直6BEAT主義MarkⅡ

カメラと写真と、たまにギター & 何かしら修理ばっかりしてます。

坪毛沢支線(飯詰林道) その②

2013-09-30 00:40:15 | 津軽森林鉄道

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とある県道です。

連続するコーナーを気持ちよく駆け抜ける。

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木漏れ日の感じから、秋が近いことを感じる。

レスポンスが良く、きれいに回る調子の良いエンジン。

2本出しマフラーから奏でられる、小気味良いエキゾースト。

普段、使わない回転域のエンジン音とエキゾーストが、

さらに走りを熱くしてしまう。

もっと踏める、もっといける、

だんだん、スピード領域も上がってくる。

しかし、限界領域に入ってしまえば、

コーナーの先にあるかもしれない、予測不能の事態を回避できない。

本格的な行楽シーズンも近い。

ここを初めて走る車やライダーも多い。

山林へ入る心得のない山菜採りの車にも気を付けながら走る。

運転に熱くなりがちな自分と、

時折写るサイドウィンドウのガラスの写し身、

クールな自分がそこにいる。

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石ノ塔沢林道の入口です。

今回、坪毛沢支線跡の調査で来てみました。

近くの県道に、迷惑の掛からないスペースを見つけ車を停めてある。

ここからは、歩きで進みます。

初めての林道は状況が解らないし、

歩きながらでなければ、気付けないことも多い。

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水がきれいだ。

橋の上から見た不動沢です。

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入って間もなく、いきなり崩れています。

もう、出鼻をくじかれた感じです。

高度をいきなり上げて進む感じだ。

この先進んでいけるのだろうか!?

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少し上っての振り返ってのバックショット。

斜面の岩肌にコケが生えて緑になっている。

また、横にラインが入っている

自然の造形とは、不思議な光景を作り上げるものだ。

さらに進むと左に曲がる。

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かなり大きな切通しだ。

ここまでの移動距離に対して、かなりの高度を上げている。

今までは、軌道跡を利用した林道を歩いているので、

このような林道を歩くには、ヒザが少し悪いオイラには、ちょっときつい。

歩くスピードのペース配分を調整し、ヒザに負担を掛けないようにした。

ここまでの周りの景色は、日中でも日の光を遮るように急な斜面で覆い尽くされている。

かなり心細く、窮屈に感じる空間が続いていた。

この先の明るい空間を目にし、少し安堵感を覚える。

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その明るい先は、今まで歩いてきた空間とは、まったくの別世界と思わせる風景だった。

機械を使い、強引に切り開かれて、傷つけられてしまったかのような荒れた感じを受けた。

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近くにあった説明板を見ると、この辺り一帯に14,500本もの「ヒバ」を植えたあとでした。

樹種は「ヒバ」とあるが、青森ヒバ(ヒノキアスナロ)なのでしょうか!?

青森ヒバは、成木になるのに100年、老年期は250~60年、寿命は300年とも言われている。

中には800年以上も長生きをしている青森ヒバもあり、実際にこの目で確認している。

2012.08.13

十二本ヤス すごい迫力というか、不気味だった。

(タイトルから過去記事にジャンプできます。ブラウザの「戻る」で未来に・・・)

津軽森林鉄道が活躍していた時代に、良質の青森ヒバが大量に伐採され搬出された。

伐採あとには成長の早い、杉の木が植樹されたようだ。

生産性を上げるとすれば当然のことだ。

最近は、このような場所や、他にも天然ヒバが増えていくように管理された実験場所などもあると聞きます。

青森ヒバは、丈夫で長持ち、それにヒノキチオールを多く含み、

色々と良い効果があるようです。

昔は、津軽藩・南部藩が需要と供給をコントロールし、山の管理までしていたようだ。

現代もヒバを守り、増やしていこうとする姿勢が感じられた場所でした。

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っで、さらに進むが、一気に高度を下げていく。

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すると、道は左に曲がります。

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その付近を見ると、今来た道沿いが小さな沢になっていたようで、

