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ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

2025~高校生、大学生との演劇体験 ①岐阜北高校演劇部による「十六歳」の上演

2025-08-26 | 演劇
今年も三分の二を過ぎましたが、夏はどこまで続くのでしょうか。
さて、今年の春から夏までの二つの若い方たちとの演劇的な体験があり、ずっと書きたかったのですが、少しまとめておきます。

①岐阜県立岐阜北高等学校演劇部「十六歳」の上演。
「十六歳」はこのブログでも紹介していますが、劇中登場人物が、16歳のアメリカの少女とイスラム系の少年(実は少女)の二人芝居で、小町座の初演は
2011年。再演は2020年。当時、中学3年生と小町座の西村智恵が熱演しました。
この「十六歳」は、日本劇作家協会の戯曲アーカイブにあり、誰でも読むことができます。
十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

十六歳 | 作品 || [日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

日本劇作家協会による劇作家名や戯曲名、上演時間、上演人数などで検索が可能な戯曲のデジタルアーカイブ検索サイトです。

[日本劇作家協会] 戯曲デジタルアーカイブ

 
 中々、シュールな公演案内。

これを読んでくれた岐阜北高等学校演劇部が、県内の各校が集う、春季合同公演で上演するとなり、3/29に見に行きました。
一時間半の二人芝居を一時間程度にしての公演。現役の高校生が、まさに戯曲の「十六歳」の実年齢の高校生が演じるのを見ることができるなんて…。劇作家冥利につきます!ただ、かなり難解な二人芝居を、どんな風に演出し、演じるのか、何もかもがドキドキ、わくわくで岐阜に向かいました。
さて、一時間弱の上演は、まず「え?どこが脚本変わっているの?」というくらい、流れがとても自然でした。
そして、小町座では人物のみで舞台に何もないのですが、なんとこの舞台には舞台美術が。何かしら「壁」をイメージするような美術が組まれ、そこに、あのアーティスト、バンクシーのような絵が。すぐに、イスラエルとガザの壁に描かれた、現実のバンクシーの絵が彷彿としてきました。
そんな仕掛けがある中で、二人の高校生がしっかりと、アメリカとイスラムの何もかもが違う、二人の「十六歳」をキャラクターの違いを際立たせて演じます。イスラム系の演者、迫力ありましたよ。アメリカの少女デイジーは、まっすぐな感じのキャラがよく出てました。 
また、二人がセリフの中で説明する、自分の家族とのエピソードなどを、別の人物がマイムで演じていましたが、ストーリーのイメージを壊さず、控えめに、しかも物語をわかりやすく前に出していました。このあたりの匙加減が、中々よくて感心しました。

上演後、出演者が舞台から、観客に対して感想を聞くのですが、その中で、20代の男性の言葉が印象に残りました。感想を要約すると「関係者から誘われてきたが、自分は演劇を見たことがなく、どういうものなのかと思ってここにきた。そしたら、今、ニュースで流れているような(戦争など)内容でそういうものを見られてよかった。」というものでした。たった二人で演じ分けをしての熱演に対してのエールも多く、会場の皆さんもよく見てくれていたという感じが伝わってきました。

上演後、楽屋で演劇部の皆さん全員と会う時間がありました。私は、二人芝居なので、部員が少ないかと思っていたら…とんでもない、大所帯でした。しかも男の子も多い。みんな、舞台美術を作ったり、裏方として支えていたのです。
演出をした二年生によると、出演者はオーデイションで決めたとのこと。また、マイムの演出も二人しかセリフがないので、工夫した、とのことでした。最後に、ホール横の屋外で、皆さんと一緒に写真をとり…充実の「十六歳」体験を終えました。

その後、演劇部の先生から、他の学校の先生方から「十六歳」いいお話ですね、という感想をもらったとメールをいただきました。いえいえ、高校生の皆さんが、この本を選んでくれなければ、多くの方に見てもらう機会さえなかった。岐阜北高校演劇部の皆様、本当にありがとうございました。劇作家として、「十六歳」を実年齢の令和の高校生が演じたことの意味を、時間がたった今もかみしめています。
そして、今も世界の「十六歳」たちが、戦争や貧困で翻弄されていることを、「想像」し、そのことを忘れないでいるために、演劇という表現は役にたつのではないか、と、この度の公演から感じた次第です。表現や創造の現場が、自分たちの生きる、現実の世界を開拓する力になっていくのだ…そんな前向きな気持ちをもらって奈良に戻りました。

 まさに熱演!

