班忠義監督の長編ドキュメンタリー第二作、『ガイサンシーとその姉妹たち』の大宮での上映会に行ってきた。
「ガイサンシー(蓋山西)」とは「山西一の美人」の意味。戦時中、山西省の山間の村にその名で呼ばれた若い女性がいた。侵略してきた日本軍がその評判を聞きつけ、囚われた彼女は、各村から拉致されてきた少女達ととも、長期に渡って日本兵の性奴隷にされた。
「姉妹たち」というのは、この場合本当の姉妹ではなく、慰安所にいる時にガイサンシーの人柄に触れ、また恩義を受けた少女達が、彼女を「お姉さん」と慕って呼んでいたことからきている。たとえば彼女は、年下の少女たちがあまりにもひどい状態の時に(出血が止まらない、気を失っている・・・・等々)、あるいは特に残虐な日本兵が来た時に、身代わりを願い出ることによって、「妹」たちをかばったのだった。もっとも、結局は焼け石に水のようなものだったようだが・・・・。
慰安婦たちの受けた暴力の中身について、それがどれだけ醜悪で残酷なものだったか、言うまでもなく大方の日本人の認識は足りない。だが、被害者である同じ中国人たちの認識も、足りているとは言い難かった。彼女達の多くは心身を苛む後遺症に悩みながら、「敵と寝た女」「汚された女」という目で見られ、あるいはそういう目で見られることを恐れ、カミングアウトできずに半世紀ものあいだ生きていた者も少なくない。被害者であるにも関わらず、戦後自分達の社会から疎外されるという、戦時性暴力の被害者に共通した構造で、韓国でも東南アジアでも同じである。ましてこの映画のような、閉鎖的な中国の村ではその傾向が強かった。
だがその状況も、現地では変わりつつあるらしい。
これは映画上映後の内海愛子さんとの対談で、班監督が観衆に補足説明してくれた話だが、解放後、ガイサンシーは村の中で孤立していた。体の方が(後遺症は残しながら)持ち直しても、精神を病んだままで、時々あらぬことを口走ったりして、そうした「トラウマ」についての理解に欠けた村人たちと、絶えず衝突していたという。
彼女の最初の夫は、国民党員だった。彼は日本軍の侵入以前に、妻と幼い子供を残して行方をくらました。子供はガイサンシーが日本兵に捕まった後、餓死した。
戦後結婚した2番目の夫は、共産党の地区指導者だった。ガイサンシー自身も女性による委員会の委員長などを元々務めていたのだが、慰安婦だった者にそのようなポストは似つかわしくないとして、辞めさせられた。それで彼女は世間から身を隠すように生きていたのだが、家ではこの夫による家庭内暴力にさらされた。たぶんこの男は、俺はお前みたいな傷物をもらってやったんだぞ、ありがたく思えといった感覚で彼女と接していたのではないかと、班監督の話から僕は推察する。
この夫と別れることになったいきさつは聞き損なったが、三番目の夫はうって変わって、毛並みという点では村でも最悪の、性病あがりの醜い皮膚の持ち主だった。保守的な彼女の村では、女性が一人で生きていくことなど許されない。誰かの妻にならなければ、畑仕事一つする権利がない。そこで、村の中でも一番嫁の貰い手がないような男のもとに、ガイサンシーは押し付けられた。
ところがこの男は見た目とは裏腹に、彼女を一人の人間として尊重してくれた、初めての男性だった。この夫に先立たれて後、もはや彼女は心身の後遺症の苦しさに耐え続けることができず、自ら命を絶った。
このドキュメンタリーの製作過程で、そうした隠されていた彼女の心の事情、同じ元慰安婦の証言などが地元の人達にも詳しく知られるようになり、遅まきながらガイサンシーに対する認識は変わっていったのだという。
実は映画では、その彼女の解放後の軌跡の大部分が割愛されていて、すでに年老いた彼女が自ら死を選んだというのが若干唐突な印象を与える。もっと詳しく、もっと長く、上のようないきさつを映画本編の中で描いてくれた方がよかったのに、というのが率直な感想だ(書籍版の方では詳しく書かれているようだが、僕は確認していない)。
