弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

官邸前抗議、個人的な感慨

2014年07月02日 | アクション
 6月30日夜、官邸前抗議に参加した。「集団的自衛権」をめぐる閣議決定に対する抗議であると同時に、閣議決定ごときで国の根幹を変えてしまおうという、プロセスの乱暴さに対する抗議でもある。
 情勢分析のようなことは他所に譲る。書こうと思うのは、ここに至ってポツポツとわいてきた、個人的な感慨についてである。
 そう、安倍の(2度目の)就任以来、この幼稚なとっつあんぼーやと取り巻き集団がやりたい放題に「政治」とやらを行い、同じく幼稚な支持者たちと祝杯を上げる様を方々でチラ見しながら、僕には何の感慨もなかった。街中に貼られている自民党のポスターが胸をそらして言う通り、「日本が動き始めた」のである──奈落に向かって。とっとと底まで行っちまえ、と思うくらいのものだった。こんな国滅びたっていい。地球が生き延びればいいんだ、そっちこそが問題だ、等々。
 それでも6月30日、わざわざ官邸前に足を向けたのは、この国の一つの形が臨終の時を迎えるかもしれない、その場に立ち会えるなら立ち会おうじゃないかという、やや自虐的というか投げやりな気持ちからだった。

 現地では古い友人と久しぶりに落ち合う約束をしていた。彼は遠方で一日がかりの所用を済ませての帰りで、終電を考えれば居られる時間がわずかであるにもかかわらず、当初からこの日は絶対に参加することを言明していた。夜9時近くになってようやく到着した彼と、一通りの抗議パフォーマンスを眺めたり・時にコール加わったりした後、国会記者会館の駐車場内で一休みした。この手のデモではいつも立ち入りを禁じられている記者会館の敷地が、なぜかこの夜は(建物自体は除いて)開放されていて、喫煙したい人などにとってはちょうどいい休憩場になっていた。
 そこで、僕はある種の感慨に見舞われていることを彼に告げた。「感慨深いよな。まあ、イヤな意味での感慨だけど」。・・・こう、冗談めかして言うだけで、友人は僕が言わんとするところは何となくわかってくれる。こういうことだ。彼と知り合い、一緒にバンドを組んで活動していた頃、まさか中年過ぎた二人が、二人そろって首相官邸前の抗議行動なんぞに参加する日が来ようとは、夢にも思わなかった。
「あの頃もこの国はひどかったけどさ。でも、ここまでひどくはなかったよな?俺もデモなんて別に好きじゃねえよ。しなくていいならしない方がいい。バンドの方が絶対面白いよな?」──友人はハイハイとうなづき、苦笑していた。こういう言い訳めいた、照れかくしめいた話は前にも何度もしたことがある。そしていつも、じゃあとっととバンドやればいいんだよな(→結局めんどくさがってやらない)、という結論になるのがオチなのだ。

 しかし帰路、一人電車に乗っていて、自分のしゃべったことを思い返した時、「なんであんなことを言ったんだろう?」と感じ始めた。
 「昔はまだ良かった」は違うのではないか。昔も十分ひどくて、俺はいつもイライラ腹を立て、しかもさらに悪くなっていく予感が常にあり、焦燥感に駆られていたじゃないか。そのイライラや焦燥感を、ことあるごとに友人の彼にぼやいては、共感されたり、煙たがられたり(笑)、していたじゃないか。
 一見「昔は良かった」としても、常に今のようになる要素が薄皮一枚の下にあることを、自分は知っていた。今、薄皮があちこちで破け、隠れていたものが、ついに姿を現しただけではないか。
 ただそれだけではないのか?なのに「感慨」?

 いや、だからこそ、「感慨」があったのだ。こんな日が来ると思っていた。この社会の住人たちの愚かさのせいで、同じくらい愚かな俺自身の不甲斐なさのせいで。大地震の後にそれが来るだろうことも予感していた。そのとおりになった。俺は間違ってなかった。競馬の予想は外すが、この予想は外さなかった(笑)。
 そして間違ってない俺は変わらず無力なダメ人間で、ダメをこじらせながらしぶとく生き残っている。実際、俺は強くなった。平気ではないけど、平気な顔をするのは得意になったので、そうしている。それは中身が強くなったからできることだ。若い頃、俺みたいな弱い人間は生きていけないのではないかと思っていた時期もあった。だが、今はふてぶてしく強くなった。その強さでは、現世利益的には何も得がない、にもかかわらず。

 翌7月1日、政府は予定通り集団的自衛権行使容認の閣議決定をした。前日抗議に参加したほとんどの人が、そうなるとわかっていただろう。安倍は反対派の国民の声など聞かない。祖父・岸信介は、議事堂前に押し寄せる新安保条約締結の抗議デモを尻目に、マスコミに「わしは声なき声に耳を傾ける。今夜も巨人戦は満杯じゃないか」と言ってのけた。都合次第で「声」を選択して「自分は民意を尊重している」というポーズを取るくらい、出来の悪い孫でも引き継げる、初歩的な政治家としての処世術だろう。
 前夜だけでもういい、と思っていた僕は、気が変わってこの夜も出かけた。閣議決定が既になされた上で、どんな言葉がそこに飛び交うのだろう──そして自分は何を想うのだろう、という興味があった。

