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ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

奈良県立図書情報館で朗読劇「列車にのった阿修羅さん」

2024-08-03 | 演劇
8月10日(土)午後2時から奈良県立図書情報館一階交流ホールで開催の朗読劇(構成・演出…小野小町 出演…言の葉の羽)のお知らせです。
この朗読劇は「列車にのった阿修羅さん」という児童文学(作…いどきえり 絵…マスダケイコ)を一時間に構成して朗読するものです。
この企画は、絵本作家、イラストレーターである、地元奈良出身のマスダケイコさんの、絵本原画展(8/6~18)の関連イベントとして開催されます。

マスダさんとの出会いは、一昨年の奈良町にぎわいの家の全館展示、まるごと美術館企画(キュレーター・浅山美由紀)の参加作家として出会いました。このブログでも紹介しています。ユーモアがあり、ノスタルジックで温かい…絵画作品とオリジナル絵本から、作品を知りました。
奈良町にぎわいの家「まるごと美術館」2022  10/22まで。 - ことのはのはね~奈良町から

奈良町にぎわいの家「まるごと美術館」2022 10/22まで。 - ことのはのはね~奈良町から

奈良は観光シーズンを迎え、通りもにぎわいが戻ってきました。奈良町にぎわいの家も、約3年ぶりに、海外のお客様も来られています。さて、22日まで、大正生まれのエレガン...

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そのマスダさんが、児童文学作家のいどきえりさんのお話に絵をつけた「列車にのった阿修羅さん」。タイトルからして、「え?」と思われる方も多いでしょう。ぜひ、本を読んでいただきたいのですが、戦争のために、阿修羅像をはじめとする国宝が、寺を離れ列車で疎開をしたお話で、実話をもとにして書かれています。
戦争末期、大事な仏像が疎開したということは、なんとなく耳にしたことはありましたが、この本は丁寧に取材されていて、当時の様子がとてもよくわかり、「へえ、そんなこともあったのか。」と初めて知ることも多かったです。
子どもの眼を通して描かれる、戦前と戦後の180度変わった世の中への葛藤、怒り、疑問。阿修羅さんと向き合いながら、激動の時代を成長していった主人公。実は、この主人公のモデルとなった方と、私は以前出会っていて、当時、とてもよくしていただいた方とわかった時は、こういうこともあるのだなと、ただただ、びっくりしました。
そんなこともあり、この朗読劇は特別なものになりました。
本来、この本を全て読むと、1時間45分程度になります。それを1時間に構成しました。脚色等は全くせず、整理してつないでいます。
79回目の終戦記念日の前に、戦争の時代のお話を朗読できることの意味と大切さを、ひしひしと感じつつの稽古です。
なお、朗読劇は無料ですが、事前申し込みが必要ですので、奈良県立図書情報館に問い合わせてください。

さて、マスダケイコさんの絵本原画展は8/6より開催です。まずはこちらを是非、ご覧ください。








小町座次回公演(2024.9.29)への稽古から

2024-07-18 | 演劇
小町座、次回公演は9.29(日)午後二時から、ならまちセンター市民ホールです。なんと無料!(カンパ、歓迎!)
というのも、今回、新作でなく、テーマを「音楽」でくくってのイベントなので、多くの方に是非、見ていだたきたいということもあって。二部構成でのイベントです。
第一部は演劇「少年万博物語」→昨年公演で大好評の演目。70年代万博前後の歌謡曲満載の芝居を新たなメンバーで再演します。懐かしい音楽、必聴!
第二部は、これまで小町座の音楽の作曲家でもある、小宮ミカさんのピアノ演奏に、歌は、フサイフォンさちこさん(関西を中心にライブ活動を親子でされていて、明るくのびやかな歌声!)そこに、これまでの演劇やラジオドラマを、生演奏しながら振り返るというもの。小西さくら通り商店街で流れて10年になる「ならうたものがたり」も披露しますので、皆さん、一緒に口ずさんでいただけたら。

