今年一番驚いたこと。それは、福島原発の収拾つかない有様でもなく、安倍政権の暴走でもない。この社会の自虐的・自滅的な失態の数々、そんなものは何一つ驚くに値しない。
僕にとっての今年一番のサプライズは、ボーイ・ジョージが歌い方を変えたことであった。さらに言うなら、歌い方を変えても、やっぱり歌がうまかったことであった。
ボーイ・ジョージというと、当然のことながらカルチャー・クラブの初期のヒット曲での歌い方、鼻にかかった甘いハイトーン・ヴォーカル、いわゆる「カマカマ声」(と、僕は勝手に呼んでいる)が思い浮かぶ。
そんな彼も齢50を越えて、さすがにカマカマ声一本で勝負するのはきつくなってきているだろう、というのは察しがつくところ。この間、ドラッグ不法所持で捕まるわ、激太りして“ディヴァイン”化するわ、若い男を監禁して刑務所に入れられるわ、模範囚としてニューヨーク市の清掃奉仕活動をやらされるわ、いろいろドタバタやっていたようである。そんなスキャンダル情報だけはうっすら知っていたが、肝心の音楽の方はどうなっているのか、特段フォローしていなかった。
たまたま昔のカルチャー・クラブの曲を久しぶりに聴きたいと思ってYouTubeをまさぐっていたら、新しいアルバム『This Is What I Do』のプロモーション素材がいくつもアップされていたので、聴いてみた。そこでシングル・カット・ナンバーの「King Of Everything」をまず聴いて、ぶっ飛んだ。こ、これがボーイ・ジョージ!?
http://www.youtube.com/watch?v=nCNF3wPgqFc
ど渋いヴォーカルに圧倒された。元々ハスキーなところはあったけれど、今のこれはハスキーを通り越して「しゃがれ声」である。
よくよく調べると、何も今作でいきなり歌い方を変えたわけでなく、2000年代に入ってから少しずつ「低めのハスキー」にシフトしてきていた雰囲気もあるが、今作は特に思い切って低めの直球で勝負してきた、ようである。
確かにこの人は、インタビューなどでの素の声を聴くと、意外と低くてドスの効いた声をしていた印象はあった。このしゃがれた歌い方のほうが本来の彼に近く、昔のカマカマ声はいわば作られた声だったのかな、という気もする(作ってあのように歌えるというだけで、すごい才能だけど)。ゲイ的な観点ではどうなのか知らないが、この枯れた声のほうがよほど「色気」を感じたりもして。となると、イメージ・チェンジと言うよりも、むしろ今の方が根っこにあるものを強調していると受け取れなくもない。
いずれにしろ、ヴォーカリストとしての彼の底力に、いたく感服してしまった次第。
さらに歌の内容もユニーク、というか彼らしさが出ていて、『これが私のやることだ』という確信の込められたアルバム・タイトルと呼応している。
もともと彼の詞には、社会のマイノリティの視点や、反戦志向が色濃く投影されているものがチラホラあった(「No Clause28」「The War Song」「Hiroshima」などなど)。今作でも、シリア情勢が契機となって書かれたらしい「Feel The Vibration」という曲のほか、より明快な「Bigger Than War」という曲がある。曲だけ聴いたらシックなダンス・ナンバーで、およそ「反戦歌」のイメージはないのに、である。
「Bigger Than War」の訳はこんな感じである。
http://www.youtube.com/watch?v=Bc2QS0bIRg0
オノ・ヨーコを尊敬しているという西洋のミュージシャンはそれほど珍しくないと思うが、彼女を「ビートルズより大きい」とまで言い切れる人は、なかなかいない。だが、ボーイ・ジョージは言ってしまった。親日家だとか根性が座っているとかではなく、彼にとって音楽とは何なのか、どういう決意でそこに身を投じているのか、それをうかがわせるフレーズだ。
このアルバムではさらにオノ・ヨーコの70年代の曲、「サマンサの死」もカヴァーされている。この曲自体は反戦云々は関係がなく、レノンの不倫に対して傷ついたことがきっかけで生まれた曲という話だが、ボーイ・ジョージはその独特の繊細さ(悲憤を隠してクールに生きていく女性の心)に反応し、同化しようとしてこの曲を取り上げたように思える。
それにしても驚いた。こんな歌い方ができるなんて。この歳になって、こんなに鮮やかに脱皮して、また蝶になれるなんて。
人というのは変われるものだ。というより、変わらないではいられないものだ。その変化を静かに受け入れるのがその人の核の部分であり、核はその意味で変わらないのだろう。アーティストというのは、身をもってそうした姿を見せることが、一つの仕事なのだとも思う。
しかしボーイ・ジョージなんて、今まで大してファンでもなかったのに、まさか年の締めくくりのネタになるとは思わなかった。そんな自分の選択にも驚いた。
僕にとっての今年一番のサプライズは、ボーイ・ジョージが歌い方を変えたことであった。さらに言うなら、歌い方を変えても、やっぱり歌がうまかったことであった。
ボーイ・ジョージというと、当然のことながらカルチャー・クラブの初期のヒット曲での歌い方、鼻にかかった甘いハイトーン・ヴォーカル、いわゆる「カマカマ声」(と、僕は勝手に呼んでいる)が思い浮かぶ。
そんな彼も齢50を越えて、さすがにカマカマ声一本で勝負するのはきつくなってきているだろう、というのは察しがつくところ。この間、ドラッグ不法所持で捕まるわ、激太りして“ディヴァイン”化するわ、若い男を監禁して刑務所に入れられるわ、模範囚としてニューヨーク市の清掃奉仕活動をやらされるわ、いろいろドタバタやっていたようである。そんなスキャンダル情報だけはうっすら知っていたが、肝心の音楽の方はどうなっているのか、特段フォローしていなかった。
たまたま昔のカルチャー・クラブの曲を久しぶりに聴きたいと思ってYouTubeをまさぐっていたら、新しいアルバム『This Is What I Do』のプロモーション素材がいくつもアップされていたので、聴いてみた。そこでシングル・カット・ナンバーの「King Of Everything」をまず聴いて、ぶっ飛んだ。こ、これがボーイ・ジョージ!?
