日本の食文化・和食が世界無形文化遺産に認定。食文化に深く根ざした伝統料理の大切な麹は「国菌」に定められています。

日本の誇る和食「WASHOKU」の美味しさとヘルシーは世界で高く評価され麹の不思議な料理力を世界に向けて情報発信します。

梅田スカイビルはどの国の観光客にも人気

2014年04月03日 | Cool Japan

 梅田スカイビルはどの国の観光客にも人気があるが、「特に、伝統的な建築物が主体のヨーロッパは近代的な高層ビルが少なく、格好の観光素材になる」という。スイス人女性(24)は「ユニークな形が印象的。友達にも勧めたい」と喜んでいた。

 開業21年を経て再評価された背景が知りたい。設計を手がけた原広司・東京大学名誉教授に聞くと、「『空中都市』を創りたかった」と振り返る。

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地上から見上げた梅田スカイビル。ガイドブックが「未来の凱旋門」と星付きで紹介

地上から見上げた梅田スカイビル。ガイドブックが「未来の凱旋門」と星付きで紹介
 「世界の高層ビルで際だった特徴があるものはなかなかない。認められるにはヘンテコなだけではダメで、必然性がいる。

空中都市や空中庭園は古来、世界中にある物語。普遍的な幻想だから古くならず、外国人からも愛されるのでは」と原さん。空中庭園といえば古代バビロンが有名だが、スカイビルが海外の人の想像を強く刺激するのだろうか。

 建築当時、連結超高層ビルは珍しく、展望台をワイヤでつり上げる世界初の工法を用いた。「世界遺産と並ぶとは思わないが、現代建築の一つの代表として後世に残るはず」と自負する。

 京都や奈良には長い歴史を持つ社寺が立ち並ぶ。しかし、世界から日本を代表するとみなされた建築物が大阪にもあると知って、うれしくなった。次回、友人が遊びに来たら、お好み焼き店や道頓堀に加え、梅田スカイビルも案内しよう。

(大阪・文化担当 佐々木宇蘭)

[日本経済新聞大阪夕刊関西View2014年3月25日付

梅田スカイビル It's Cool! 外国人 年25万人が空中散歩

2014年04月03日 | Cool Japan
梅田スカイビル It's Cool! 外国人 年25万人が空中散歩

 大阪・梅田の高層ビル「梅田スカイビル」の展望台を訪れる外国人観光客が急増している。2013年は前年の2.5倍の25万人が来場し、過去最高を記録した。ビルは映画館、飲食店を備えた定番のお出かけスポットだが、開業したのは21年前。なぜ今になって人気が出たのだろう。

 ビルを目の前にすると、まず奇抜なデザインに驚く。並んで立つ40階建ての高層ビル2棟が最上部でつながり、連結部分が展望台「空中庭園」になっている。39階で受け付けをすませ、空中に浮いた長さ約40メートルのエスカレーターに乗る。左右、天井はガラス張りで外が丸見え。足がすくむ。

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奇抜なデザインが外国人観光客に人気(大阪市北区)

奇抜なデザインが外国人観光客に人気(大阪市北区)
 「Cool!(格好いい)」。背後の声に振り返ると男性の3人連れ。21歳の米国人は「(旅行サイト)『トリップアドバイザー』で興味を持った」と話す。「空を飛んでいるみたい」と興奮気味に景色をカメラに収めていた。

 その先の展望台は屋外にあり、円形の回廊。淀川や大阪湾、梅田のビル群などを一望できる。中央は丸くくりぬかれていて、はるか下の地面がのぞく。この日は午後4時から1時間で、ドイツやスイスなどから5組の観光客。イスラエルから35人の団体も訪れた。