 官邸前は昨晩よりも警察の規制が厳しく、歩道のすし詰め状態は熱中症患者を出す寸前までいっているように感じた。人々の表情からは、昨晩よりは明るいお祭りの要素が減り、「怒り」が前面に出ている。
 いよいよ「臨終」の局面かな、とヤケクソ気味に考えながら昨夜の記者会館敷地内に腰を下ろし、買っておいたおにぎりを口に運ぶ。ふと顔を上げると、昨晩よりもさらに、自分と彼ら抗議参加者の間に距離がなくなっていることを、直感的に感じる。自分と同じ行動をとる人たち──叫び、こぶしを振り上げ、中指を立て、拍手で拍子をとり、打楽器を鳴らし、管楽器を吹き鳴らす人たち。路上の彼らは、過程はどうあれ、自分と同じく、ある強さを手に入れた人たちだという直感が。
 彼らに特別なつながりなど感じない。特別共感もしない。みんな普通の人間だ。ヒーローなんかじゃない。むしろこの腐った社会の中では、負け組の連中かもしれない──俺ほどじゃないにしろ。ただ、当たり前のことをしに来ているだけだ。これが当たり前であることを、説明しなくてもいい人たちだ。
 彼らは叫ぶ。「安倍はやめろ」と。「ファシストうせろ」と。「内閣倒せ」と。「憲法壊すな」と。「やつらを通すな」と。「9条好きだ」と。自分より若い人達も、同年代くらいの人達も、老いた人達も。ガタイのいい男性も、やせっぽちの男性も、ファンキーな出で立ちのおばさんも、上品そうな出で立ちのおばさんも、女子大生も、OLも、クールなアーティスト風の女性も、土方みたいなおっさんも、モヒカンのパンクスも、子連れの若いママも、会社帰りのおじさんも、白髪の老人も、腰の曲がった老婆も、躊躇なく、声をそろえて叫ぶ。「ファシストくたばれ」と。気がつくと1時間も、2時間も、途絶えることなく。
 日本社会で、これだけ多様な人々が──普段の生活ではお互い何の接点もなさそうな人々が、「ファシストくたばれ」とお行儀悪く叫んでみせたのは、史上初めてのことではないか。だが、それも当たり前なのだ。ファシストがくたばらなければ、俺達は生きていけないのだから!
 これが「社会」だ。当たり前のことをする人たちが、自由に歩き、自由に声を上げ、自由に唱和もする。普段、日常の中で付き合っている社会は、社会の殻をかぶった収納容器のようなものだ。だから息苦しい。確かに、容器に頼らなければ、それはそれで食っていけない。だが息苦しくさせるものに対して抵抗する、その営みなくして、本当の社会は成り立たない。容器が頑丈である分だけ、窒息し、瓦解してしまう。
 最悪の政府が最悪の政策を強行しようと、俺達は従わない。「従わない」意思を示し続ける、今夜がその初日だ。終わりの日ではなく、始まりの日だ。誰かが持っていたプラカードに「The War Against War」(戦争に対する戦争)とあった。そうかもしれない。俺達は、そういう「戦時」に突入したのかもしれない。
 だが俺達は強い。自由だから強い。罵られようと、あざけられようと、孤立させられようと、俺達は抵抗する。抵抗する存在であることを誇示し続ける。
 前夜とは別の、そういう感慨を持てた夜だった。

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4 コメント

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Unknown (pakin)
2014-07-04 10:22:14
日本が変わった、と言ってもご指摘のような、自分の判断や意思を直接政府にぶつける官邸前デモや全国各地のデモが現れてきたということです。新しい装いで賢く。

それは原発崩壊を目の当たりにしての覚醒でした。
我が国の崩壊する姿、相変わらずアメリカの属国であるという姿が炙りだされたのでした。

しかし、民主党という第2自民党に欺かれ、かつまた懲りずに自民党を選んでしまいました。
その結果として、憲政史上稀に見る幼稚愚劣な政府を生んでしまいました。

しかし、国民の過半数が自民党を選んだのか・・・

やたら強気の安倍政権の議席絶対多数が有権者の3分の1の得票で支えられているというインチキにも気づきました。

官邸前に集まる沢山の人々、全国で抗議行動をする沢山の人々、全体から見れば少数ですが、行動出来ずともその趣旨に同調する人々はその何百倍もいるでしょう。

戦前、有無をいわさず強権によって戦争に行かされた時代に近づいていますが、まだまだ抵抗の余地はあります。何より、あからさまに抵抗することが可能であり、抵抗できる人々の多さに希望が見えます。

更に、へそ曲がりな私は「少数」であること自体にもある種納得感を得ます。敗者であってもゆるぎません。
「勝者」に覚醒は不可能だからです。
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Unknown (レイランダー)
2014-07-04 18:15:10
pakinさん、まとめられたとおりだと思います。

>私は「少数」であること自体にもある種納得感を得ます。敗者であってもゆるぎません。
「勝者」に覚醒は不可能だからです。

この言葉に胸打たれました。負けることを怖れてはいけない、怖れる必要がないと、勇気づけられます。
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でも革マルって中核からファシストって呼ばれてるよ (Unknown)
2014-07-18 00:58:11
でも革マルって中核からファシストって呼ばれてるよ
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>Unknown (レイランダー)
2014-07-19 10:59:56
いや、あの…それのどこに反応すればいいのかしら?
なんか、いろんな意味で終わってる人みたいだな…
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