弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

「殺したら殺される」

2008年01月12日 | 死刑制度廃止
 先日、都心の方に出向いた帰りに、西武線の駅で途中下車して「石神井公園」に立ち寄った。まだ日暮れまでに時間があったし、最近行ってないことを思い出したので。
 大きな池のある、昔からお気に入りの公園だ。メインの「石神井池」もいいけど、もっと好きなのは道路を挟んだ反対側にある「三宝寺池」(写真)。石神井池より一回り小さい、小高い丘と森に囲まれた静かな池だ。ボート乗りなどはできないし、中にある島にも一般の人は立ち入れない。飛来する野鳥のたまり場になっていて、ちょっとした自然観察区みたいな感じである。この日も数種類の鴨と、カワウ、ゴイサギに加え、池の外れの湿地に巣を作っているカワセミを見ることができた。
 僕は植物や野鳥に詳しいわけでは全然ないが、ここに来るといつも気分がいい。見方によっては(部分的に)、タルコフスキー的な「宇宙」を感じる場所であったりもする。

 そんないい気分を味わいつつ、池の前のベンチに腰掛けると、少し離れた隣のベンチに座っている二人のご老人の話が耳に入ってきた。いや二人といっても、ニット・キャップをかぶった色つきメガネのじいさんが一方的に話し、もう一方は「はあ」とか「ほお」とか、相槌を打っていただけなのだが。
 その話というのが、なんと!(と言うほどでもないが)死刑をめぐっての話だった。例によって山口母子殺人事件などを引き合いに、「あれじゃ被害者がかわいそう」と、死刑の正当性を主張し、それを阻む「人権派」弁護士*の暗躍を異常なことだと唾棄する。「まともな人間」なら死刑を支持して当然だと。
 勘弁してくれよ・・・場違いなこと必ずしも悪とは思わないが、こんな美しい景色の中にいて、よくもそんなギトギトしたスピーチに没入する気になれるもんだ。よほどストレスがたまってるか、話し相手に不足してんだな、と僕は思った。
 あまり言ってることがくだらないので、自分が介入して議論に持ち込んだろうかとも思ったが、相方の人は慣れているらしく、ひとしきり相槌を打ちながら、いろいろありますな、それじゃ用があるので私はこれで・・・とか言って立ち去ってしまった。大方「○○さんはいつもあの調子だ・・・やれやれ」などと内心こぼしているのだろう。取り残された○○さんは、ちょっと間が持てずに、孤独な“半笑い”の表情を浮かべてじっとしている。それを見たら僕もなんだか、好戦的な気分が失せてしまった。

 その時はそれだけだったが、帰り道、このじいさんの言った言葉が妙に引っかかって、それへの反論を知らず知らずのうちに頭の中で組み立てている自分に気がついた。
 じいさんはこう言っていたのである。

「殺したら殺される。それが当然の報いですよ。常識ですよ。」


 まず、「常識」ということについて言えば、日本の常識は世界の非常識、ということが死刑制度についてはモロに当てはまる。これに関しては今さら詳述しない。
 それより僕が引っかかったのは、「殺したら殺される」ということを、人間社会の絶対の鉄則であるかのように、いやそれ以前に、天(神)あるいは自然の定めた法則であるかのように語った、この人の語りの調子なのである(もちろん、この人特有のものなんかではない)。

 単純に思うことは、そこまで確信をもって話せるような絶対的な法則があるのなら、じゃあ戦争で兵士はバンバン人を殺すけど、なぜ彼らは全員・必ず・殺されはしないのか?──たとえばこのじいさんの年齢からすれば、同輩か先輩、あるいは親兄弟が戦時中、「敵」の名の下に人を殺したかも知れない。可能性は低いが、ひょっとしたらこの人自身が元兵士で、殺しているかも知れない。だとしたらなぜこの人や、この人の同輩・先輩・兄弟を含む大量の元日本兵はまだ生きているのだろう?なぜ「当然の報い」を受けなかったのだろう?
 それに対する答えはこうだろう。「戦時と平時は違う。戦争で敵を殺すのは、あるいは敵性国民を殺すのは、お国のためなのだから、自国民を守るためなのだから、(戦時法など一定のルールの下で)許される。君はそんなことも知らんのか。」。
 だがその答えはおかしい。それだとまるで、天あるいは神が、人間が「国家」を作り、「戦時」と「平時」で殺人に関する異なるルールを作るのを承認してくれたように聞こえる。
 しかし、いつ、どこでそんな承認がなされたというのか?人類はいまだ、その証拠を目にしていない。