 評判通りだが、何があったのか。ビルを運営する積水ハウス梅田オペレーション(大阪市)に疑問をぶつけると、「08年に英紙『タイムズ』で『世界を代表するトップ20の建物』として掲載されたのがきっかけです」。ギリシャのパルテノン神殿、インドのタージ・マハルなどの世界遺産と共に日本で唯一選ばれ、「スリリングでアドレナリンが出る」「四方八方が見渡せ、行く価値がある」と絶賛された。


 世界的に有名な英国の旅行ガイド「ロンリープラネット」でも「大阪で最もドラマチックな近代建築」「未来の凱旋門のよう」と書かれ、「必ず行くべきだ」の星印付きで紹介されている。これらが口コミで広がり、ブームになったようだ。

 国際観光振興機構(JNTO)によると、この2、3年、交流サイト(SNS)が旅行者の意思決定の決め手になってきたという。大阪観光局(大阪市)でも「数年前から『パワーブロガー』と呼ばれる影響力の大きいブログの書き手を呼び、大阪を案内しています」と外国人観光客誘致担当が明かす。「レトロな雰囲気の『中崎町』に目を付けて情報発信したところ、韓国で中崎町ブームが起きた。想像以上です」と話す。


これがYahoo! JAPANのカフェ&超豪華社員食堂です!

2014年04月03日 | ビオキッチン京都



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ども! ギズの社員食堂ハンターこと、するぷ( @isloop )です!

Microsoftさんに始まり、クックパッドさん、楽天さんと超大手の社員食堂を渡り歩いてきましたが、今日は、1月31日にもの凄く豪華な社員食堂をオープンしたと噂の、ネット界の超大型巨人であるYahoo! JAPANさんです!

とはいえ色々な社員食堂を渡り歩いてきた私。多少目が肥えてきたので、そんじょそこらの社員食堂では心動かされねーぞと仁王立ちの心持ちだったのですが、これが噂通りのめちゃ凄い社員食堂だったのです! おったまげたとはこのこと!

ということで、さっそくお見せしましょう! これがYahoo! JAPANのカフェ&超豪華社員食堂です!

http://www.gizmodo.jp/2014/04/_yahoo_japan.html

“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

2014年04月03日 | 一般社団法人丹波ふるさとネット
“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ
日本の食文化を守る「幻の昆布問屋」

お手頃な価格の品から最高品質のものまで、種類の豊富さに驚かされました
「ヒノキの白木を使い、展示パネルの一部には河和田の漆塗りを。床は福井県名産の笏谷石を使っています。表にある日本画は特別に描いていただいたものです。ギフト用には本店と同様に越前和紙の箱をご用意しました。

これに商品を自由に入れてもらうことができます。箱を捨てるのは、もったいないでしょう。だから使えるようにね、サイズもA4であったり、CDケースのサイズだったり、現代の生活にあわせています」

 日本には優れたものがたくさんある。高度経済成長からの一時期、効率化と合理化を推し進めるなかで、日本はそうしたものを見失っていた。しかし、経済が低迷するなかで、奥井さんたちのような方の努力もあり、本物がまた再発見された。 

 取材を終えて考えたことは『繋がり』ということだ。

昆布の文化を守ることは、日本の食文化を受け継いでいくでもある。また、ひとつの箱によって、越前和紙の文化もまた受け継がれ、発展していく。もっと言えば昆布が使われる料亭は建築や庭をはじめ、器から食材にいたるまで日本文化のショーケースと言っていい。

 食はこれまで産業としてはさして重要なものとして扱われてこなかった。しかし、食が生み出す繋がりは地域経済にとっても、けっして小さなものではない。そして、その繋がりこそ、日本が世界に誇れるものなのだ。

統計データはすべて農林水産webページ「特集 ニッポンのおいしいをもっと世界へ」より引用

【動画】奥井海生堂 昆布問屋



(写真・映像/志賀元清)



<著者からのお知らせ>

 僕の新しい小説『スープの国のお姫様』(小学館)が3月4日に発売されました。当連載とは直接的な関係はありませんが、今回は食の歴史も豊富に盛り込みました。

 書店などで見かけることがあれば、手にとってみてください。


消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

2014年04月03日 | ビオキッチン京都
“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ
日本の食文化を守る「幻の昆布問屋」