それでも、登場する今は老婆になった元慰安婦たちの表情、声、しぐさといったものだけで、これは十分に第一級の歴史の証言である。シーン構成からも、また班監督の話からもわかったことだが、監督は「姉妹たち」を何度も訪れている。そのたびに少しずつ確実に打ち解けて、彼女たち自らが「現場」に班監督を引っ張っていって、自らの身に起きたことを話すまでに積極的にさせている。たった一回の表面的な取材で「証言」が取れたとする、安直なエセ・ジャーナリスト、エセ歴史学者では、こうはいかない。
もっともそれは、戦時性暴力という事柄の性質が、否が応にもそうさせる、という面もあるのだろう。この犯罪に関しては、加害者も被害者も、どちらも記憶を閉ざしている。どちらも言いたくない。いや、言いたくても言えない、そういう性質がある。
だからこそ、何度も足を運んで、その度に老女達は言葉としては同じ事を言うかもしれないが、声や体の震えまで含めた「言い方」が、どんどん熱を帯びていく、班監督のカメラはそれを捉えようとした。一方で、中国戦線からの帰還兵である日本の老人が強制的“慰安婦”の存在を否認する、「言葉だけ」のヘラヘラした調子とのコントラストが、僕ら日本人が今立っている地面の亀裂の深さを、思い至らせるのだ。
僕ら日本人は、戦後こうした大量の日本兵の(言葉はあえて悪いが)「口を割らせる」作業を怠った。そのことのツケが今、そしてこれからもっと押し寄せてくる気がする。日中戦争は、太平洋戦争に比べ、あまりにも語られていない。それに加え、なぜ中国侵略にいたったかのプロセスについても、それこそ福沢諭吉あたりまで遡っての、一種の民族スケールでの精神分析も必要だろうと常々感じている。追々取り上げていきたい。
余談になるが、班忠義という人を、僕はジャン・ユンカーマン監督の『日本国憲法』の中の登場者(ちょうど『ガイサンシー』を製作中だった)として初めて知った。そこでの彼のイメージは「好戦的」とまでは行かずとも、結構キツイ調子でまくし立てる中国人、という感じだった。実際に今回生で語っているのを観ると、早口なところは変わらないけど、思いのほかソフトで、人なつっこい、お茶目ですらある人なのを知って、驚くと同時になんだか嬉しかった。映画はものすごくヘヴィーだったのに、その後の彼のしゃべりで、妙に癒されてしまった。いいのか悪いのか──たぶんいいんだろう。
「ガイサンシー(蓋山西)」とは「山西一の美人」の意味。戦時中、山西省の山間の村にその名で呼ばれた若い女性がいた。侵略してきた日本軍がその評判を聞きつけ、囚われた彼女は、各村から拉致されてきた少女達ととも、長期に渡って日本兵の性奴隷にされた。
「姉妹たち」というのは、この場合本当の姉妹ではなく、慰安所にいる時にガイサンシーの人柄に触れ、また恩義を受けた少女達が、彼女を「お姉さん」と慕って呼んでいたことからきている。たとえば彼女は、年下の少女たちがあまりにもひどい状態の時に(出血が止まらない、気を失っている・・・・等々)、あるいは特に残虐な日本兵が来た時に、身代わりを願い出ることによって、「妹」たちをかばったのだった。もっとも、結局は焼け石に水のようなものだったようだが・・・・。
慰安婦たちの受けた暴力の中身について、それがどれだけ醜悪で残酷なものだったか、言うまでもなく大方の日本人の認識は足りない。だが、被害者である同じ中国人たちの認識も、足りているとは言い難かった。彼女達の多くは心身を苛む後遺症に悩みながら、「敵と寝た女」「汚された女」という目で見られ、あるいはそういう目で見られることを恐れ、カミングアウトできずに半世紀ものあいだ生きていた者も少なくない。被害者であるにも関わらず、戦後自分達の社会から疎外されるという、戦時性暴力の被害者に共通した構造で、韓国でも東南アジアでも同じである。ましてこの映画のような、閉鎖的な中国の村ではその傾向が強かった。
だがその状況も、現地では変わりつつあるらしい。
これは映画上映後の内海愛子さんとの対談で、班監督が観衆に補足説明してくれた話だが、解放後、ガイサンシーは村の中で孤立していた。体の方が(後遺症は残しながら)持ち直しても、精神を病んだままで、時々あらぬことを口走ったりして、そうした「トラウマ」についての理解に欠けた村人たちと、絶えず衝突していたという。
彼女の最初の夫は、国民党員だった。彼は日本軍の侵入以前に、妻と幼い子供を残して行方をくらました。子供はガイサンシーが日本兵に捕まった後、餓死した。
