エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

志賀直哉 - “立派に年寄り”、と“立派な年寄”の違い

2018年02月11日 | 雑感

昨日のブログで登場した、私より4つ下の男(72才)Iが、街に出ると老人として扱われていやだと

嘆いていた。彼は、我々を統括して高校時代の山小屋修理をやっている男だ。

たしかに、20年前に彼に会った時は髪も黒くつややかで、恰好よかった。

20年の歳月はおそろしい、頭の毛も髭もフサフサながら真っ白になってしまった。

それでも恰好はいいのだが、バスに乗ると必ず席を譲られるという。

彼の奥さんは「当たり前でしょ、あなたは ”立派に“ おじいさんに見えるのだから」と言うそうだ。

 

わたしは若い時から髪は薄かった。たぶん、30代ころから薄くなっていた。

しかしわが女房は、そんなことには頓着しなかった。というか、どうも外見はまったく見ていなかった

節がある。彼女にとって、話が合えばただただそれでよかったのだろう。

 

しかし当の私は、若い頃自分の薄毛が気になっていた。自分の後頭部を家内の三面鏡でしきりに確認して

いた滑稽なサマが今でも目に浮かぶと家内は言う。

そんな私だから、禿げ隠しのために勤めの場以外はいつも帽子をかぶっていた。今もかぶっているが、

いつの頃からか禿げはどうでもよくなって、飲み屋なんかでよく忘れるようになった。

 

私はバスで優先席に座ることはほとんどない。だがたまに優先席に座ると、“わたしは歳ですから”、と、

かぶっていた帽子をとる。「なにもわざわざ帽子をとらなくてもあなた、“立派に”年寄りとわかります」

と家内は笑う。たしかに時々バスで席を譲られるようになってきてはいる。

 

しかし譲られる度合いは同年の白髪豊かなTやIほど頻繁ではない。

気がついたのは、老人を判定する基準は、禿げではなく白髪だった。

私と同年のMは若干髪は薄くなってはいるが白髪は少ししかない。だから一度も席を譲られたことはない。

 

仲間は皆、肉体的精神的に年取ったことを競いあって嘆いている。

気に障るのは、われわれのつれあいの言い草だ。

 “その風貌では<立派に>年寄りです”

 

私が外見的に見ても<立派な年寄り>と思うのは、文豪・志賀直哉だ。 彼の顔はいい。

我々は<立派な年寄り>でなく<立派に年寄り>です、としか言ってもらえない。