 一時期、昆布ダシの味は外国人には受け入れられない、と言われていたが、どうやら杞憂のようだ。そのような風評は、外国で一時期、低品質の昆布が流通していたことに起因している。今ではフランスやイギリス、北欧やアメリカのシェフたちも昆布を使いはじめている。

「海外メディアの取材は多くなりました。このあいだもサンフランシスコ、シンガポール、オーストラリアからお客様がお見えになりました。わかるのかな、と思うのですが、ありがたいことに皆さん、ご興味を持ってくださっています」

昆布の文化を守ることは
日本の食文化を受け継ぐこと


「世界中にシーウィード(海藻)ケルプ(昆布類)は一杯あるんですけど、我々がいう利尻、羅臼、日高といった昆布は北海道近辺にしかないんですね。だから、そこが駄目になったら代わりはないんですよ。そういう意味での危機感はあります。

今、ある昆布を大切に使ってくれるところに納めるということが、そうした環境を守っていくということに繋がると思っています。島国でありながら山もあり、海もあり、日本は世界一の生産地だと思うんです。そうしたことを僕らは食材を通じて、理解していく必要があると思うんです」

 広い世界のなかで日本近辺だけで昆布が育ち、そして消費されてきたという歴史には日本人と昆布の繋がりを感じさせる。

「昆布は奥が深いですね。外国の方はその文化的な歴史にご興味を抱かれるようです。昆布は2年間でその命を終えて、海に戻っていきます。日本人はそうした儚い生き物に自分たちの味覚を託し、食文化を守ってきたのです。

それは尊いことですよね。私はそうした文化をこれからも守っていきたい、と思っているんです」


『神社をイメージした』という白木の店内内装(3月20日オープンのコレド室町店)
 昆布について語る奥井社長の口調は穏やかだが、奥底には熱い想いがある。取材の最後に3月20日にオープン予定の直営店について伺った。

「今まで百貨店さんなどでは弊社の商品を扱ってもらっていたのですが、コレド室町店ではすべての商品を購入することができます。実は昆布ダシをとる際に昆布と同じくらい重要なのは水です。

東京の水ではいい出汁がなかなかでないことから、ここでは天然水(軟水で塩素は使わず、ろ過、加熱もしないナチュラルミネラルウォーター)をセットで販売することにしました。購入してもらって、水に浸けておけば、簡単に昆布ダシを味わうことができます」

 東京ではなかなか見かけない細工昆布(湯豆腐に使ってもいいそうだ)から、最高峰の昆布まで。あらゆる商品が取りそろえられている。

昆布水を試飲させていただいたが、雑味の一切ない澄んだ味に驚いた。穏やかなフレーバーのなかにミネラル感がある。透き通っていて身体に染みこんでいくような味だ。


“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

2014年04月03日 | ビオキッチン京都
“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

日本の食文化を守る「幻の昆布問屋」

 そうした努力もあって、東京になかった昆布文化は徐々に根付きはじめた。僕の年代だと昆布というものは当たり前に存在しているものだとばかり思っていたが、一昔前はそうではなかったのだ。

 本物の味はやがて受け入れられ、完全に定着するにいたった。今年、奥井海生堂は東京に直営店を出したが、そこにいたるまでの道のりは長いものだったのである。

 奥井海生堂を語るうえでもう一つの重要なことがある。『蔵囲い昆布』だ。


昆布が熟成される蔵のなか。密な構造を持つ利尻昆布などの上質な昆布だけが熟成に耐えられるという。このあたりもワインに似ているところがある

(写真:奥井海生堂提供)
「その頃から北海道にも足を運んで、昆布の産地を見てまわるようにもなり、浜によって昆布の質が異なることがわかりました。父からはよく『昆布の良し悪しは山を見ろ』と言われてましたが、それは本当でした。