 普通に考えれば、そんな承認はありえない。天あるいは神の法則は、あると言うのなら人間が近代国家を作るはるか以前からあったはずだ。それが「国家」登場後、「国家」の都合に合わせてルールを捻じ曲げるのを見逃してくれたなんて。
 それとも、「国家」以前には天や神は存在しなかったというのか。あるいは「国家」は天や神より上位にあるというのか(大日本帝国にとってはまさにそうだったけど)。
 一言で言って、クレイジーな話である。このクレイジーな話を「常識」として語れる人間が、あなたの身の回りにもいる、それが日本という国。
 そんな、語彙の足りない老人の、決まり文句に頼った雑な物言いに、細かくツッコんでも意味ないでしょう、と言われるかも知れない。でも僕は、そう言う人さえもが「戦争はまた別でしょう」と常識人の顔で語るその横顔に、死刑制度と国家が抜き差しならぬ結託関係にあることの、一つのあらわれを見てしまう。

 「殺したら殺される」、この素朴な倫理的視点に罪はない。どころか、空想してみてほしい、もしこれが本当に人間界の法則ならば、つまり自然の法則のように、自動的に「罰」として人間に与えられるならば──人は誰しも、最大一人の人しか殺せない。誰かを殺した次の瞬間、自分も死ぬ。したがって、死刑制度は要らなくなる。
 と同時に、自分も死ぬとわかっていて、なおかつ殺人に及んだ人間がいたということ、これはとてつもない悲劇だということが、素直に人々に伝わる。社会は今よりもっと切実に、殺人事件が起こる下地というものに向き合わざるをえない。この社会の何が、それほどの怒り・憎しみ・絶望を育んでしまったのか、そのことを自分たちの課題としてストレートに受けとめざるをえない人が増えるだろう。
 そして、相手を殺したら自分も絶対死ぬということがわかっていたら、自殺志願者の一部か、完全に洗脳された狂人以外、誰も戦争に行きたがらないだろう。軍隊はすべて、一人一殺が限度の自爆テロ部隊のごときものになるしかない。ただし、指令した者も「殺した者」だから殺される。したがって、命令だけ下す上官というものは存在できない。誰も戦争で出世できない。
 政治家も然り。その政治家の戦争発動に支持を与えた国民も然り。戦争でうまい汁を吸える人間は、等しく「死」の餌食となる。すると、国家は戦争を発動できない。国家の論理より、天の法則が先に作動してしまうのだから。つまり、戦争はなくなる。
 ああ、なんて素晴らしい法則ではないか!──もし本当にあれば。
 なぜ、本当には存在しないのだろう?

 無意味な空想ではない。無意味、あるいは馬鹿げているのは、「殺した奴は殺されるのが平等ってもんじゃないか」という倫理的な視点を、実在する法則のように持ち出すことの方だ。上の空想によって明らかになるとおり、僕自身極めつけに残念なことに、そんな法則はこの世には存在しないのだから。
 死刑を主張する人々のほとんどは、実在しない天の法則を盾に「天誅をくらわす」という考えに酔っているだけだ。しかし、存在しないものに成り代わって「くらわす」ことなどできない。存在するのは天の法則ではなく、自分達の抱える恐怖を何とかしてくれという、臆病者の願望に過ぎない。そしてこの願望と、天の法則の不在をいいことに成り立っているのが、まさに死刑制度と「国家の論理」の卑劣な結託なのである。

 幸か不幸か、「殺したら殺される」という「法則」はない。しかし、「ない」という現実が人間に突きつけるもの、それこそは天の意思、あるいは自然界の意志ではないだろうか?
 お互いをがんじがらめに縛り上げるのも結構。殺し合うのも結構。だが、天(神)あるいは自然はそんなことを歴史上一度も要求していない。すべて君たちが勝手にやっていることだ。勝手にしたまえ──天あるいは自然が口を開いたら、そう言うのではないだろうか。
 もし「殺したら殺される」のが真理なのだとしたら、自然はそのようにできているべきだった。それがそうなっていない以上、「殺す」こととは別の道を模索しなければならない。それが人間が「天」や「自然」と向き合った時に、自覚しなければならないことだと思う。

 別に石神井の池を眺めながら、そんなことを考えていたわけではない。でもあそこを訪れるたびに、いつも単に「きれいな景色を満喫した」というだけではない、何かの「思索」のおみやげを持って帰っている気がする(そういう意味でも“タルコフスキーっぽい”)。公園内の何かを見て、というより、歩いていてふと頭に浮かんだ(一見無関係な)何か、という形をとっているのだが。とにかく、何かが「浮かぶ」場所なのだ。
 そういう場所にいながら、頭の中にテレビや新聞の扇動文句が羽虫のようにワンワン飛び交っている、気の毒な老後を送っている人に比べたら、自分は幸せなのかもな、とも思える。こういう考察の元ネタをくれたんだから感謝したらいい、という話もあるが、感謝するならやはり石神井の池に対してだな、本音として。