そして、6月、7月と天理大学の学生さんたちとの講座で、発表してもらう機会がありました。若者との第二弾のレポートは次回に。


2025.8.9夜~お芝居や朗読「戦後80年平和を願って」

2025-08-05 | 演劇
「今日も暑いですね。」を通り越して、酷暑の夏となりました。皆様、どうぞお気をつけてお過ごしください。

さて、今年は戦後80年。終戦の年に生まれた方も80歳となれば、戦後生まれ、ましてや平成、令和世代にとっては、遠い過去のように思えることでしょう。ただ、現在もウクライナやガザを始め、戦争は世界のどこかであり、しかも、これだけグローバルに世界がつながっていると、地理的に遠い場所での戦争も、暮らしに影響を及ぼしたり、ましてや、核兵器が世界のあちこちにあるということは、有事の際の最終手段として使われるということも、全くあり得ないことではない…ということを実感します。ただ、80年という時間は、戦争へのリアルな感覚を持てなくなりつつある時間でもあります。
そんな中で、優れた作家たちが、自分の体験をもとに、戦争に関しての作品を残してくれていることは、私たちが平和について考える大事な拠り所になります。そんな機会になければと、以下を企画しました。

音声館エントランス劇場「戦後80年~平和を願って」
2025年8月9日(土)午後7時~8時
①一人芝居「奈良に疎開に来て」 脚本・演出 小野小町 出演 西村智恵
②野坂昭如原作 「凧になったお母さん」 朗読
③戦時の疎開児への歌「父母のこえ」紹介   (歌人の水野智子さん(戦時に疎開された)が小野に教えてくれた歌です)
④絵本「へいわとせんそう」朗読

8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。以前、お誘いをうけて、地元の親愛幼稚園でお祈りの礼拝があり、参加しました。
そして、投下された11時2分に教会の鐘を鳴らすのですが、その時、私は、奈良ならではの体験をしました。
親愛幼稚園のすぐ東側に、興福寺があります。興福寺でも、同じ時刻に鐘が鳴りました。
つまり、音色が違う、歴史的背景も違う、二つの祈りの鐘の音が共に鳴る場にいて、音が重なるのを聞いたのです。
この体験は、私の中に何かしら不思議なものを落としました。「平和」という言葉をリアルに感じたということかと思います。
なお、奈良市は非核平和都市宣言の街であり、市役所でも平和の鐘が鳴ります。

上演する音声館は防空壕の上にたっているとのことです。
間際のお知らせになりました。よろしければ、お越しください。










2025.2.9「或る町の物語〜未来から」公演

2025-02-18 | 演劇
ならまちセンター市民ホールで開催された、フォーラム×朗読劇「奈良町をつなぐ〜町家の記憶を未来に」で朗読劇を披露しました。フォーラムの第一部は、町家で実際暮らしている方のトークや、町づくりに関わる皆さんからの報告と提言、そして、宗田好史先生(関西国際大学教授)の講演「まちをつなぐもの」と、充実したものでした。それを受けての舞台公演です



これまで、奈良町にぎわいの家を企画運営するようになってから、奈良町の歴史や文化遺産をテーマに、市民参加の朗読劇を書く機会に恵まれ、奈良町の100年を町家が語るというファンタジー「町家よ語れ」、奈良が創業のテイチクレコードの社史からおこした「テイチクうたものがたり」、元興寺の鬼伝説からの「おにはうちものがたり」ほか、朗読劇にしてきました。これらは、私なりの視点も入りますが、歴史的な資料や社史があり、それをふまえての脚本になります。