湾の西側と東側で性質がまったく異なるのです。それはちょうど畑の場所によって味が異なるワインに似ています。例えばロマネコンティのような限られた場所でしか採れない品質のものもあるのです」

 昆布は場所の他、収穫年によっても特徴が変化する。なかでも質の高いものを奥井海生堂では蔵のなかで熟成させている。それが「蔵囲い昆布」である。

「蔵囲いは元々、敦賀の伝統的な方法でした。昆布は寝かせることで磯臭さや雑味、ぬめりが抜けます。そうした伝統を復活させようと、空襲で焼けてしまった蔵を再建したのは1992年のことです」

 海で2年間育った昆布は最低1年、長いものは2年~3年間、蔵のなかで寝かせられる。そして、出汁として使う時は一瞬だ。その一瞬のために長い時間と労力といったコストがかかっている。しかし、その味は何ものにも代え難い。


『日本で一番高級な昆布』熟成が進んだ蔵囲い昆布は香気成分が変化する。多糖質(=ぬめり成分)が分解され、内部のアミノ酸と結合することで、香り高く甘い味が生まれるのだ。昔の人の知恵はすごい!

「蔵囲いは質のいいものしか熟成に耐えませんし、また、なかにはロスも出ます。商売だけを考えたらあまりよい方法ではないのかもしれませんが、本当に質のいい昆布を提供したいと思ったら必要なことです」

 思うに奥井海生堂にこのようなことができたのは、昆布の歴史の長さと無縁ではないだろう。短期的には考えれば利便性に舵を切りたくなるが、もっと長い時間軸で考えれば目先の効率よりも大切なものがある。

永平寺のような伝統のあるお寺もそうだが、昆布の歴史はそうしたことを教えてくれる。

 やがて、奥井海生堂の名前はやがて海外にも知れ渡るようになる。 

「きっかけは2006年に内閣府の『ジャパンブランド推進委員会』からの要請で行ったパリ日本文化会館での講演です。『昆布その文化と歴史』という題でお話をさせていただいた後、集まったフランス人の方に試食をしていただいて。

実は味が受け入れられるか心配していたんですが、皆さんとても喜んでくださって」


“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

2014年04月03日 | ビオキッチン京都
“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

日本の食文化を守る「幻の昆布問屋」
 奥井海生堂は代々、曹洞宗大本山永平寺、大本山總持寺御用達の昆布所であり、一流料理店に高級昆布を納め、品質の高さでは群を抜いている。扱っている昆布の質の高さで世界からも注目されている「奥井海生堂」だが、そこにいたるまでの道のりは決して平坦なものではなかった。


4代目主人の奥井隆氏
(写真:奥井海生堂提供)
「戦前は豊かだったそうですが、敦賀空襲で昆布蔵をはじめすべてを失ってしまったのです。父は廃業も考えていたそうですが、永平寺の方たちや同業者の助けもあって、再出発することができました」

 戦後、昆布問屋としての再スタートを切った「奥井海生堂」だが、思いもよらなかった環境の変化に見舞われる。戦後のライフスタイルの変化にともなう、昆布の需要低下だ。さらにはうま味調味料の普及もそれに追い打ちをかける

「味の素さんとは今では旨味の研究や世界展開などでもご協力させていただき、いいお付き合いをさせていただいていますが、当時、先行きには危機感を持っていました。今では笑い話としてお話できますが、私が会社に入って数年が経った頃です。

味の素さんがスポンサーの記録映画の取材のお話がきました。『どういうテーマの記録映画なんですか?』と私が聞きましたところ、『消えゆく業界を記録する』という主旨だ、と(苦笑)。父はひどく怒ってましたが、これには参りました」

 簡便性と効率性が求められる時代になったことが、昆布の世界に打撃を与えた。なにかと美化されがちな昭和30年代から40年代にかけてだが、食品について言えば今よりずっと問題を孕んでいたのだ。