清水が流れていた。

その先の坪毛沢に合流しているはずだ。

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ここも崩れています。

台風18号の影響だと思われます。

かなりの降雨量があったと思われる。

雨水が流れた場所が、かなり深く削り取られている感じだ。

車高が高くなければ、車の床下を強烈にヒット間違いなしというか、

ハンドル操作を誤ると、走行不能な状況に陥ると予想させるほどの酷い状況だ。

車で入ってこないで正解でした。

そうでなくても、状況の予想できない林道には、車でいきなり入りませんよ。

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どぉわわぁ~

大きく崩れて・・・

土砂崩れってやつです。

比較的最近のもののようだ。

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怖い・・・

刺激を与えて、さらに崩れてしまわないように注意して通過。

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しばらく進むと、なにやら滝のような音が聞こえてきた。

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近づくと、白く帯状に水が流れ落ちている。

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砂防ダムだ。

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堰の下流側には、なんとか降りて行けるようだ。

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おおおおおぉ~(;゜д゜)ォ....

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こじんまりとはしているが、なかなかの綺麗さである。

水が綺麗だ。

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堰の下流側です。

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坪毛沢下流側から堰の方を見てみた。

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風景をうまく納めるポイントを探していたら・・・

なんとぉ~

軌条を発見!!

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こちらは、川底に一本沈んでいる。

沢の水がとても綺麗だ。

流れは結構あるのだが、水面が穏やかなのだ。

そのため、川底もクッキリ見える。

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横倒しになった木があって、堰の方をうまく写せない。

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台風18号の降雨の影響でかなり増水したと思われる。

そのときの水の勢いで川底が洗い流されて、軌条が現れたのかもです。

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まさか、このような場所で軌条を見つけると思いもしなかった。

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この堰の近くまでは、坪毛沢の近くを沿って林道が進んではいたが、

まだ、軌道跡を利用したような軌跡をしていない印象だった。

坪毛沢の右岸は切り立っており、軌道を設置するには不向きに思えたが、

沢の中に軌条があったことを考えれば、
右岸側を少し高度をとって進んでいたと思われる。

たまたま、土砂崩れなどの災害で崩れ落ちたときのものだと思われます。

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左岸側は、このように笹薮になっていてる。

道床は笹薮になっていることが多いが、

左岸側はかなり広くなっていて、一面が笹薮なのだ。

堰が無かった時代には、このような状況ではなかったでしょうから、

天候の悪化などで、沢の水が増水したときの左岸側は、
一帯が沢の水面と化していたのかもです。

そうなると、左岸側を進んでくるルートは考えにくい。

もう少し、この辺りを調査したいところだ。

まだ先へと進みたいが、あとどのくらい進んでよいのかわからない状況なので、
時間をここだけに費やすわけにもいかない。

調査を切り上げ、進むことにした。

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堰の場所をあとにして、さらに進む。

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堰の所からは、道筋が直線基調になり、勾配も緩やかだ。

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カーブになっても緩やかだ。

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右手の坪毛沢に沿って、一段高くなっているところを進んでいる。

堰のところからは、軌道跡を林道として利用しているようだ。

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急に先が明るくなってきた。

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あれれ!?

この辺りは広くなっている。

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通行止めだ。

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その先、以前にはこの沢を渡れるようになっていたようだ。

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コルゲートパイプや矢板が散乱している。

近くに重量級の木柱もあった。

ここは、だいぶ前に崩れてしまったようだ。

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これは石ノ塔沢のようだ。

この沢の対岸にいけるよう土管を設置し、沢の水の流れを確保して、
土を被せて、渡れるようにしていたのではないだろうか!?

矢板はその土の土留めとして使っていたと思われる。

かなりの水量がある沢なのでしょうか、その矢板も重量矢板が使われていた。

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この石ノ塔沢が合流している坪毛沢ということになる。

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10kgレールもあったが、ここを渡るための橋の部材として使われたものだと思われます。

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坪毛沢

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石ノ塔沢

ということは、机上で調査してあるデータなどから、

この手前のところが終点ということになる。

どおりで辺りが広く開けているわけだ。

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先ほどの壊れた橋!?跡の左側を迂回して対岸に渡ってみたところだ。

そのまま真っ直ぐが坪毛沢へと進む方向だ。

雰囲気から、作業軌道が延びていた可能性もありますね。

道筋は付いているが、進んで行こうとは思えない感じだ。

ベテラン山菜採りなら、入っていくのでしょうけど・・・

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そこの左側を見ると、石ノ塔沢を左手にしながら、真っ直ぐと上る道筋がある。