それで今日も第一部の芝居を稽古しましたが、今日は、主人公、博の姉の芝居に関して、私自身が言ったことが、役者さんにはやや、抽象的だなと思ったので、整理するつもりで書きます。
以下、ややネタバレありですが、この芝居は、1971年の地方の農家の家族の話で、中学卒業した主人公の姉は、進学を諦めて大阪の工場に勤めるというところで終わります。弟である主人公が、姉を見送りに大阪までついていくのですが、その時の二人のシーンでの姉が、やや明るすぎたので、私は「この時の姉は、太陽でなくて、月の光の方。」という抽象的な言葉で伝えました。弟と別れる前の姉の明るさは、家族に心配をかけたくないがゆえに、明るいことは必須なんだけど、それだけではない。「どうかみんな無事で。」という切実な祈りもあるでしょう。このあたりの姉の透明感は、太陽の明るさでなく、「月」の青い光なんです。しかし、では、これをどう芝居に反映するかというと、とても難しい。
これは表情の問題もある。弟に明るい顔を見せつつも、どこかでふと、自分の将来を空の色にみるような。不安はあるが、暗いというだけでない。一人でいる、一人で立つことの、本質的な孤独が、そこはかとなく、立ち姿や表情に出るというか…。
ということを思いながら、今、関わってくれている若いメンバーにとって、半世紀前の農家の現実が、果たしてリアルかというと、そうではないだろうな、とか考えていました。
けれど、演じるということは、時代背景を客観的に知識として入れつつ、今の時間にリアルに立たなければならない。
演劇のマジック=魔法は、二度と見られない過去が、今、生きている人間によって蘇ることでもあり、それが「再現」でないところに意味がある。
過去を知らない私たちが、過去の人間のリアルを、今、命のある者が舞台にあげることで、私は、かつて必死に生きた人たちの「供養」になるような気がしてくるんです。
え?舞台が「供養」?なんておかしいけれど、どう考えても長い歴史の中で、名もなく生きてきた人がほとんどで、それはもう、ただただ、日々の暮らしを続けることに必死で…昔の農家の女性たちは、さてどうだったか、と振り返ると、今の私たちには想像もつかない暮らしだったでしょう。けれど、そういう人たちの上に、私たちの「今」が立っていると思うのはなぜでしょう。それが親だとか、親戚だとか関係ない、遠いところの人たちも含めて全部。

見たこともないかつての人に、なぜ、そのように思うのか…。ちょっと話題が外れますが、例えば、戦後、現憲法の下で、男女平等や言論の自由が当たり前のようになっているけれど、ここに来るまでに、そんな自由や権利を求めて声を上げて亡くなった先人がどれだけいただろうか、ということをいつもなんとなく思っている自分がいます。つまり、そうした人たちの屍があって、私たちは当たり前のように、「自由と権利」享受しているということになるでしょうか。言論の自由も平等も、「人間」が考え、思考し続け、行動をおこしてきたゆえにもたらされたものであり、簡単に得られたものではない。私たちが健やかで平和に生きられている背景に、「過去」を生きた人の声が必ずあると思うと、それを今、物語や演劇で語れたなら、なんだか「供養」になるように思うのです。

演劇に関わっていると、過去の人はどう生きたのか、どう感じたのかが、気になります。一方、セリフに書く以上に、過去の人間を「今」の人間が演じることは、難しいことです。ただ、喜怒哀楽、孤独や寂しさなど、感情は頼りになります。喉が渇いたら水がのみたい。これは過去も現在でも同じです。こうした肉体のリアルから、過去の人間を追求していくのは確かなことと考えます。生身の肉体に基づくリアルがあるからこそ、今の人間も昔の人に近付けるんでしょう。もちろん、背景を知ることは大切です。そのヒントに以下の写真を。
この写真を昔見た時の感覚は、今でも強烈です。



写真家、南良和の「21歳の嫁の手」。撮影が1963年とあり、今回の芝居の年代の8年前なんですが、高度経済成長の一方で、地方の農家はこのような若い嫁の手が日々の生活を支えていたのですから。
歴史の長い時間の中では、この手こそが、大多数だつたことでしょう。私は1900年、明治生まれの祖母が好きだったので、農家ではないのですが、手仕事が全てだった時代なので、同じように苦労した手をしていました。こうした手に「よく頑張ったね」と言いたい自分がいて、それが芝居を書く時に出てくるようです。
この手の苦労とは違うけれど、進学を諦めて、家のために働くということを、自分の役割として人生を前に進めてきた多くの若者もいたことでしょう。芝居の中の、まず親や弟妹のことを考える姉は、弟と別れる時、青い空の明るさと、闇夜の月の清かな透明な光を同時に見つつ、自分の暮らしを進めていくのだろうな…稽古場の二人を見つつ、そう思いました。