 そんななか奥井社長は「消えゆく業界にはさせない」と、東京への進出を決める

「父は反対しましたが、それまでの販路は限られていました。しかし、守っていくだけではこの先、難しい。でも、東京に行っても最初はけんもほろろでしたよ」

東京進出、そして海外へ
世界を魅了した“ヴィンテージ昆布”の旨味


 当時「東京では昆布は売れない」というのは定説だった。

「最初に商品を置いて下さった三浦屋さんには今でも感謝しています。そこで東京の消費者の方に手にとってもらうために、昆布を小さくカットして販売しました。昆布は献上品ですし、神饌のひとつでもありますから、それをカットするという考えはなかったのです。

またそれと前後して、西武百貨店さんのバイヤーさんが目をつけてくれました」

 ディスカバージャパンの流れもあり、百貨店で地方催事がはじまった頃だった。「本物」を売りたいというバイヤーからの熱心な働きかけもあり、物産展でデビューを果たす。

「しかし、東京には昆布の文化は本当にありませんでしたね。まず聞かれるのは昆布の使い方がわかりません、ということ。一番、多かった質問は「この昆布は敦賀で採れたんですか」というもの。昆布のことをもっと知ってもらわなければという気持ちになりましたし、接客の重要性にも気づかされました」



“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

2014年04月03日 | 一般社団法人丹波ふるさとネット
“消えゆく業界”から海外シェフ注目の食材へ

日本の食文化を守る「幻の昆布問屋」

 今、日本の経済は緩やかな衰退局面にあるが、世界の経済規模は逆に大きくなっている。発展途上国の成長によって中間層が拡大しているからだ。

食の分野はそのなかでもとりわけ成長が期待されている。

 A.T.カーニー社の統計をもとに経済産業省が発表した数字によると、2009年に340兆円だった食の市場規模は2020年には680兆円に到達するとされ、そのシェア争いはすでにはじまっているそうだ。

 日本の食が世界からは注目されているのは言うまでもない。

 それは単純に質のいい食材を生産しているというのにとどまらず、日本料理という文化にも及んでいる。日本料理店の数は農林水産省の統計によると2006年には2万4000店だったが、2013年には5万5000店を越えた。

数が増えるにつれ、日本料理の理解もかつての寿司や天ぷらといったわかりやすいイメージから、もう少し深まっているようだ。

 今、世界のシェフたちが関心を寄せているのが『昆布』だ。その理由はカロリーがゼロで、旨味を豊富に含んでいるため、油脂類の使用量を減らし、満足感を出すことができる食材というだけではない。

彼らは日本にしかないという神秘性にも惹かれているようだ。

 そこで今回は福井県敦賀の昆布問屋『奥井海生堂』の社長である奥井隆さんから昆布について教えを請うた。奥井さんは昆布が世界から注目されることになった立役者の1人だ。

戦前まで豊かに栄えた昆布問屋
戦後には「消えゆく業界」へ



昆布はかつて薬としても珍重された高級品。当時は金と等価交換されるほどだったという
(写真:奥井海生堂提供)
 日本人と昆布の関わりは深く、長い。

 奥井さんが著されたその名も「昆布と日本人」(日経プレミアシリーズ)という本を読むと、そのあたりのことを知ることができる。身近にありながら詳しくは知らない昆布という存在を再発見させる、得難い種類の本だ。

「明治維新は昆布のおかげ?」という帯文が目を惹くが、その答えについては同書をお読みいただくとして、蝦夷地で食されていた昆布がメジャーな存在になったのは江戸時代中期のこと。

北海道と大坂を往復しながら物資の売却をする「北前船」の航路が確立されたことで、京都や大阪に昆布が広まった。そして、敦賀は北前船の唯一の中継地だった。

「敦賀は交通の要衝だったわけです。うちは敦賀で今も商いを続けている昆布商のなかでは一番古いと聞いています」