しかし、勾配がきつすぎる。

作業軌道を設置するならば右岸側を進んでいたかもですね。

どうやら坪毛沢支線の終点まで来れたようだ。

途中の堰ところでは、軌条を見つけることが出来た。

津軽森林鉄道が実際に進んでいたことを証明する遺構の一部を発見できただけでも、
十分な成果があったと思います。

ここまで来るにあたり、気になるところもあった。

しかし、沢までかなりの急な斜面を下りなければならならず、
オイラの技量では難しい場所だ。

ハッキリとした遺構が残っていそうな雰囲気があったのだが、

あくまでも雰囲気だけなので・・・

このような場所で、絶対ケガなども出来ないし、不確実な行動は命取りになる。

山菜は時期にはまだ早いようで、何もありませんでした。

Photo

緑の実線が、今回進んだルートです。

=へばまんだのぉ~=


車が快適になったので、パーティーだ!?

2013-09-24 01:00:00 | 地獄のチューナー・ドクターW君

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地獄のチューナーのおかげで、オイラの車が快適になった。

マフラーの穴あきで、不協和音を奏でるエキゾースト。

取り外してしっかり補修できる環境が作れないでいた。

マフラーのリアピースと中間パイプを分割して取り外すと、

組み付け直すとき、新しいガスケットが必要になるし、マフラーパテも使うことになる。

マフラーパテは持ってるし、新しいガスケットを購入しても、必要経費としては数百円で済む。

しかし、接合部分のフランジが反り上がっているため、隙間ができるのだ。( TДT)

以前、削り込んだが完全ではない。

また、分割してしまうと、面倒なことになる。

そこで、地獄のチューナーに相談したところ、

分割せずに取り外す方法を心得ているとのことだ。

ならばと、さっそくそのテクニックを見させてもらった。

流石だ。

ささっとやってのけた。

多少、力が必要で、普段使わない筋肉を動かす方向に力をいれなければならないようです。

俺は、あらゆる筋肉を鍛えてあるから大丈夫だと。(´▽`*)アハハ

バッチリ補修してくれたので、今夜はパーティーだ。

といっても、居酒屋で旨いものを食べて、呑んでご機嫌。

「半沢直樹」の話で盛り上がってみたり・・・

=へばまんだのぉ~=


マフラー穴あきの修理

2013-09-23 22:57:16 | ヴィヴィオ・ビストロ

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地獄のチューナーの工場に車を入れている。

そう、マフラーの穴あきを、完璧なまでに!?修復するためだ。(´▽`*)アハハ

林道を走りまくっているので、下回りが「ガイン」、「ゴイン」とぶつけた跡が・・・

油断して走っていると、車内に大きな音が響く。( TДT)

林道走行に適した車だと、通常の生活スタイルでは快適性を犠牲にすることになる。

林道走行用、通勤用、レジャー用などなど、

使い分けできるほど車は持っていませんので・・・

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確認してみると、中間パイプのサブサイレンサーのところから排気漏れをおこしている。

リアピースを外して分割して外すと、中間パイプを外しやすい。

そうしてしまうと、中間パイプとリアピースの接合部分のフランジ間に挟むガスケットを用意しなければならない。

地獄のチューナーは、接合部に問題がないのなら、ワザワザ分離する必要はない。

リアピースが付いたままで中間パイプを外すという。

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ささっと、外してしまった。

もう、遮熱板の取り外しに掛かっていた。

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以前に、オイラが修繕した箇所だ。

2年ほどは持ちこたえたんだけどね。

先日、中間パイプを取り外さないで、そのままで簡単にガンガムで補修したが、

下地がきちんと出来ていないので、すぐに剥がれてしまった。

なので、中間パイプを取り外し、しっかりと補修するのだ。

今回は、地獄のチューナーの手が入るので、しっかり補修されるのは間違いない。

さらにパワーアップも見込めるかも・・・(´▽`*)アハハ

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しっかりと下地を作りました。

ワイヤーブラシでガシガシ。

ちょっとやりすぎたかも(´▽`*)アハハ

溶接のつなぎ目が割れています。

2年ほど前にオイラが補修したときは、ここまで酷くなかった。

2011.09.23

ヴィヴィオ ビストロの床下から奇妙な音が・・・排気漏れ対策 その①

(タイトルより過去記事にジャンプできます。)

