弱い文明

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「法律と道徳」~大杉栄より

2007年09月01日 | 書籍
 旅行などはしなかったが、この8月にはいろいろなものを観たり聴いたりした。特にお盆休みの頃は、先に取り上げた『ガイサンシーとその姉妹たち』以外にも、『ヒロシマナガサキ』や基地問題についての映画、戦争回顧関連のワークショップなど、連日のように足を運んだ。それぞれに感じるところ・思うところがいっぱいあったのだが、いっぱいあり過ぎて消化不良を起こしてしまい、結局書かずじまいになって9月になってしまった(よくあるパターン)。いずれは書こうと思うが、いつになるやら。

 そんないっぱいあったことの中の一つに、大杉栄の本と出会ったことがある。図書館で偶然、『大杉栄評論集』(岩波文庫)が目にとまり、何の気なしにぱらぱらとめくっていて、頭の中に電流が走ったのである。僕はこういうことが時々ある。
 大杉栄についてはその名前と、「大正時代のアナーキスト」という大雑把な認識、それに「あの」甘粕大尉に殺された、という三面記事的な知識を持っているくらいで、興味はあったけれど、これまでちゃんと書いたものを読んだことがなかった。彼に限らず、明治・大正の頃の文物全般にお気に入りのものがなく、どうもその時代のものは古臭くて読む気がしないという、先入観を引きずっていたからでもある。
 実際に大杉の文章を読むと、やはりそういう「時代の限界」のような部分は散見するのだけれど、それを補って余りあるほどの新鮮さがある。彼は文筆にすべてを賭ける、いわゆる「作家」ではなく、行動してなんぼの「活動家」だったわけだけど、そのことも含めて、他人とは思えないような、自分が今抱えている問題までも見透かされてしまったような、共感、というよりショックを覚えた。それが昔も昔、大正時代の人間だということが、なおかつショックだった。

 実は前回の「道徳」云々の話も、今回の大杉の文章を紹介するための前フリのつもりで書き始めたのに、だんだん興奮して長くなってしまったので、あちらはあちらで独立させたのである。
 紹介したかったのは、上述『大杉栄評論集』所収の、「法律と道徳」と題する、わずか2ページ足らずの短いエッセイだ。大杉が数度の投獄を経て、同志の荒畑寒村とともに文芸雑誌として(そうでないと当局から許可されなかったため)発刊した「近代思想」に、みずから発表したものだ。大正元年、大杉が27歳の時の一文である。

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法律と道徳

 法律は人を呼んで国民という。道徳は人を指して臣下という。
 法律が軽罪人を罰するのは、わずかに数ヶ月かあるいは数ヵ年に過ぎない。けれども道徳はその上に、更にその人の生涯を呪う。
 法律は着物のことなどに余り頓着しないが、道徳はどうしてもある一定した着物を着させる。
 法律は何かの規定のある税金のほかは認めもせず払わせもしないが、しかし道徳は何でもかでもお構いなしに税を取り立てる。
 法律は随分女を侮蔑してもいるが、それでもともかく小供扱いだけはしてくれる。道徳は女を奴隷扱いにする。
 法律は、少なくとも直接には、女の智識的発達を妨げはしない。ところが道徳は女を無知でいるように、然らざればそう装うように無理強いする。
 法律は父なし児を認める。道徳は父なし児を生んだ女を排斥し、罵詈(ばり)し、讒訴(ざんそ)する。
 法律は折々圧制をやる。けれども道徳はのべつ幕なしだ。
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*文中、一部の旧体漢字は新体字にあらためてある。(  )内の読み仮名もレイランダーによる。

 大杉のエッセイと言えば、「美は乱調にあり」の一節で有名な「生の拡充」などが代表的とされているが、僕にはこの「道徳と法律」のような「あーあ、言ってやっちゃった」的なシンプルな断定調の中に、彼の真骨頂があるように感じられる。
 女性に関する法律面の記述に関しては、当時の法律と今とで大きく違っていることは言うまでもない。しかしそこを除けば、これが100年近くも前の日本人が書いたものとは思えないほど、現在の日本の問題とかぶってくるように感じるのは僕だけだろうか。少なくとも問題の根の部分は、大正時代からこっち変わっていない(それじゃまずいだろ)。
 国家がふりかざす道徳の、またそれに盲従する社会の病巣を、こんなに的確に捉えて暴露していた人がいた。それがあの時代、どれほど勇気のいることだったのか、現代の僕には、にわかには想像できないけれど──それを実感するはめになる社会が到来しないように、何とかする義務があることはわかっているのだけれど──いつ果てるとも知れない朝青龍バッシング一つを見るにつけ、すでに「何とかする」気が思い切り失せているのが現実だったりする・・・・あれもプライドを傷つけられたチンケな日本人の群れが、「道徳」を盾に手負いの獣に襲いかかっている構図だ。大杉なら「ケツの穴が小せえ奴らだ」と一笑に付しただろう。

