エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

人形供養

2018年06月10日 | 雑感

 

2018年6月10日

去年からずっと不用品を始末している。母が2年前に亡くなったのがきっかけだが、母のものと、棟続きの我が家の

もの。食器類、本、CD、電化製品、包丁、なべかま、古布団、ある時は有用であったもの、そして、なぜこんな不要な

ものを買ったのだろうと思うもの、その他、その他、すべてはゴミとなる。


特に母は物を捨てたがらなかったため、30年前に亡くなった父のものもかなりあった。業者に頼んで、小型トラック

数台分を処理したが、私と家内も何回も京都市北部のクリーンセンターに廃棄しに行った。まだまだある。


私は高校時代の山岳部の集団(建築技術に関してプロにちかい7、8名がいる)とともに山小屋を20年かかって

一新し、その間かなりの技術を習得したから、たいていの家庭品は解体できる。

家内もまた、解体が好きだ。「私の前世は解体業者やったのかな」と冗談を言いながら、手際よく、見事にいろいろな

廃品を分別してゆく。

                   

さて、昨日は人形の始末だった。人形は捨てにくい、魂がやどっているようだからだ。 

そこで、人形供養で受け取ってくれる寺、堀川寺之内にある宝鏡寺にもっていくことにした。

受付で人型の紙に、名前と住所を書いて奉納する。受付の女性は人形の入ったビニール袋を持ち上げて、

“ちょっと重いですから5千円頂きます”、と云った。5千円お払いして、長年の人形たちと別れた。

京都北部のクリーンセンターにゴミを持ち込む場合には、100キロまでは1000円、多くなれば単価は高くなっている

ようで、5000円なら400キロくらいだろう。それから考えるとあの人形たちは4Kgもなかった。

まあ、同じごみになるにしても、お祓いをしてもらうのはたしかだから、よしということか。

だからむやみやたらに、人形を買うものではないと思ったことでした。


最後の写真の人形は我が家で一番大事な、“ポエコちゃん”という人形だ。

家内の友達が家内に似ているとくれたもので、これを幼い娘はいたく気に入っていた。義母さんらからもらった

お雛様と兜、と、そしてこれだけが我が家に最後に残るだろう。 これはいまのところゴミではない。