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ガンガムを塗りたくりました。

厚めに塗ってバーナーであぶって仕上げていました。

なんか、旨いものを作る工程にありそう。

焦がし油のなんとか・・・ラーメンか(´▽`*)アハハ

バーナーの当て方にコツがいるらしい。

急激にあぶると、中が膨れて剥がれてしまうとのことだ。

表皮が剥がれる感じに乾燥するといい感じらしい。

耐熱スプレーで最終仕上げを行いたかったが、手持ち品を用意してなかったので、

今回はそのままです。

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リアピースの付け根は、先日の補修で問題ないようだが、

せっかくなので、地獄のチューナー流儀で再補修しました。

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ささっと組み付けてしまう地獄のチューナー

このあと、昼食を兼ねてのテストドライブを行った。

何の不安も無く、とても静かになり、快適になりました。

気持ち、パワーアップしたような・・・ムフフ。

本来のエンジン音や、2本出しのマフラーのリアピースから聞こえる小気味よい少し低音の混じったエキゾーストが気持ちよく聞こえる。

ついつい、元気に走りたくなってしまう。

これで、しばらく排気漏れの下品な音をさせて走る事は無いでしょう。

=へばまんだのぉ~=


坪毛沢支線(飯詰林道)

2013-09-23 19:38:23 | 津軽森林鉄道

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坪毛沢支線へと行くのに、五所川原林道跡を進んできました。

振り返ってのバックショット。

いきなりバックショットなのは・・・

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道路としては行き止まりなのです。

しかし、この行く先は、味噌ヶ沢支線の軌道跡なのです。

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現在は、Tの字になっている道路だが、左に曲がると坪毛沢支線へと進む方向になる。

写真は、その場所でのバックショットです。

この場所の田んぼはコーナーが緩やかに曲がっている。

また、コーナー部分の現・道路との空きスペースが、かつて森林鉄道が緩やかに曲がって、五所川原林道に合流していたのが見てとれますね。

ここに、ポイントがあったとされる場所だ。

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Tの字のところから、右方向を見たところだ。

飯詰のダム方向になります。

飯詰林道(坪毛沢支線)は、真っ直ぐ進んでいます。

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真っ直ぐの小さい道が軌道跡の方向だ。

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飯詰貯木場跡を左手に、坪毛沢支線の軌道跡と思われるところを進んでいるところです。

昭和7年度に飯詰貯木場から18林班坪毛沢口までの4,672mを開設。

その後、一旦、牛馬道に格下げし、後に飯詰林道として再開設されている。

その飯詰林道は、昭和26年度、飯詰村から坪毛沢落合までの5,000mが開設。

昭和30年度に、1,450mを延長、昭和36年度には全線を牛馬道に格下げし、軌道としては廃止されている。

(手元の資料より)

一旦、牛馬道に格下げしているのは、戦争で軌条を軍に提供するため、軌条を撤廃したのか!?

坪毛沢支線のあとを利用して再開した飯詰林道は、起点が「飯詰村」とあるのは、

「飯詰林道」として再開した時代には、「五所川原貯木場」に直接運び入れていたので、

「飯詰貯木場」は使われていなかったそうだ。

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ほとんど勾配を感じず、直線と緩いカーブで進んでいく。

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まだ、高度はほとんど上がっておらず、山中にも深く入っていない場所なので、

森林の感じはしない。

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さらに進むと笹薮を分断するように、直線の道筋が現れた。

軌道跡だと思っていたのだが・・・。

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順調に進んでこれたと思ったが、急に右へ下る勾配となり、

この先は川があって、行き止まりです。

右側には田んぼと思われる場所があり、今シーズンは休耕しているようだ。

ここまでは、農家の人が利用する道路として整備がされているようだ。

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行き止まりの先から滝のような音がします。

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よくみると、堰が設けられていて、勢い良く水が流れていました。

ここを橋で越えて右岸から左岸へとルートを変えて進んでいたのか!?