http://www.youtube.com/watch?v=nCNF3wPgqFc
ど渋いヴォーカルに圧倒された。元々ハスキーなところはあったけれど、今のこれはハスキーを通り越して「しゃがれ声」である。
よくよく調べると、何も今作でいきなり歌い方を変えたわけでなく、2000年代に入ってから少しずつ「低めのハスキー」にシフトしてきていた雰囲気もあるが、今作は特に思い切って低めの直球で勝負してきた、ようである。
確かにこの人は、インタビューなどでの素の声を聴くと、意外と低くてドスの効いた声をしていた印象はあった。このしゃがれた歌い方のほうが本来の彼に近く、昔のカマカマ声はいわば作られた声だったのかな、という気もする(作ってあのように歌えるというだけで、すごい才能だけど)。ゲイ的な観点ではどうなのか知らないが、この枯れた声のほうがよほど「色気」を感じたりもして。となると、イメージ・チェンジと言うよりも、むしろ今の方が根っこにあるものを強調していると受け取れなくもない。
いずれにしろ、ヴォーカリストとしての彼の底力に、いたく感服してしまった次第。
さらに歌の内容もユニーク、というか彼らしさが出ていて、『これが私のやることだ』という確信の込められたアルバム・タイトルと呼応している。
もともと彼の詞には、社会のマイノリティの視点や、反戦志向が色濃く投影されているものがチラホラあった(「No Clause28」「The War Song」「Hiroshima」などなど)。今作でも、シリア情勢が契機となって書かれたらしい「Feel The Vibration」という曲のほか、より明快な「Bigger Than War」という曲がある。曲だけ聴いたらシックなダンス・ナンバーで、およそ「反戦歌」のイメージはないのに、である。
「Bigger Than War」の訳はこんな感じである。
Bigger Than War
お望みなら 判定を下してあげよう
それは僕より大きい 君よりも大きい
君が好きな歌よりも 君が嫌いな人たちよりも
呪術のアイラインよりも さあもう一度確かめよう
君よりも大きい
僕よりも大きい
愛は戦争よりも大きい
僕らを結びつけ また僕らを引き裂くこともある
自分が何者か忘れさせ また思い出させる
原子のように どこにでもあるのさ
愛が漂ってきたら 隠れる場所でも探すがいい
君よりも大きい
僕よりも大きい
愛は戦争よりも大きい
ビートルズよりも大きい
ストーンズよりも大きい
エルヴィスよりも大きい
でもヨーコほどじゃない
君よりも大きい
僕よりも大きい
愛は戦争よりも大きい
僕が愛について学んだこと
すべて君から学んだことさ
愛について学んだこと
人としてするべきじゃないことさ
愛の輝きが君を熱狂させる
だけどほしがるのは愛の名を借りたモノばかり
ニューヨークでもロンドンでも
フランスでもイタリアでもジャマイカでも
原子のように どこにでもあるのさ
愛が漂ってきたら さあ隠れる場所を探さなきゃ
ビートルズよりも大きい
ストーンズよりも大きい
エルヴィスよりも大きい
でもヨーコほどじゃない
君よりも大きい
僕よりも大きい
愛は戦争よりも大きい
http://www.youtube.com/watch?v=Bc2QS0bIRg0
オノ・ヨーコを尊敬しているという西洋のミュージシャンはそれほど珍しくないと思うが、彼女を「ビートルズより大きい」とまで言い切れる人は、なかなかいない。だが、ボーイ・ジョージは言ってしまった。親日家だとか根性が座っているとかではなく、彼にとって音楽とは何なのか、どういう決意でそこに身を投じているのか、それをうかがわせるフレーズだ。
このアルバムではさらにオノ・ヨーコの70年代の曲、「サマンサの死」もカヴァーされている。この曲自体は反戦云々は関係がなく、レノンの不倫に対して傷ついたことがきっかけで生まれた曲という話だが、ボーイ・ジョージはその独特の繊細さ(悲憤を隠してクールに生きていく女性の心)に反応し、同化しようとしてこの曲を取り上げたように思える。
それにしても驚いた。こんな歌い方ができるなんて。この歳になって、こんなに鮮やかに脱皮して、また蝶になれるなんて。
人というのは変われるものだ。というより、変わらないではいられないものだ。その変化を静かに受け入れるのがその人の核の部分であり、核はその意味で変わらないのだろう。アーティストというのは、身をもってそうした姿を見せることが、一つの仕事なのだとも思う。
