昨日のブログで登場した、私より4つ下の男(72才)Iが、街に出ると老人として扱われていやだと
嘆いていた。彼は、我々を統括して高校時代の山小屋修理をやっている男だ。
たしかに、20年前に彼に会った時は髪も黒くつややかで、恰好よかった。
20年の歳月はおそろしい、頭の毛も髭もフサフサながら真っ白になってしまった。
それでも恰好はいいのだが、バスに乗ると必ず席を譲られるという。
彼の奥さんは「当たり前でしょ、あなたは ”立派に“ おじいさんに見えるのだから」と言うそうだ。
わたしは若い時から髪は薄かった。たぶん、30代ころから薄くなっていた。
しかしわが女房は、そんなことには頓着しなかった。というか、どうも外見はまったく見ていなかった
節がある。彼女にとって、話が合えばただただそれでよかったのだろう。
しかし当の私は、若い頃自分の薄毛が気になっていた。自分の後頭部を家内の三面鏡でしきりに確認して
いた滑稽なサマが今でも目に浮かぶと家内は言う。
そんな私だから、禿げ隠しのために勤めの場以外はいつも帽子をかぶっていた。今もかぶっているが、
いつの頃からか禿げはどうでもよくなって、飲み屋なんかでよく忘れるようになった。
私はバスで優先席に座ることはほとんどない。だがたまに優先席に座ると、“わたしは歳ですから”、と、
かぶっていた帽子をとる。「なにもわざわざ帽子をとらなくてもあなた、“立派に”年寄りとわかります」
と家内は笑う。たしかに時々バスで席を譲られるようになってきてはいる。
しかし譲られる度合いは同年の白髪豊かなTやIほど頻繁ではない。
気がついたのは、老人を判定する基準は、禿げではなく白髪だった。
私と同年のMは若干髪は薄くなってはいるが白髪は少ししかない。だから一度も席を譲られたことはない。
仲間は皆、肉体的精神的に年取ったことを競いあって嘆いている。
気に障るのは、われわれのつれあいの言い草だ。
“その風貌では<立派に>年寄りです”
私が外見的に見ても<立派な年寄り>と思うのは、文豪・志賀直哉だ。 彼の顔はいい。
我々は<立派な年寄り>でなく<立派に年寄り>です、としか言ってもらえない。