写真に納めていないが、右側に下るここのポイント前は、左の林の中に笹薮が続いていた。

それだと、川越えをしないで進める。

もしかすると、それがこの先へと続く軌道跡かもしれません。

さらに進むと、飯詰ダムの中へと入ってしまうラインなのだ。

坪毛沢支線が坪毛沢まで行くとなると、このまま、ダムの中を通って進んで行くルートが自然な感じなのだが・・・

ダムのことを調べてみた。

飯詰ダムは昭和44年(1969)~48年(1973)の4年の工期を経て完成している。

その前に、不動溜池が存在し、竣工は昭和24年(1949)だ。

坪毛沢支線が開設された時期には、ダムも、不動溜池も無かったのだ。

一旦、牛馬道に格下げされていた時期も、とくに不動溜池の工事では、

資材運搬に軌道あとを利用していたのではないでしょうか!?

坪毛沢支線の軌道跡を再利用した飯詰林道が、昭和26年(1951)に出来ていることを考えれば、一旦、牛馬道にして格下げして、軌道利用を止めている時期に合致する。

坪毛沢支線が、「飯詰貯木場」から進んでいたというわけだから、飯詰川沿いに進むのが自然だ。

そうなると、飯詰川の右岸を坪毛沢の合流地点まで遡上し、

そこを橋で飯詰川を越えて、坪毛沢沿いを遡上していくルートが自然になってくる。

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来た道を戻り、再確認してみた。

すると、民家のところで一旦高度が下がっている。

自然に緩やかに高度を上げて終点へと進むには、現・道路の進む方向は違うと思われる。

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高度を保ったままのラインを進もうとすると、この民家の小屋を突っ切って進むことになる。

当時は、民家はなかったはずだ。

現在、この辺りには数軒の家がある。

その数件の家の間を通るように、軌道跡は進んでいるように思えた。

その先で、現・道路から左側の高い部分に直線状の道筋のようなラインを確認できた。

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上って確認してみると、きれいな台形の道床が現れた。

下側に古くからの農道があるので、この軌道跡は利用されることがなかったようだ。

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さらに進むと、こんな感じ。

道筋は感じ取れるが・・・

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行く手を阻まれたら、無理せず、下側の平行して進む農道に下りて迂回し、

また軌道跡へ戻り進んでみた。

そうすると、人の手が加わった空間に出た。

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ダムに行く道が、すぐそばに見える広い空間だ。

草が払われていて手入れがされている。

ここまで来た軌道跡を振り返ってのバックショット。

その広い区間より1段低いところが軌道跡のようだ。

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さらに進むと、また行く手を阻まれる。

滝のような音が近くから聞こえる。

下の農道に降りてみた。

すると、最初に先まで行った堰のあるところまで進んでいたことが確認出来た。

これより先に進んでも、ダムの手前に出るだけなので、進むのは止めました。

軌道跡が、下の農道とは別であることが解った。

坪毛沢支線に関する遺構は、ここまでに何も見つからなかったが、

終点の坪毛沢落合辺りには、なにか関連するものがあるのかも・・・

軌道跡とは別ルートの途中から、坪毛沢に入れるようだ。

機会があれば探索してみたいが、クマ(´(・)`)怖い。

456

水色の実線が、実際に進んでみた軌道跡です。

=へばまんだのぉ~=


五所川原林道(味噌ヶ沢支線) その②

2013-09-23 12:54:31 | 津軽森林鉄道

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飯詰貯木場付近。

五所川原林道と、味噌ヶ沢支線との境目ともいえる場所だ。

味噌ヶ沢へと行く現・林道は、右に曲がってすぐに左に曲がって入っていく。

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軌道跡と思われるところは、真っ直ぐ進んでいる。

しかし、その先はこのように切れている。

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その先を確認してみた。

台形の道床がハッキリと解る。

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道床がここで終わっているのは、 ここには大淵川が流れており、

ここを渡って進むための、大き目の橋が掛かっていたようだ。

しかし、川は改修されており、橋脚跡などの遺構は見当たらない。

木橋だったのか!?

プレートガーター製だったのか!?

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進んでいた先と思われる川の向こう側は、草木が邪魔で良く見えなかったが、

奥のほうに笹薮があり、何か道筋のように見える。

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周辺を観察してみると、道筋があった裏手に行けそうなラインがあった。