しかしボーイ・ジョージなんて、今まで大してファンでもなかったのに、まさか年の締めくくりのネタになるとは思わなかった。そんな自分の選択にも驚いた。
歌詞の中に war があったり atom があるからといって、すわ反戦歌!?では安直すぎると思います。ま、支援して下さる方々の意に沿って一見反戦歌に仕立てる試みもあるんでしょうが…。
彼は「せんそうはんたーい」の頃から一貫して、ソロでも、エレクトリックダンスミュージックでも、戦争をにおわす単語をモチーフに曲を作ってますが、全てその帰結は「愛」です。
僕は反戦歌の帰結は(いろんな意味で)「愛」だと思ってますし。そもそも、これは反戦歌、これはラブソング、なんてカテゴリー分けする発想は薄いですし、自分の場合。
「Bigger Than War」の場合、僕が「反戦志向」を強く感じたのは、warっていう単語が出てくるからじゃありません(atomについては全く気に留めてません)。愛は戦争より大きい、でもヨーコほどじゃない、っていうキメのフレーズからです。
「ビートルズ」や「ストーンズ」よりも、さらには「愛」よりもヨーコの方が大きい。さんざん「愛」を称えていながら、その「愛」よりもヨーコが大きい、って。
これは、いわゆるアーチストとしての彼女、レノンの伴侶としての彼女より、反戦平和運動の闘士としての彼女の方に共感を示す、ずいぶん思い切った表現だと感じられませんか?
そのあたり、世間の人にもっと着目してもらいたいからこそ、上の記事を書いたわけでして。
>反戦平和運動の闘士としての彼女の方に共感を示す ずいぶん思い切った表現だと感じられませんか?
うーん、そもそもなぜジョン・レノンの伴侶ではなく、「反戦平和運動の闘士」としての彼女なのかが私にはわかりません。彼女が様々な顔をどのように使い分けているかも知らないので的外れかもしれませんが、私は単純にジョン・レノンの伴侶としてのヨーコだと思いました。
以下私の解釈ですが、ジョージはジョン・モスという愛の対象を失ったまま、ひとりBoy George を生きざるを得ませんでした。離別前 「Love Is Love」で、あなたが目の前にいなくても本当の愛はここにあると、離れ離れであっても自分の思いは消えないと歌いました。その後ジョージは紆余曲折、2005・2007年の逮捕を経て急転直下、ジョンとの友人関係が再構築されるに至り、彼は心の平穏を取り戻し今に至ります。因みに26日は彼らカルチャー・クラブ6枚目のアルバム発売日でした。既にシングルリリースされた歌詞では、ジョンへの永遠の愛を歌っています。
翻って、愛の対象者をこの世に失ってなお、ジョン・レノンへの愛を湛えて生きているヨーコに対して、ジョージのジョン・モスとの離別の期間が言いようもないものだった彼にとって、ヨーコを前にして比較のしようのない「愛」を湛え生きているがゆえ、ヨーコを称える歌になったんだと思いました。対外的な活動ではなく、単に個人の内面の話なんだと思います。いかに「愛」で内面が満たされているかってことなんだと思います。そこに闘士は不要です。
なぜ「反戦平和運動の闘士」としての彼女なのか、の答えは単純だと思います。
この歌のタイトル、そしてサビの決めフレーズがBigger Than Warだから。
その歌詞の流れで、愛はビートルズ、ストーンズ、エルヴィスよりも大きい、でもヨーコほどじゃない、っていう。ビートルズだってストーンズだってエルヴィスだって、「愛」を歌ってるのに。
そうなったら、ビートルズ、ストーンズ、エルヴィスがやらなかったこと、だけどジョンとヨーコはやったこと、愛を歌うだけじゃなく、実践によって世に広めること、つまり平和運動のこと、を自然に連想しませんか?
加えるなら、レノンの伴侶としてのヨーコっていうのも、「闘士」の面ときっちり切り離されるようなものではないと思うんですよ。
タイトル忘れましたが、レノンの死後、ヨーコのインタビューを柱にその活動を振り返るドキュメンタリーの最後で、「彼はあなたにとって、一言でいうとどんな存在でしたか」みたいに聞かれる。ヨーコの答えは「私たちは兵士だった、だから戦友」みたいなこと言ってました。
これ、日本で聞くとちょっとギョッとする言い方かもしれないけど、欧米での「ジョンとヨーコ」のイメージってことで言うと、まあ普通にそんな感じなんでしょう、と。