町に関わる劇を作る時は、小町座のように自分の世界を自在に表現することとは別のファクターが加わります。それは、自分が住む町のことであり、演劇鑑賞の機会もそれほどない皆さんが見てくださるということ、この二つが大事になってきます。年を経たおかげで、この二つを考えながら書くスタイルが自分の中に出来てきました。

一方、今回の「或る町の物語」は完全オリジナルの戯曲となりました。唯一、モチーフとなったのが、短歌の師、前登志夫の短歌です。「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」 (『子午線の繭』1964)
今回のイベントのテーマは「未来」。温暖化に資源の枯渇、戦争は続き、時代が逆行するようなニュースを日々、耳にします。書き手としてはどうしても「未来はこのまま進むと危うい」という実感しか持てず…。いや、だからこその、舞台であり、文化系の踏ん張りどころ!と思うのですが。今回の作品は、過去を振り返るものでなく、「未来」なので、核となる資料もテキストもありません。そこで、前先生の「歌」が響いてきました。「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」この歌の「村」は「町」であり、未来の私たちの「夕闇」と「華やぎ」は何だろうと考えたのです。

「或る町の物語〜未来から」のあらすじは、木の家、町家が消え、町の全員が大きな共同住宅に全員、同じ生活スタイルで住み、朽ちた町家は危険なので壊されてしまう未来。ところが「しじん」と呼ばれる者が、ただ一人「町家」に住んでいるので、それをやめさせ、安心安全な共同の場に住まわせるとなります。その役目を任されたのが少女。少女は亡くなった父の遺品の中の古い本をみつけ、その中にある歌、「夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ」をみつけ、なんとなく声にすると…不思議な気持ちになっていきます。そして、古い詩を知っている「しじん」(詩人)のもとに通うようになって…。

こんな内容が、一体、町家のフォーラムの何と交わっていくのか…は、見てくださった方しかわからないのですが、そこに関しては、いつも温かく見守り、サポートしてくださる、天理大学の杉山晋平先生からいただいた、以下の感想に助けていただくとします。

最後の夕陽のシーン、本当に感動的でした。
姉弟、しじん、旅人が出会い、つながり、木の家が直され、町家に新たな息吹がふきこまれていく。
終盤で挿入される「町家よ語れ」の詩にじっくり耳を傾けると、あぁ、そうだったのかとも気づかされます。
長い時間をかけて自然が木を育て、その木が立ち、暮らしと重なり合って町家になっていく。
時代が移ろい、暮らしも変わっていく中で、木の家で人と人とが出会い、つながることで、町家は呼吸し続け、時に生まれ変わっていく。
翻って、旅人の力を借りて木の家を直していく姉弟には、そのことを通じて自分たちの暮らしを取り戻す姿が表現されていたように感じました。
姉が詩を読み終えた後、それぞれが自らの足で立ち上がり、みんなで西の夕陽をまなざす姿には胸にせまるものがありました。
山の木が立ち、町家が立ち直り、人が立ちあがる。<自然ー町家ー人>の関係性、その普遍性をたっぷり考えさせられました。
また、小野さんの脚本、今回の公演が、前先生の歌と対話的に進むと言いましょうか、物語が進むにつれて歌の言葉がどんどん脈打っていくようで、それが情景と合わさってすごく感動しました。
「<町家>のことを考える、残していく、未来につなぐ、ということは、<自然>と<人の暮らし>とのかかわりの中でそれを考えるということだ。」というメッセージが強くそこに表現されていたように思います。


優れた批評によって、作品が新たに生き返るような言葉をいただきました。書き手としては、感謝しかありません。ありがとうございました。

さて、ここからは、キャストチームの話になります。今回、冒頭の町の住人を演じたのは、指導する朗読チーム「言の葉の羽」の四人。デストピア風で、かつ、人間的でない空気感たっぷりな人物を演じることは、とても難しかったようです。例えば、私は「人間の個別の声でなく、大多数が集まった時の、根拠のない自信と威圧感。なので、「記号」のような感触。しかし、ロボット的な発声では困る」とイメージを伝えます。キャストの良さやキャラクターが出たらダメと言われ、かといって、全員同じようなAI的なアナウンスでもない。そんな読みはしたことがないので、最後まで大変でした。冒頭部なので、ここが固まらないと、未来世界の感触が出ません。しかし、本番は一番、そんな難しい世界に近づいた芝居でした。どれだけ頑張ったかと思います。そして、後半、メンバーは「旅人」という、前半とは全く違うキャラクターで再登場します。こちらは、それぞれの個性全開で明るく生き生きと演じてくれました。またホール初舞台の弟役は、パワフルでとてもよかったと感想が届いています。