Cimg4272_2

かなりぐるりと迂回して歩き進むと、大淵川の右岸に出た。

途中の場所から、橋が架かっていたと思われる場所の横を写真に収める。

川が改修されて川幅が小さくなっている。

当時は、道床が終わっているところまでの、

かなりの川幅があったことが理解できる構図だ。

Cimg4273

裏手に回る事が出来た。

先ほどの道床が、川を挟んで向こう側に見える。

Cimg4277

向こうから真っ直ぐのラインを結ぶと、左側の道なのだが、

かなりの勾配があり、その先で左に90度に曲がり斜面を上っている。

これは軌道跡ではない。

右の笹藪に見えている部分を良く観察したら、自分の背を越えるほどの台形状の盛り土なのだ。

こちらが道床で、軌道跡ですね。

Cimg4278

少し進んで、振り返ってのバックショット。

左の笹薮に見えた盛り土が道床だと、この前にある大淵川を越えて、先ほどの田んぼの中にある道床との高さが一致する。

ここから見ると、橋は川に対して斜めに架けられていたことになる。

Cimg4281

道床が続くその先の、左横の道を進んでいくと高さが逆転する。

軌道跡と思われるところは、掘割になって大淵川の右岸を進んでいた。

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100mくらい進んでから、振り返ってのバックショット。

軌道跡と思われる掘割の中は、湿度が高い雰囲気だったので、歩いて進むことを懸念した。

長靴も履いていたが、ぬかるみを進むよりは掘割の高い部分を伝って進んでみた。

すると、右手の方から人の声が聞こえてくる。

畑が見えた。

畑に侵入しているわけではないが・・・

変なところを歩いているわけだから、通報されてもイケナイ。(´▽`*)アハハ

相手に気が付かれない内に、撤退しました。

この先は、また大淵川を渡って、現・林道に合流するポイントがあるはずと予想していたが、それを確認できないのが残念だ。

次の機会があれば実地踏査してみたい。

現・林道に戻り、合流ポイントと思われる場所に行ってみたが、ハッキリとここだと思われるところは発見できなかった。

このような近隣に住宅のある場所で、橋が架かって進む軌道跡と思われる場所が確認できただけでも、十分な収穫と思ってよいだろうか!?

Photo

赤の点線が、今回確認した付近です。

=へばまんだのぉ~=


五所川原林道(味噌ヶ沢支線)、玉清水川林道

2013-09-15 02:49:59 | 津軽森林鉄道

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五所川原林道を調査していて、不思議な橋を発見した。

コンクリート製の古い小さな橋だ。

現・道路に隣接しているが、注意していないと気が付かない存在だった。

乗用車が1台通れる位の幅しかない。

国道や県道に付随する橋であれば、

橋の名前や竣功日が記述されているはずだ。

しかし、この橋にはそれがないのである。

不思議と言っているのは、前後が田んぼと民家の小屋があり、

行き来できないのである。 ∑( ̄□ ̄;)ナント!! 

Cimg4192

この小さな橋の反対方向を見ると二手に分かれていて、

左側は、飯詰貯木場跡のほうへと向う軌道跡の道路だ。

五所川原林道については、

大正14年度、飯詰貯木場から作左衛門沢までの3,591mを開設。

当時は味噌ヶ沢支線と言っていたようだ。

ここには、なんとなくで入っていました。

2012.09.22

ヴィヴィオ ビストロ の走行チェックで林道へ、ついでに探検・冒険・ミステリーハンターしてみたが・・・おっ!?

(上のタイトルより過去記事にジャンプできます。)

その味噌ヶ沢支線については、

ここもW君と走行していたが、ワイヤーが張ってあり進入禁止。

思っていたより先まで行けず、途中には何も発見出来なかった。

帰りに周辺の別ルートを探索し、飯詰貯木場跡を発見している。

このころは、まだ津軽森林鉄道に関する資料もなければ、知識もほとんどない。

なんとなくで、調査していた時期だ。

昭和元年度、飯詰貯木場から五所川原貯木場までの6,302m開設。

昭和4年度、作左衛門土場から股木沢無沢落合までの1,733mを開設し、総延長11,972mまでになっている。

昭和33年度、5,562mを自動車道に格上げして、総延長が6,410mに短くなっている。

昭和36年度、全線を牛馬道に格下げし、軌道としては廃止されている。

(手元の資料より)

古くは支線と言っていたようだが、林道と名の付く路線は、本線に接続がないからだとうことが解ったくらいです。

昭和33年度、5,562mが自動車道に格上げされているが、飯詰貯木場からは、自動車による陸上輸送がされていたのでしょう。

それ以前の五所川原貯木場までの軌道が無かったときは、

本線にも接続の無いここの林道、何処にどうやって集めた丸太を移動していたのだろう!?

