あの時と同じ瞬間に、今まさに対面する。いよいよ皇太子霊を受け継ぐのだ。

 

草壁皇子の皇太子霊を受けて、軽皇子は立太子した

文武天皇は即位し、その御代は充実していた…人麻呂編集の万葉集は、着々と出来上がっていた。やがて奏上という時… が、持統天皇の崩御により王朝は揺らいだ。人麻呂は万葉集の奏上の時期を逸した。

そして、持統天皇を亡くした文武天皇の悩みも深く大きかっただろう。天武天皇の皇子達が生き残っている状況では、草壁皇子の後継者としての立場は強いとは言い難かった。こんな時の為に、持統天皇は「万葉集」を残したかったのだが。

 

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。だから、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。持統天皇の意思がしみ込んでいるのである。

 「安騎野の冬猟」の歌は、万葉集の巻一のクライマックスであり、主題である

葉(もみじば)は、万葉集全体で一か所しか使われていない。まさに、選び抜かれた 呪語=魂のこもった言葉 なのである。此処に万葉集の主題が絞り込まれている。

人麻呂は考え抜いて「万葉集」と名付けた。「すぎにし君を偲んで、すぎにし君の皇統の弥栄のために編集された歌集」なのである。それは、文武天皇の教育書として役に立つはずだった。皇統の正当性と、皇統の歴史が歌に詠まれていたからである。

 その事を大伴氏は十分に承知し受け止めた。平城天皇も十分に理解したのであろう。だからこそ、詔により再編集が成されたと思う。

歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである。

また、明日。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