そして、物語の核である、詩人と少女。小町座で鍛えた二人ですので、さすがの安定感でした。詩人の西村智恵は、ほとんど顔が隠れている中、声と雰囲気で畏怖されるような雰囲気と、一方でユーモアと、性別不明のこちらも、抽象的な詩人をよく演じてくれました。

キャストの皆さんは、私が忙しく稽古も回数できないので、自主稽古を頑張ったと聞いています。キャストにしてみたら「…これ…朗読劇だったよね…。」いつのまにか、演劇になっていることに、「???」だったことでしょう。「台本、離してやってるよねぇ…。」…すみません。本当にその通りです…。

最後に、一部で講演された宗田好史先生からの言葉を。「(講演内容を事前に)打ちあわせもしていないのに、いろいろと重なるお芝居になりましたね。」

以下、舞台写真です。ご覧ください。(撮影…河村牧子)


未来の町は住民全員が共に同じ建物に住む世界…。


壊れた町家に一人住む詩人のもとに少女が。


父が残した「本」に夕日の歌を見つけた少女は詩人のもとへ。


夕闇に紛れて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ(前登志夫) 


2024年11月 小町座怒涛の三本の芝居!

2024-11-14 | 演劇
小町座は、11月は今週から、週末は三本の芝居の本番が続きます。しかも、二本が新作。我ながら、よく書くねえ…と思いつつ、それより大変なのが、セリフを覚えるキャストたち。関わる全員が「できるのか!」と…今も思っていますが、それぞれの形がようやく見えてきました。以下、告知をします。皆様、ぜひ、お越しください。

①奈良町にぎわいの家「百年語り」vol.4  11/17(日)午後1時半〜 無料  出演 井原蓮水 荒木涼介


●二人芝居「きりぎりす、ないた」(太宰治『きりぎりす』より) 
登録有形文化財の大正時代の町家で、近代の文学を戯曲化して演じるこのシリーズは、昨年までの三年間は、岡本かの子(小説家・歌人・芸術家、岡本太郎の母)の作品を一人芝居にして上演しました。そして、今年はなんと…現代でも人気の高い、太宰治の作品から作りました。太宰の書く女性の語りは「え?本当に男の人が書いたの?」というくらい、女以上に女?!なんですが、そんな短編の一つ、「きりぎりす」を二人芝居に脚色、夫と妻の微妙なやりとりを、なんと高校二年生と昨年まで大学生だった若いメンバーが演じます。これってかなり難しい芝居…と書いた私が思うんですが、17歳と22歳、セリフを覚えるのには苦労していましたが、画家とその妻というキャラクターが二人にあっていたのか、いや、この二人の若者たちが特別なのか?100年前の若い夫婦の感覚が、決して古くなく、現代によみがえってきます。若い二人の芝居をぜひ、応援ください。


●朗読「カチカチ山」(太宰治『御伽草子』より)  出演 西村智恵
日本昔ばなしも、太宰の手にかかると危ない危ない…子ども向きのお話とはとてもいえない、ドキドキ感があります。ご存じ、悪い狸をやっつける正義の兎の話が、実は…。ということで、こちらは原文をまま生かした構成で、小町座、西村智恵が朗読。物語の語り部と狸と兎、三者の演じ分けをお楽しみください。

②奈良市アートプロジェクト「言祝奈良」 まちなか舞台 参加公演が二本!
 