*いまだにいろんなところでこの「人権派」弁護士というフレーズを目にし・耳にするが、弁護士に限らず、検事も裁判官も、司法関係者はみんな「人権派」なのが当然ではないのだろうか。というか、そうでないと困る。「非・人権派」で構成された裁判など、誰が受けたいと思うのだろう。
 これを最初にマスコミで使い始めた人は誰なのか。いずれにしても、一部日本人の「民度」というやつを無様なまでに象徴していることは確かだ。

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5 コメント

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考えてみればひどい用語です (村野瀬玲奈)
2008-01-12 18:45:47
トラックバックありがとうございます。即この記事はFAQ入りさせました。

ところで「人権派弁護士」という言葉への強烈な違和感は私も常々感じます。この「概念」を外国人に外国語で説明するときに特に感じます。

>これを最初にマスコミで使い始めた人は誰なのか。

これは調べてみたら面白いかもしれません。私は週刊新潮や週刊文春あたりの煽動的雑誌ではないかと予想します。
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右派の「用語力」 (レイランダー)
2008-01-13 19:44:28
>これを最初にマスコミで使い始めた人は誰なのか。

確かに僕も、漠然とそっち(右派)の雑誌じゃないかと思ってます。
ただ一方では、一部の弁護士たちが、自分らの立場を崇高なものだと強調せんがために、「人権」の言葉を引っ張りまわし過ぎたのを、右派が逆手に取ったのでは、っていう気もします。
右派の人はいかにもそう反論するでしょう、「お前らが人権人権ってうるさいからだ」って。
逆に言うと、右派って用語に関してオリジナリティがないんですよ。「民度」なんて言葉も、左派の本多勝一あたりが使ってたのを、いつのまにか右派が「中国人は民度が低い」みたいな形で使い始めたり。
あとは「品格」とか「○○力」とか、内容空疎な自己陶酔系の言葉しか出てこない。そういうの、こっちからすれば逆手に取る気も起きないくらい、ダサイ言語感覚なんですけど。

しかし、死刑の問題はいくら書いても話がつきません。僕の場合、抽象論になっちゃうことが多いんですけど、FAQでもなんでも、お役に立てるところが少しでもあれば幸いです。
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タルコしてますね (BLOG BLUES)
2008-01-18 16:32:18
こんにちは。冒頭の写真のカタストロフィを待っているかような劇しい静謐さに惹かれ、読み始めました。知の力に充ちた美しい文章。堪能しました。深謝です。
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はじめまして (愚樵)
2008-01-18 21:10:36
レイランダーさん、はじめまして。愚樵と申します。luxemburgさんのところでお見かけして、なんの断りもなくTB送らせてもらいました。また拙ブログにもコメントをいただき、ありがとうございます。本当はあちらで返事を差し上げるべきなんでしょうが、私のところのコメント欄が少しあっちへ向いてしまいましたので(笑)、記事の内容とズレてしまうことを承知でこちらにご挨拶させていただいた次第です。

それにしても、こちらには私の興味をかきたてる記事がたくさんありそうです。また折を見てお邪魔させてもらうことになろうかと思います。その節には、どうかよろしくお願いします。
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ありがとうございます (レイランダー)
2008-01-20 11:52:34
>BLOG BLUESさん
タルコしてますでしょう?しょぼい携帯のカメラで撮ったわりには雰囲気が出てるんで、やっぱり被写体にそういう力がみなぎってるんだろうなあと思います。

BLUESさんの最新の文章、“「KY」空気読めないから「KK」空気変えようへ”、すごく共感しました。紹介されていた記事中の「空気より文脈を読む力を」というのも、全く正しいですよね。時々、単に「字が読めない」だけじゃんかという人にも、ネット上では出くわしますが、それは置いときましょう。

>愚樵さん
コメントもいただき、ありがとうございます。TBだけでも、こちらは光栄思っております。僕もしばしば人様のところに、TB送りっぱなしという、手抜きと言えば手抜きみたいな形で共感を表明させてもらうことが多いです。愚樵さんのところにもそういう形でうかがうことが今後あろうかと思いますので、その際はお許しを。

>私のところのコメント欄が少しあっちへ向いてしまいましたので(笑)

「あっちへ向いてる」ことが自覚できてない人が一人でも絡むと・・・論争って乱雑に長引く傾向がありますよね。結局何の話だったんだよ?って感じに。
過ぎたるは及ばざるがごとしって言葉を、自戒の気持ちで思い起こすようにしたいですね。なんてイイ子ぶったりしまして。
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