というわけで、役者論なのか、芝居を書くことの理由なのか、なんだかよくわからない文になりましたが、最後は、稽古を始めたころに、キャストの一人がくれたメールでしめたいと思います。
「私という肉体を通して、見ている方とお芝居の中の人物が共感やリンク出来れば良いなぁと思ってます。で、願わくば、見てる方が少しだけでも心動いてくれたら嬉しいなぁという気持ちでいます。」
キャスト四人、半世紀前の家族を作り上げていっています。二か月先の公演、ぜひとも、ご覧ください!







唐十郎、冥界へ。

2024-05-12 | 演劇
不覚にも…唐十郎が亡くなったことを一週間も知らなかった…。先ほどネット情報から知った次第。テレビは割と見ていますが、NHKのニュースにもなっているし、それを見逃したということか。いや、本来ならもっと、取り上げられていいはず。この10年以上の唐さん(と呼ばせていただきます)は転倒からの大けがで、メディアへの露出が減ったとはいえ、演劇界の大スター、唐十郎が消えてしまったことは、「演劇」が消えた、くらいの意味に等しいと思う。「演劇界」という言い方をすると、能、歌舞伎、ミュージカルなど大きな括りになるけれど、唐十郎の「演劇」は、演劇というものの、禍々しさ、危うさ、風俗的で、原初的パワーに満ちた、生きている人間と死んだ人間の交わる、泥臭くて、危険で、神聖な場所」といった、本来の要素を、包括しているという点で、やはり「演劇」の王道といえると思うのです。なのでこの国から一つ、核となる「演劇」世界が消えてしまったということを、私的見解ですが、令和にとどめておくことは大事ではと思って書きます。
こんな大きな物言いをしているのに、私はそんなに唐作品を見ていません。大学生の時の1980年代半ば前後、そのあたりなのです。1960年、70年代の政治と芸術が熱く絡んだ時代はとおに過ぎ、小劇場で一見やばそうな?役者さんや演出家さんたちが、どんどん、テレビや商業ベースの演劇に進出するのが当たり前になっていた頃でした。なので、私が初めて見た紅テントは、かつての紅テントのスーパースター、根津甚八も小林薫もいなくて、佐野史郎さんがいた舞台でした。なので、ピークは過ぎた紅テントではあったのでしょうが、それでも、紅テントの中の空気感を知りたい!とぎゅうぎゅう詰めの雨の中、見た記憶を思い出しています。(この時代の資料を紛失していて、以下、ネット情報に助けられつつ)
その作品が「住み込みの女」。中川淳一のレトロな少女のイラストが印象的なチラシでした。新宿西口にテントがあったので、あの伝説の「花園神社」ではなかったです。その日は雨で、しかし、テントは満員、観客席も地べたで観劇環境としては最悪でしたが、そんなことは関係なく、芝居を「観る」というよりも、今起きている事件のような演劇?に参加している、ような観客席でした。
見たかったのは、紅テントのヒロインというか女主人、李礼仙。小学生の時に見た大河ドラマ「黄金の日々」に出ていて、なんだか気になって頭から離れなかった役者さんをやっと見れる!とわくわくしていました。
ところが。私が役者として気になったのは、作・演出である唐さんでした。なんというか、他のアングラ俳優と違って、全然、別の空気を出しているんです。上手下手でくくられる芝居でない、自分で書いた戯曲の海をすいすい、泳いでいる感じ。つまり、演じている感じが全くしない。なので、役者というのでもない…つまり、別の次元で舞台に立っている「特別な人」に見えました。
