エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

時はもどらない ― 蛍と明日香

2020年06月21日 | 雑感

2020年6月21日

 

これは、むかしだしたものを最近のTVを見て、手直したものである。

 

*老人の自慢・・・時はもどらない

蛍で知られるある山村の池でのTV放映が先日あったが、その夜は結局5匹のホタルしか見られなかった。たまたまその日がすくなかったのかもしれない。いまだに蛍の名所といわれるところがあるようだが、全国的に蛍の激減ぶりはひどい。十数年前はけっこう京都市内でもみられたし、我々の高校の山小屋がある北山の谷川ではたくさんの蛍が見られた。ドライブがてらアユを食べに行った花背越えの広河原あたりでは、いつでも沢山の蛍が飛んでいた。

 小学生の時(1950頃)、夏の夜は毎日近所の仲間と蛍狩りに行った。親は子供が夜出ていっていつ帰ってくるか、まったく関心はない。当時私が住んでいた家は東山連峰の西下の街道(今は京都のいくつかある大通りの中の一番東)で、住んでいたところの町名は「上終町」、すなわち“雅な京のみやこ”の上(京都では北を上と云う)のはてる(終わる)ところだ。これより北はみやこではない、昔の大通りはここで終わる。あとは山沿いに田んぼ道をぬけて蛍をもとめて一乗寺下り松「宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所」までいって引き返す。帰ってくるときは、いつも虫カゴのなかでは蛍でいっぱいだった。あのときでも驚くほどの乱舞と云えるのには3,4回しか遭遇したことがない。

 この話を私の高校時代からの山仲間、Tにメールした。

Tの話は何度か聞いているが、すごい。

帰ってきたメールそのままを載せる。「伊勢の蛍は本当に凄かった。無農薬の(神宮、皇居用神聖な)広い神田一面がまるで濃霧に包まれたような蛍の群れには思わずワーと叫んだような記憶があります。勿論誰も物好きに見に来ているような地域ではありませんでした。」 Tは40年ほど前には伊勢勤務だった。

 

老人の自慢をもう一つ。

私の家内は大学卒業後、市内のある大学の研究室の秘書をしていた。そこには背の高い、鶴のように痩せた、皮肉屋の老先生がおられた。あるとき家内はその先生に“高校三年のとき、国語の夏の宿題で明日香に行ったが、ほんとうに素晴らしかった!”という意味のことを言った。家内は文学大好き人間だった。彼女の高校3年のときといえば1965年だから、いまから55年まえだ。

すると老先生いわく、“今の明日香なんて、私が50年ほど前(100年以上前)に見た明日香と比べたらひどいもんですわ”。

私が彼女と結婚して、子供たちをつれて明日香に行ったときはすでに家内が行った時の雰囲気は消えていたという。すべてが様変わりだった。観光客はレンタサイクルでそこらをすいすいまわり、そして石舞台はといえば、もはや彼女の記憶に残る石舞台ではなかった。1970年代なかごろだ。彼女もあの老先生と同じような心境だったに違いない。

時はもどらない。だからその昔の“いい”ことを経験した人は、経験すべくもない若者に向かって”あの時はこうだった、あのときはよかった“などと自慢し『今』をけなしたがる。

そういえば数百年も昔に書かれた徒然草でもこうだ。

“なにごとも、古き世のみぞしたはしき。今やうは無下にいやしくこそなりゆくめれ。

かの木の道のたくみの造れる、うつくしきうつはものも、古代の姿こそをかしと見ゆれ“。

徒然草の昔からこうなのだから、ましてなにをか言わんやである。