 今日9月1日は関東大震災の発生した日だ。震災後の混乱の中、9月16日、大杉は軍部の意を受けた甘粕憲兵大尉の手によって、妻・伊藤野枝(上写真右)と甥っ子とともに殺された(とされる──甘粕は実際に手を下したわけではなく、軍部と申し合わせて外面上そういう役回りを引き受けただけ、という説もあるようだ)。
 甘粕はたった3年の服役の後、フランスへ、後に満州へ転属された。満州映画協会理事長の肩書きをもってその地で暗躍したことは、映画『ラスト・エンペラー』などでも知られている通り。といってもあの映画での甘粕は、かなりベルトリッチ好みの「無口なニヒリスト」っぽく脚色されているようだが。

 大杉栄の人生・思想に関しては、畑に家を建てるまでのkazenojijiさんが、素晴らしく読み応えのある文章(「大杉栄に花束を」1~6)をものしている。

注:こうして作品丸ごとをブログに掲載することが、「引用」の範疇を超える、著作権に絡む問題が発生する旨、岩波書店の方からクレームがつくようなことがあれば、いつでも直ちに削除する用意がある。ただ生意気を言うようだが、大杉の思想・精神から見ても、そのようなクレームは無益であることは断言できる。


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2 コメント

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Unknown (所沢の人)
2007-09-18 02:21:18
法律と道徳の一節、とても面白いです。私は法律と道徳というと、学生時代の刑事訴訟法の教授の話を思い出します。
道徳を基準にして裁判することはできないのは罪刑法定主義からして当然ですが、法律の趣旨や目的に遡って罰することはできない、という話だったと思います。これは趣旨やら目的やらまで遡ってしまえば道徳を基準に裁判しているのと代わりないといえるからなのでしょう。
まあ、今の日本でそこまでひどい刑事裁判が行われていることは無いと思いますが、嫡出推定や再婚禁止期間の問題あたりは相変わらずひどかったですね。これらの規定は子の福祉を保障するためのものなのに、何故だが自民党の議員に法律婚を尊重する規定と解釈されてしまった。まさにある偏った道徳観によって法律の運用が捻じ曲げられた感があります。
ああ、でもそうすると道徳を法律によって強制する事態は今も変わらないんですねえ。

初めてコメントします。駄文ですみません。
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Unknown (レイランダー)
2007-09-20 00:12:58
おお、地元の方ですね。クールなコメントありがとうございます。

>法律の趣旨や目的に遡って罰することはできない[・・・・]趣旨やら目的やらまで遡ってしまえば道徳を基準に裁判しているのと代わりない・・・

僕は法律に関しては素人ですけど、素人だってこれくらいはわきまえてなきゃいけないと痛切に感じます。意外と一般の人って、そこら辺ごちゃごちゃになっている気がします。

また法律を学んでいる人、法律を運用する側にも、やはり怪しいところはあると思います。
たまたま最近、「死刑囚からあなたへ」(インパクト出版会)って本を読んでたら、中山千夏が興味深い経験のことを書いてました。
参議院議員で死刑廃止運動を進めていた彼女は、あるとき「死刑問題を考える」司法研修生の会に講師として呼ばれたそうです。そこで中山氏が提起した死刑廃止論に対して、法律を専門的に勉強しているはずの若者達が、被害者感情/遺族感情はどうなるんだという、かなり感情的な反発をしてきた。
一般の人ならともかく、司法修習生ともあろう人達が、そんな誤った感情移入で死刑を求める感覚を持っていることに、中山氏はショックを受けた。ある修習生の話では、教官である先輩判事が「自分は死刑判決を三回した。後悔していない。遺族感情を考えれば当然である。諸君もその点をよく考えろ」というような教育をするんだと。これは80年代の話みたいで、最近はどうなのか知りませんけど・・・。

感情や道徳観自体が間違ってるとは言えなくても、それを法にどう反映させるかはまた別の問題なんですよね。それがわかっているようでわかっていないんじゃ、大正時代と比べてもあまり進歩してないよなあ、と感じてしまうわけです。
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