もちろん、紅テントの怪優たちの圧のある芝居があっての唐さんの芝居であり、だからこその「海で泳ぐような魚」の感覚で舞台にいることが、きわだったと思うのですが、今にして思うと、まさに今、生きている「詩人」がテント内で、役者とは違う呼吸をしていて、それが唐作品においては、ものすごく重要であったのだ…と改めてその力の凄さを感じています。
役者「唐十郎」は舞台詩人!「唐十郎」であり、これはもう訓練や技術で得られるものではない、唯一無二のものです。この存在の明るさと開かれた空気感が、アングラの華を咲かせて、しかもそれを矮小で狭いものにせず、堂々と時代の正面を渡っていった「演劇」の王様として、唐十郎の存在があったのだなあ…そんな思いでいます。ああ、あんな空気感で舞台で立つ役者詩人は…もういないでしょう。だから、そんな役者を抱く「演劇」が…消えてしまったのです…。1980年代の「住み込みの女」を見てそんな風に思ったんですから、初期の役者としての唐さんは、さてどうなんでしょうか。
そして、同時に感じたのが、唐さんの芝居は、舞台の混沌としたアングラな空気の中で、なぜか「エレガント」なんです。「エレガント」はアングラ芝居とは無縁の言葉のように感じますが、何だか「優雅」なんです。それは作品としてきちんと立っていて、ものおじせず、「わたくし」そのものが醸し出す「スタイル」で表現として突き詰めて到達した優れた「かたち」の形容にもなるのでは、と私は思います。誤解を恐れずにいえば、寺山修司だって、横尾忠則だって、川久保玲だって、本物の「エレガント」といえるのでは。ただ、世間的に使う「エレガント」が、あまりにも狭い意味で使い古された言葉になっているので、「唐十郎がエレガント?!」なんていうと、「はあ?」となるのかもしれませんが。
晩年の唐さんが若い世代と共に自分の作品を作り上げていきましたが、あの唐十郎の言葉をどのように声にしているのか、以前、YouTubeで検索かけて見たことがあります。その時の感想は、「アングラスタイルとしてのセリフの発声」という感じでした。全部を見たわけでないし、生の舞台でもないけれど、もしか、唐さんの芝居を「紅テント風」とくくり、そのスタイルで読むのは、私は違うのではと思います。そもそも「唐さんっぽい芝居」という言い方は、その芝居の本質を語るものでなく、あくまで、広報のような文言に過ぎないからです。
演出としては「唐さん風」はあり、と思います。けれど、セリフをそちらでやると、そもそも、今、生きている人間が、コピーしたところで、アングラ風をやってます、では、AIの上手なアナウンスと変わりないようなものになってしまうでしょう。「今」の若者が自分を重ねて、大きなものに格闘していくところからしか、声は立ち上がってこないように思います。
それに、唐十郎の戯曲の言葉は古びないし、ものすごく音楽的です。優れた戯曲の韻律は、委ねれば何かしらの力をくれます。その力と共に…後は、自分自身をセリフにぶつけるしかないでしょう。踏まれ続け、虐げられて、それでもなお、舞台にうごめくものとして、影の声が光になる瞬間を、唐さんは書いてきたのではないかと思います。
そして、その活動は、日本の芸能の流れの中で、アメノウヅメの神話の世界から、現代の時間まで舞台という一瞬の場に、愛とエロスを立ち上げていった、稀有なものです。
そう、詩人というものは、そういうことができるのです。私の短歌の師、前登志夫もそうであったように。
唐十郎さんのご冥福を心からお祈りします。
とともに、「さらば!」でなく、そのセリフがきらきらと輝きつづけるところに、私たちの「肉声」があればと願って。


