12月7日、三人の死刑執行にあたって、法務省がこれまでの慣例をやめ、処刑者氏名の公表に踏み切ったことが、いかにも何か画期的なことのように報じられた。そのこと自体、この国の国際感覚の大いなる歪み、または欠如を明確に示している。
そこで、誰かがこの言葉で揶揄するだろうと待っていたのに、意外に誰も使わないようなので、僕としてこれを使いたくなる誘惑に勝てなかった。不謹慎かも知れないが、今年1年を振り返って(まだ少しあるけど)、これほどそんなの関係ねえな出来事はなかったように僕には思える。
氏名くらい、調べようと思えば調べられる。だからこそ今まで、死刑執行から間を置かず、アムネスティやフォーラム90などの団体から、処刑者の実名入りの抗議文書がその都度出されてきた、ということももちろんそうだ。だがそれと共に、この程度の「情報公開」が、死刑制度の内実を広く議論するための材料になるわけもないという、そんな基本的な「情報」すら、死刑を追認する多数派の日本国民には届かない、むしろ届けないための煙幕になっているとさえ思う。だから、そんなの関係ねえと大声で言いたくもなるのだ。
ちなみに、僕は実は、小島よしおという芸人をテレビで観たことがない。それほどまでに、テレビのスイッチを入れる習慣が日常から消えて久しい。まあ、だから何だということもないが。
それより、気になったのが翌日のニュースである。
最初ヤフーで調べた時には、この講演会というのが一体何の講演会なのか、なかなかわからなかった。かろうじてこの朝日の記事で「平和をテーマにした」ものだということが確認できたが(注:後で毎日のweb版でも確認)、他のところの記事ではまったくこのことに触れていない。これには不可解な、気持ち悪いものを感じた。
クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)の記述から、ジョン・レノンの命日に合わせたイベントだったこともわかって、ああやっぱり、と思った。この日にレノン関連のイベントは各地で多数あった。
ただ、会場であるキリスト友会東京月会のHPを覗くと、ここが質素な生活と絶対反戦主義を奉じるクエーカー教徒の団体であり、北朝鮮への食糧援助などの活動にも携わっていたことがわかる。このことと、ピーター・バラカン氏が昨今の日本の政治・社会の閉塞ぶりに積極的に異議申し立てを行っていたこと、そして死刑廃止論者であることとは、事件の背景にとしておそらくあったと僕は考える。
だが、そのあたりを掘り下げる報道が、異様なまでに少ない。というか事実上皆無なのである。
確かにバラカン氏らが受けた被害は、ケガとしては大したものではないかも知れない。しかし(暴力というより「嫌がらせ」のレベルであっても)、これこそは紛れもなくテロ行為である。政府や警察が躍起になって警戒を訴える「テロ」が、またしても、彼らが目を向けている反対の方角で起きたのである。
新テロ特措法とやらは、この事態に対し有効か?そんなの関係ねえ、とやつらは言うのだろう。いや、言いかけて言葉を飲み込むのだろう。いっそ喉に詰まらせて、(以下省略)。
そこで、誰かがこの言葉で揶揄するだろうと待っていたのに、意外に誰も使わないようなので、僕としてこれを使いたくなる誘惑に勝てなかった。不謹慎かも知れないが、今年1年を振り返って(まだ少しあるけど)、これほどそんなの関係ねえな出来事はなかったように僕には思える。
氏名くらい、調べようと思えば調べられる。だからこそ今まで、死刑執行から間を置かず、アムネスティやフォーラム90などの団体から、処刑者の実名入りの抗議文書がその都度出されてきた、ということももちろんそうだ。だがそれと共に、この程度の「情報公開」が、死刑制度の内実を広く議論するための材料になるわけもないという、そんな基本的な「情報」すら、死刑を追認する多数派の日本国民には届かない、むしろ届けないための煙幕になっているとさえ思う。だから、そんなの関係ねえと大声で言いたくもなるのだ。
ちなみに、僕は実は、小島よしおという芸人をテレビで観たことがない。それほどまでに、テレビのスイッチを入れる習慣が日常から消えて久しい。まあ、だから何だということもないが。