●寅さん鹿さん   11/23(土) 10:55 と 11:40 の二回公演 奈良市三条通り商店街 旭水公園   出演 荒木涼介
商店街ということで、物売りの語り芸ができないかと考え、書いてみた作品ですが、15分程度の短いものを、若手が一人で演じます。寅さんならぬ
鹿さんが、奈良の物産を紹介し、誉めるんですが…さあ、それは何でしょう。お買い物のついでにぜひ、立ち寄ってください。

●ピクニック  11/24(日) 14:15~  奈良市役所前南庭    出演 西村智恵 満田智子
市役所前の芝生の広場、せっかくなのでピクニックを…と書き始めましたが、さて、どんなピクニックになるのか…。二人芝居ですが、キャストの決定が遅れ、稽古を始めたのが10月の終わり。本番まで一か月もない中、三回目の稽古の時には、台本も持たず、それなりに形になってきていて…長いこと、私の演出につきあってくれている面々だからこそ、とつくづく感謝しました。が、リサーチ兼ねて、現場の市役所前で演じてみると…大宮通の車の音、風が吹いて小道具が飛ぶ、などいろいろなことが…。さて、どうなるんでしょうか、ドキドキしながら、皆様、ぜひ、リアルな野外のお芝居にぜひ、立ちあってくださいませ。

ということで、週末が二週続けて本番、皆、緊張感もちながらの稽古です。
全力でオリジナル劇をお届けしますので、ぜひ、お越しください。いずれも申し込み不要です。












2024年上半期のベストプレイ(舞台)~奈良町にぎわいの家の全館移動劇が!

2024-10-09 | 演劇
報告が遅れましたが、総合演劇雑誌「テアトロ」八月号の特集「2024年上半期ベストプレイ」に、神澤和明氏(演劇評論家・演出家)が、2024年2月に奈良町にぎわいの家で上演した、「花しまい」(作・小野小町 演出・外輪能隆)を、選び、評を記してくださいました。
他の取り上げられた作品は、断然、東京が多く、紀伊国屋ホールの「ケエツブロウよ」(青年座 作…マキノノゾミ)や劇団民藝の「オットーと呼ばれる日本人」(作・木下順二)などなど、錚々たる作家と劇団です。
そんな中で、奈良で上演された私の作品を選んでくださったことは光栄ですし、それは神澤氏が長年、関西を中心に演劇活動をしながら、丁寧に小さな作品まで鑑賞されているということかと思います。大ホール、メジャーな劇団での公演だけでなく、私たちのように地域で、しかし何とかオリジナル作品の上演を続けているものにとっては、大変な励みになります。
また、今回は、奈良町にぎわいの家という、登録有形文化財を全館舞台として移動しながら芝居をしたのですが、この家の空間の力の凄さに、この10年、何度も感動した私に、家が戯曲を書かせてくれたと思っています。
そして何より、演出家の外輪能隆氏のアイデアと力量による結果と思います。
以下、全文を掲載しましたが、神澤氏がとりあげたもう一つの「広島第二県女二年西組」の評も続いています。その中の文「(前略)文字で綴られた記録は生きていないことだ。言葉は口から発せられ耳に届けられたとき、生きることができる。」前後の下りは、まるで詩のような内容で、内容も文体も非常に優れていると感じました。演劇の現場を知っておられる神澤氏ならではの生きた言葉に胸をうたれました。
小さな演劇を見ていてくださる、演劇人に敬意と感謝を表します。ありがとうございました。

「特集2024年上半期ベストプレイ」
神澤和明(演出・評論)

小さな公演だが印象に残った舞台を記したい。「奈良町にぎわいの家」が上演した『花しまい』と、平和朗読劇「広島第二県女二年西組~原爆で死んだ級友たち〜」の二つだ。

奈良公園の隣、帝に捨てられた采女が身を投げたという猿沢池の傍を過ぎ、元興寺の旧境内辺りへ来ると奈良町だ。観光客は多いが、鹿は歩いていない。古い町並の風情のなかに「奈良町にぎわいの家」と名づけられた町家がある。かつて美術商の住居だった、大正生まれのこの登録有形文化財を使って、演劇公演が行われた。主屋、土間、通り庭、蔵等を観客が移動して、そこで展開される姉妹のやりとりに「同席」する。演技者は待ち受けていたり、追いかけてきたり。これまでに見た町家を使った芝居や、区画を歩いて回る街頭劇は、芝居を場所にはめ込んでいた。これは場所がまずあって、そこから場面が立ち上がったもの。演劇の大事な条件、芝居と劇場と観客が、幸せに適合する。一回の観客は10名で一時間という長さもふさわしい。

