弱い文明

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『20世紀少年 -最終章- ぼくらの旗』

2009年09月15日 | 映画
 方々で宣伝され、話題になっている映画『20世紀少年』の第三章(『最終章 ぼくらの旗』)を観てきた。
 僕の場合、第一章を映画館で観て「面白い!」と思い、第二章も映画で観て、それからようやく原作のマンガを読んだという、遅れてきたファンである。
 マンガは素晴らし過ぎて(自分にとって必要なもの、という意味で)、なんでもっと早く読んでおかなかったか、後悔することしきりだった。でもって、マンガを読んだ後で気づいたのは、実は映画の方は大したことないな、ということだったりして。
 様々な異論がありうることはわかっている。が、僕の考えを正直に言わせてもらえば、全3部作、7時間以上にもなる長尺をもってしても、マンガの中の重要なメッセージ、あるいはパトスを描き切れていない、ということになる。堤幸彦監督は、原作の「解釈」ではなく、あくまで忠実な「再現」を心がけた、というようなことをインタビューで言っていたけれど、それにしては抜け落ちている大事な話が多い。代わって、いかにもこうした作品の映画化における常套手段であるところの、上っ面の派手な、わかりやすい絵(たとえばCGを駆使したスペクタクル・シーンや、無意味に登場する芸能人の誰それ、といった)で尺を稼いでいる。そのあたり、原作が長い話だから仕方ないね、といって済ませられる問題とは違うように感じる。
 今さらだけど、部分的にキャスティングも不満。僕からすると、主演の唐沢寿明がまずもって違う、という感じがする。「サダキヨ」のユースケ・サンタマリアも。「サダキヨ」の物語は非常に大切な、マンガ『20世紀少年』の一つの大きな柱であるのに、映画の方では消化不足の描き方になっている。
 あるいはまた、ちょっと切ないシーンでは必ず入ってくる“せつない系”の音楽がうっとおしい。音楽の好みの問題ではなく、物語の深刻さにそれが釣り合っていないことが問題だ。映画の、一つ明らかに勝っている部分は、マンガとは違って音が出るということだけど、その音を必ずしも自覚的に有効に使っていないのが口惜しい。

 ・・・と、そんな具合に、映画は挙げていけばいろいろと難点のあることが、原作を読んだ後では見えてきてしまった。なので、最後の第三章も、あまり期待せず、どちらかといえば惰性で観に行く、というノリだった。ただ唯一、「ともだち」の正体をめぐって、原作とは違う展開が用意してあるという、そこだけはかなり気になっていた。
 といっても、「ともだち」が誰なのかという、犯人当ての謎解きに興味があった、ということではない。僕が興味があったのは、「ともだち」が誰であれ、その彼はなぜここまでのこと(人類を滅亡の瀬戸際まで追い込む)をしでかす人間になりえたのかという、その部分の描き方だ。
 その点では原作のマンガでも、僕は物足りなさを感じていた。「ともだち」の正体、その心の闇というものをめぐって、浦沢直樹は読者をうまく説得できていない、というか、(あえて?)説得を放棄してしまっているような感じがしていた。ただ、そのことが物語全体の魅力を損ねているわけではない──僕にとってあの物語の最も共感するポイントは、第一章のレビューでも書いたとおり、「ロックとは何か」ということを、真正面から描いていることにあったからだ。

 『最終章 ぼくらの旗』も、上に挙げた映画化の難点をそのまま引き継いでいる、どころか、前二作以上に話を詰め込み過ぎて、広く・浅くの描き方になってしまっているような気がした。ラストのコンサートのシーンも予定通りの大団円で・・・・ここまでで終わりだったら、相当に物足りない印象だったろう。ところが、エンドロールが出終わった後で、エピローグが始まった。試写会の段階ではわざとカットされていたという、いわくつきのエピローグ。
 この10分ほどのエピローグが秀逸だった。僕はこれを観て、初めてこの作品を映画にした意味を納得できたような気すらした。まさに、マンガではあえてぼかしていた「ともだち」の素顔が──文字通りの「顔」というこだけではなく、「ともだち」が抱えていた傷、心の闇がどれほどのものであったかということが、浮き彫りになる。

 そして、映画は音が出るのが強み、と言ったけれど、まさにその強みが前面に出るのもこのエピローグのシーンである。
 マンガでも描かれたとおり、虚無に向かって歩み出す中学生の「ともだち」の、その足を釘付けにする爆裂音──極めつけに感動的なこのシーンには、しかし依然としてミステリーが、そして複雑なパラドックスが隠されている。もしも主人公があのレコードをかけなければ、「ともだち」は命を絶っていたのか。あの音があったがために、「ともだち」は生き残り、世界を破滅に導いた──ならば、ロックは史上最悪のジェノサイドの発端を開いたのか?ロックなんてない方が、世界人類は平和だったのか?
 堤監督ら映画の製作者は、そして浦沢直樹は、今度はそれを宿題にして観客に与えたのだ、という風にも読めるかもしれない。
 だが、僕の腹は決まっている。それでもロックは鳴るべきだった。「ともだち」は生きながらえるべきだった。
 ネタばれになるからあまり書かないが、神木隆之介くんの目を見張る存在感が、すべての矛盾を帳消しにしてしまった。この映画は彼で救われた、と言ったら言い過ぎだろうか。だろうなあ。

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2 コメント

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ホーリーマウンテン (ysg)
2009-09-27 22:23:31
システム・オブ・ア・ダウンの和訳見させていただきました。
大変勉強になりました。
ありがとうございます。
ホーリーマウンテンの歌詞は,
結局,ト○コは出て行けという意味なんでしょうか。
とどのつまり,殺さないで,ということだけは分かりました。
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>ホーリーマウンテン (レイランダー)
2009-09-28 10:27:19
それしか分からなかったのだとしたら、こちらの力不足という他ありません。今後、より研鑽します。
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