ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

戦争の時代

2022-02-24 | その他
本日、夕方、ロシアがウクライナを攻撃開始とテレビのニュースを聞いた。画面には複数、硝煙が立ちのぼっているのが見えた。そして私はコタツの前で、ストーブをつけてそのニュースを見ている。遠く離れた温かい場所で戦争のニュースを聞いている…。ウクライナは寒いことだろう。沢山、人が死ぬ。それは確かなことだ。
こうした戦争の話をブログに書いたところで何になるのか、と思いつつも、書かざるを得ない気持ちになるのは、末端ではあるが、演劇や短歌や「書く」ということを続けているということもあるだろう。「戦争」に対して、自分がどういうところにいるのかで、書くものが当然違ってくる。戦争は反対。核の保有も反対。だって、日本は戦争によって「核」を使われた唯一の国なのだから。その悲しみやむごたらしさを、多くの作家や芸術家が伝えてきたと思う。そしてたそういうものに、私の子どもの頃は触れることが多かった。あの破滅的で壊滅的な昭和の戦争が終わって今年で77年。戦争のことなんか忘れていても仕方ないという年月…という感覚が、令和にはないだろうか。
この度のウクライナ関連の流れは、テレビニュースでしか知らないが、本日の軍事行動に至るまでの流れは、戦争状態になっていく時というのは、こういう「段取り」でくるのだなという感覚を持った。それは戦争になる理由、「大義名分」的なものだ。それぞれの国にはそれぞれの言い分があり、「だからやむなく戦争になったのだ。」という理屈で返す。これは、かつての日本が大本営発表の名のもとに、様々な理由をつけて「聖戦」という名で戦いを進めてきた理屈と同じだろう。そもそも、こういう状況ではどんな情報も、遠い場所にいるものには何が本当なのかわからない。どんなフェイクニュースも作られるだろう。そういうものと一緒に今、私たちは生きているのだから。
となると、何を信じるかいえば、とにかく「戦争が始まった」という事実のみ。武力による攻撃があったということは事実。これを前提とするしかない。
だから武力はいけない、戦争はいけない。これしかいえない。武力の下では「声」は聞こえない。無視される。そして一番弱いものたちが、一番始めに倒れてしまう。
そしてこの戦争で、利益を得るものも確かにいるだろう。有事に強い「金」はどんどんあがり、政情に振り回される石油はどんどん高くなり…。そして、日本の私たちの暮らしにもじわじわと影響がやってくるだろう。グローバル経済のつながりは、容易に「戦争」も引き起こす一面があることを、私たちはもっと暮らしのレベルで知っておいた方がいいと思う。そして、遠い地の戦の話は、全世界に飛び火しないとは限らない。同じ「理屈と名目」で、簡単に「戦」は始まってしまうのだ。
ならば、私たちは、この「理屈」を助けてはいけない。理屈は言葉なのだから、その言葉に対して、はっきりとNOを言わなければ。
とにかく「武力」で「戦争」が起きた。そこに関しては、はっきりNOと言おう。
一方、私はロシアの芸術文化が好きだ。数年前に知った、デカブリストの乱を描いた映画「The Captivating Star of Happiness 美わしき幸せの星」は、帝制ロシアの圧政に立ち上がった貴族たちの物語で、叛乱をおこした者たちの家族、女性たちの姿を丁寧に描いた大作で、音楽もキャストもロシアの風景も素晴らしかった。
そして抽象絵画の先駆者、カンディンスキーも、ニジンスキーのバレエ・リュスも、映画監督タルコフスキーも!幼い頃から大好きだった「12月物語」もみんな、ロシアである。そこには、武力に強いロシアでなく、あの広大な大地に、雪や森の世界に向き合う中で生まれたものの強さや、多民族ならではのそれぞれの文化の鮮やかさが際だつロシアがみえる。
かのロシアの文豪、トルストイの『人は何で生きるか』より天使のことば。
「わたしは、すべての人は自分のことだけを考えて生きているのではない、愛によって生きているのだと知りました。」(「世界名作選」より)