それより、気になったのが翌日のニュースである。
ピーター・バラカンさんらに催涙スプレー 東京の教会
2007年12月08日22時16分
8日午後1時10分ごろ、東京都港区三田4丁目のキリスト教会「キリスト友会東京月会」で、入ってきた男が、英国出身のキャスター、ピーター・バラカンさん(56)ら5人に催涙スプレーのようなものを吹きかけて車で逃走した。バラカンさんらは目やのどに軽傷を負った。警視庁が傷害事件として調べている。
三田署の調べでは、バラカンさんらが教会の応接室にいたところ、目出し帽をかぶった男が突然入ってきて、スプレーを吹きかけたという。バラカンさんは、8日午後2時から開かれる平和をテーマにした講演会に出演するため、教会を訪れていた。
http://www.asahi.com/national/update/1208/TKY200712080208.html より
最初ヤフーで調べた時には、この講演会というのが一体何の講演会なのか、なかなかわからなかった。かろうじてこの朝日の記事で「平和をテーマにした」ものだということが確認できたが(注:後で毎日のweb版でも確認)、他のところの記事ではまったくこのことに触れていない。これには不可解な、気持ち悪いものを感じた。
クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)の記述から、ジョン・レノンの命日に合わせたイベントだったこともわかって、ああやっぱり、と思った。この日にレノン関連のイベントは各地で多数あった。
ただ、会場であるキリスト友会東京月会のHPを覗くと、ここが質素な生活と絶対反戦主義を奉じるクエーカー教徒の団体であり、北朝鮮への食糧援助などの活動にも携わっていたことがわかる。このことと、ピーター・バラカン氏が昨今の日本の政治・社会の閉塞ぶりに積極的に異議申し立てを行っていたこと、そして死刑廃止論者であることとは、事件の背景にとしておそらくあったと僕は考える。
だが、そのあたりを掘り下げる報道が、異様なまでに少ない。というか事実上皆無なのである。
確かにバラカン氏らが受けた被害は、ケガとしては大したものではないかも知れない。しかし(暴力というより「嫌がらせ」のレベルであっても)、これこそは紛れもなくテロ行為である。政府や警察が躍起になって警戒を訴える「テロ」が、またしても、彼らが目を向けている反対の方角で起きたのである。
新テロ特措法とやらは、この事態に対し有効か?そんなの関係ねえ、とやつらは言うのだろう。いや、言いかけて言葉を飲み込むのだろう。いっそ喉に詰まらせて、(以下省略)。
日本の新聞はもう読者の方に背を向ける存在だとわたしは確信しました。小沢=福田連立画策密談の仕掛け人が新聞人だったって報道されてからね。
はっきりいって新聞なんかよりは、エッチな写真で購買意欲を起こさせるオヤジ系の週刊雑誌の方がずっと性根が座っているように思えます。
刑罰によって安心を得られると国民は信じているのでしょうか。とんでもない間違いです。刑罰は人間から「人間としての自由」を奪い去るものなのに。
「飛行機の速度=0なら、飛行機は飛ばない。
人間の自由=0なら、人は罪を犯さない。
これは明白である。
人間を犯罪から救い出す唯一の手段は、
人間を自由から救い出してやることである」
(「われら」/ ザミャーチン・作)
こんなこと、わたしは絶対に「NO」です!
日本の新聞は「新聞紙」に過ぎないとは、近年広瀬隆が言った言葉ですが、もっと悪質かも知れないと覚悟しておいて損はなさそうですね。
しかしこの「ザミャーチン式」発想って、ネット界隈じゃ昔から結構猛威をふるってますよ、現実に。大手の主催する掲示板みたいなところ行くと、「テロのない世界にするためにはどうしたらいいか?」みたいな議題に、「すべての宗教を撲滅すること。それしかない」なんて真顔で書いてる大学生が必ずいたりしてね。
自分が「善良な日本の私達」教の狂信者だって自覚がないんでしょう。世の中けだるくなるわけだわな・・・・。
言われるって、だれに?
ちなみに死刑賛成のあなたに聞きたいんだけど、「被害者の気持ち」以外のことを考えたことある?