私の初、紅テント体験「住み込みの女」

2024年.2月 奈良町にぎわいの家「花しまい」公演案内

2024-02-07 | 演劇
四年前に企画したものの、コロナ下で中止になった、町家全館移動劇がようやくの実施となります。
奈良町にぎわいの家に住んでいる、大正時代の姉妹三人の物語。その姉妹があちこち、部屋を移動しながらのドラマで、そのキャストの移動と共に、お客様も移動する、という特別なスタイルです。
この移動劇の発案は、今回の演出家、外輪能隆さんのアイデアです。外輪さんは、関西を中心に東京等でも公演重ねる、EVKKの主宰者で、演出家。外輪さんは、私が学生の時に作った劇団で、演出をしていました。現在は関西では珍しい?!アーティスティツクな演出家で、とにかくセンスがよくて。昨年公演の「売り言葉」(作・野田秀樹)の演出の素晴らしかったこと!
そんなで、稽古を続けていますが、開けっ放しの町家は寒くて、しかも、来館者もきますので、稽古回数も取れない中、大阪の女優さんたちと、奈良は小町座他のメンバーが稽古を続けています。今回の戯曲を書くにあたり、改めて当時のことを調べましたが、現代とは違い、「女性」が自由に生きる選択が本当に少なかったということを実感しました。三姉妹は全く違うキャラクターでそれぞれにドラマがあります。姉妹のドラマと共に、町家空間や時代背景を語りながら移動を案内する語り部もいる構成で、内容としてはわかりやすい戯曲になっています。
奈良町にぎわいの家に関わって九年目になりますが、こうした町家でリアルに当時の娘たちが会話するような芝居を書けたことは、幸せだなと感じています。また今回の芝居は、ラスト、現代と時空がつながる?のですが、そのあたりも是非、お楽しみください。
チケットはまだ少しあるようですので、奈良町にぎわいの家まで問い合わせてください。ご来場、お待ちしています。




日本劇作家協会戯曲アーカイブ「十六歳」

2024-01-13 | 演劇
日本劇作家協会では、デジタルアーカイブ事業として、一昨年より、所属会員の作品を広く読んでもらえるようにしています。
私の作品は「きつねものがたり」に続き、この度、「十六歳」が掲載されました。
どちらも、十代の少女の物語です。2011年と2022年に小町座で上演した二人芝居です。
「十六歳」に関しては、このブログでも既に紹介していますが、元々、2001年のアメリカ同時多発テロが起きた時に、第一稿を書いたものです。
あれから20年以上たち、ウクライナでの戦争は続き、また、昨年からはパレスチナでの紛争が激化。
世界史で学んだ近代の歴史の困難な問題が、21世紀に続いています。
技術は時を積み重ねて脅威に感じるくらい進歩しても、人間は生まれて死ぬわけで、一から全てを学ばなければならず、何も積み重なっていかないということを、戦争のニュースから感じています。けれど、なぜこうなっているのかを学ぶことから始めるしかないと感じています。
私は子どもの時からのマンガ世代で、マンガから多くを学びました。「ベルサイユのばら」からフランス革命、「オルフェイスの窓」からロシア革命、この二つは池田理代子の作品ですが、20代で描いてるんですから、すごいとしかいいようがないです。こうした歴史の輪郭を優れたマンガから知り、興味を持てば専門書へという流れが、私のマンガ体験でした。
さて、現在のパレスチナ問題には、あの砂漠の英雄と言われた「アラビアのロレンス」が大きく関わっています。世界史を学ぶ中で興味を持ちましたが、40年前に出版された、神坂智子のマンガ「T.E.ロレンス」がありますが、当時、既に見ていた壮大なロレンスの映画とはまた違って、妙に共感したのを思い出します。ロレンスは作られた英雄で、本人の苦悩たるや…。植民地の時代の闇は深いです。この本はもちろん、フィクションですが、ロレンスが英国のスパイであり、しかし、アラブの文化をリスペクトする考古学者でもあり、という二重構造が描かれ、国家に翻弄される人物として描かれていました。このロレンスの苦悩が現在まで続いているのですから。
しかしまた、21世紀は同様に、新たな植民地的支配が加速しようとしているのかも。経済的な戦争、資源争奪戦…豊かな国が経済力を背景に、他国に干渉する…。資源のない日本はどうするのか、何ができるのか…。持たないものは「学ぶ」ことがキーワードにならないでしょうか。人を育てる、豊かな「教育」が手がかりになるのでは…。公的な教育以外にも、様々な場所で知り学ぶ機会があるでしょう。演劇も、そうした「知り、考え、学ぶ」世界への窓の一つになればいいなと願っています。
「十六歳」は特に歴史について語っていませんし、私は歴史の専門家でもありませんが、どうして、アメリカ的なものとイスラム的なものが対立しなければならないのか、という素朴な問いから始まったものです。同じ十六歳、しかし、育ちも立場も違った二人が出会った時、どうなるのか…。そこからドラマは始まります。よろしければ、ご一読ください。(以下の画面をクリック)
十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

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(残念ながら、現在はどうも品切れのようです…)