背景となる時代は大正。花の名を持つ三人姉妹(梅、あやめ、桜)と、不思議な少女、そして観客を誘導し、時に芝居に入ってくる案内人三人が登場人物。長女は好きな男と駆け落ちしたが、破綻して出戻ってきた。その引け目からか、二人の妹の暮らしぶり、しつけにうるさい。モガで自由恋愛に憧れる次女は、女学校の同窓生に恋しているが、跡取り娘として親が選んだ相手との結婚が迫っている。自由闊達な性格の三女は姉妹を明るくする存在。そして、白のドレスを来た幻のような少女。これは、東京に出かけて関東大震災に遭い亡くなった母親のおなかにいた、生まれなかった四女だろうか。

長女も次女も、当時の世間の見方や家族制度に反発したが、結局、「女だから」という旧来の考え方に自分の人生を収めた。何も考えていないような三女が、かえって自由に、今に繋がる人生を送ったようだ。社会規範を変えたいと活動する女性たちがいて、しかしなかなか(同性にも)変化の動きは広がらず、普遍たる根っこが動きだしてやっと、変化がもたらされるのが現実だろう。

場の雰囲気を吸い取った、穏やかでノスタルジック、明るく切ない上演だ。歌人でもある作者が書く台詞は、詩のリズムと気分をもつ。何気ない日常風景に「時を超えるイフ」をかぶせ、大正が現在に生きてくる軽快な演出も優れている。

[作]小野小町
[演出]外輪能隆(2月24日)


昭和二〇年八月六日、建物疎開地の後片付け作業中の女学生3人が被爆した。当日、体調不良で欠席して助かり生き残った作者は、級友たち一人一人の命を記録しようと、被爆後30年たって聞き書きをして回った。そして『広島第二県女二年西組~原爆で死んだ級友たち~』を出版し、演劇用脚本も執筆した。その脚本は朗読劇として関西の劇団で繰り返し上演された。今回の一日きりの公演は、亡き作者への追悼にもなろう

被爆者の悲しみ苦しみをテーマにした舞台は再々見ている。それでわたしの感覚は「すれて」しまっているが、この舞台を素直に受け止めた。節度ある落ち着いた演出は流れ良く、なにより「こんな風に見せてやろう」という邪さがない。上からの「同情」でなく、当事者の目線での認識と感覚に触れる感じがした。これまで、戦争を知らない世代が戦争劇を演じ、被爆の悲惨さを語ることに、どれだけの真実みがあるのか、わたしは気にしていた。だが、あらためて気付いたのは、文字で綴られた記録は生きていないことだ。言葉は口から発せられ耳に届けられたとき、生きることができる。言葉は文字よりも先に存在する。語られないままの言葉は記号にとどまる。生きた実感できるものにするには、誰かが語らなければならない。その誰かは、書いた人間でなくても良い。語る人間の声を借りて、その言葉を書いた人間の体験と心が生き返ってくる。その言葉は、代わって語っている人のものにもなろう。大阪芸大の授業で阪神淡路大震災に関わる詩を学生に与えたら、当時はまだ生まれていなかった彼女が、読みながら泣き出した。だから、こうした体験を語りつなぎ、演じ続ける意味はある。

誤解されるかもしれないが、一言。こうした劇作品がしばしば、「被害者」の悲しみを描くのに留まってしまうのは、もどかしい。戦争の進行に反対できなかった立場からの視点も大切だろう。「戦争の悲劇を繰り返さない」という文言の、主語は誰なのか。世界の権力者たちは原爆の惨禍を口にはしても、いまだに原爆投下を正当化したり、使用するぞと脅したりしている。その考えそのものを告発する力を、演劇が持ちたい。

[作]関千枝子[演出]熊本一(4月6日)



「花しまい」