戦後結婚した2番目の夫は、共産党の地区指導者だった。ガイサンシー自身も女性による委員会の委員長などを元々務めていたのだが、慰安婦だった者にそのようなポストは似つかわしくないとして、辞めさせられた。それで彼女は世間から身を隠すように生きていたのだが、家ではこの夫による家庭内暴力にさらされた。たぶんこの男は、俺はお前みたいな傷物をもらってやったんだぞ、ありがたく思えといった感覚で彼女と接していたのではないかと、班監督の話から僕は推察する。
この夫と別れることになったいきさつは聞き損なったが、三番目の夫はうって変わって、毛並みという点では村でも最悪の、性病あがりの醜い皮膚の持ち主だった。保守的な彼女の村では、女性が一人で生きていくことなど許されない。誰かの妻にならなければ、畑仕事一つする権利がない。そこで、村の中でも一番嫁の貰い手がないような男のもとに、ガイサンシーは押し付けられた。
ところがこの男は見た目とは裏腹に、彼女を一人の人間として尊重してくれた、初めての男性だった。この夫に先立たれて後、もはや彼女は心身の後遺症の苦しさに耐え続けることができず、自ら命を絶った。
このドキュメンタリーの製作過程で、そうした隠されていた彼女の心の事情、同じ元慰安婦の証言などが地元の人達にも詳しく知られるようになり、遅まきながらガイサンシーに対する認識は変わっていったのだという。
実は映画では、その彼女の解放後の軌跡の大部分が割愛されていて、すでに年老いた彼女が自ら死を選んだというのが若干唐突な印象を与える。もっと詳しく、もっと長く、上のようないきさつを映画本編の中で描いてくれた方がよかったのに、というのが率直な感想だ(書籍版の方では詳しく書かれているようだが、僕は確認していない)。
それでも、登場する今は老婆になった元慰安婦たちの表情、声、しぐさといったものだけで、これは十分に第一級の歴史の証言である。シーン構成からも、また班監督の話からもわかったことだが、監督は「姉妹たち」を何度も訪れている。そのたびに少しずつ確実に打ち解けて、彼女たち自らが「現場」に班監督を引っ張っていって、自らの身に起きたことを話すまでに積極的にさせている。たった一回の表面的な取材で「証言」が取れたとする、安直なエセ・ジャーナリスト、エセ歴史学者では、こうはいかない。
もっともそれは、戦時性暴力という事柄の性質が、否が応にもそうさせる、という面もあるのだろう。この犯罪に関しては、加害者も被害者も、どちらも記憶を閉ざしている。どちらも言いたくない。いや、言いたくても言えない、そういう性質がある。
だからこそ、何度も足を運んで、その度に老女達は言葉としては同じ事を言うかもしれないが、声や体の震えまで含めた「言い方」が、どんどん熱を帯びていく、班監督のカメラはそれを捉えようとした。一方で、中国戦線からの帰還兵である日本の老人が強制的“慰安婦”の存在を否認する、「言葉だけ」のヘラヘラした調子とのコントラストが、僕ら日本人が今立っている地面の亀裂の深さを、思い至らせるのだ。
僕ら日本人は、戦後こうした大量の日本兵の(言葉はあえて悪いが)「口を割らせる」作業を怠った。そのことのツケが今、そしてこれからもっと押し寄せてくる気がする。日中戦争は、太平洋戦争に比べ、あまりにも語られていない。それに加え、なぜ中国侵略にいたったかのプロセスについても、それこそ福沢諭吉あたりまで遡っての、一種の民族スケールでの精神分析も必要だろうと常々感じている。追々取り上げていきたい。
余談になるが、班忠義という人を、僕はジャン・ユンカーマン監督の『日本国憲法』の中の登場者(ちょうど『ガイサンシー』を製作中だった)として初めて知った。そこでの彼のイメージは「好戦的」とまでは行かずとも、結構キツイ調子でまくし立てる中国人、という感じだった。実際に今回生で語っているのを観ると、早口なところは変わらないけど、思いのほかソフトで、人なつっこい、お茶目ですらある人なのを知って、驚くと同時になんだか嬉しかった。映画はものすごくヘヴィーだったのに、その後の彼のしゃべりで、妙に癒されてしまった。いいのか悪いのか──たぶんいいんだろう。