五所川原貯木場も本線に接続されていないし・・・

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右手は、玉清水川林道へと続く軌道跡の道路だ。

の字で合流している。

この場所は、切り替えポイントがあった場所とされている。

昭和8年度、飯詰延長線から長橋村字戸沢中洲山国有林50林班までの、

5,970mを開設。

廃止時期は不明。

(手元の資料より)

ここから先のことを指していると思われます。

こちらの軌道跡については実地検証はまだ行っていない。

Cimg4193

不思議な橋に近づいてみた。

ちなみに、左側の現・道路の橋は、昭和48年の竣功だ。

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この橋は、 前方の五所川原貯木場跡の方角には、信号機が見えている。

前方の白い小屋がルートを塞いでいるよう見えていた。

さらにその手前に、小さな小屋が遠慮がちに置かれている。

それらがなければ、ここから先へは信号機のある交差点へとの動線が生かされる。

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その反対方向、飯詰貯木場跡の方角には、田んぼがあり、行く手を阻んでいる。

おそらく過去には、前方の木やビニールハウスのところまで道があったはずです。

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この橋を見てみると、コンクリート自体、それほど古いものではないように思える。

長い年月、風雨にさらされていると、表面のコンクリートが洗い出され、礫が見えてくるものです。

高欄の横パイプの錆び方も少なすぎる。

亜鉛メッキが処理されているようだが、所々しか錆が出ていないのである。

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橋の下を覗いて見ると・・・

Cimg4197

大き目の木杭のあとが3本ある。

木橋の橋脚跡ではないでしょうか!?

間隔からすると、橋桁の位置を3本支える位置関係に見えます。

元々は、木橋が架けられていた場所なのでは!?

現・道路の橋を架けるのに、仮橋として、コンクリートの橋に架け替えたとも考えられる。

そうすると、コンクリートの質感、高欄の横パイプのヤレ方が時期的に一致するような感じなのだが・・・

このままの状態で、津軽森林鉄道の機関車が通っていたとは思えないのだ。

軌道用だとすれば、木橋からの掛け替えならば、プレートガーターにするのが妥当だと思います。

コンクリート化は、仮橋の線が濃厚かな!?

古い空中写真で確認してみたが、この小さな橋の前後に軌道がありました。

の字のポイント付近は、軌道跡が残っていて、現道路が少しオフセットされて新設されていた。

この付近だけが妙に幅広で、違和感を覚える場所でもあったが、納得である。

遺構がほとんど残されていないと思われていた五所川原林道だが、

木橋の橋脚跡と思われる物が、意外な場所で見つかりました。

コンクリート製の小さな橋がこのままで使われていたか?

は、よく解りません。( TДT)

Photo

五所川原林道(味噌沢支線)

実際に進んだ軌道跡が赤の実線です。

追記1

信号付近は少し広くなっている、付近には住宅も建っているのだが、

妙に不自然な広さの道路幅なのが気になっていた。

調べてみると、

コンクリート製の小さな橋からの信号付近は、真っ直ぐ五所川原貯木場へと向かう線と、

柱などが取れない「クズ木」を下ろす場所との、複線になっていたようです。

そこでポイントを切り替え「クズ木」を積んだ台車を牽引している機関車を入れ、

台車を切り離したり、空の台車に機関車を付け替えたりしていたようです。

「クズ木」は、さらに、節などないものを選び、主に屋根に使われる部材の「マサ」をとっていたようだ。

「マサ」とは、トタン屋根が一般的になる前の屋根の材料ですね。

30cm×10cmほどの薄くぺらぺらの板です。

昔は、マサ割り職人がいたそうです。

マサ割のコンテストなども行われて、技とスピードを競っていたこともあったそうだ。

小さなコンクリート製の橋の付近が、妙な広さの道路幅だった理由が解明した。

=へばまんだのぉ~=


福島酒造変電所

2013-09-11 00:53:08 | 風景・芸術

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福島酒造変電所の跡地に来てみました。

塀で囲まれた大きな林の中に、ひっそりと建っています。

青森県内で初の私有変電所になるそうです。

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ここの林は、剪定がされていない自然な形のソメイヨシノだそうだ。

なので、こういう自然体のものは初めて見るので、最初は桜の木だとは認識できませんでした。

公園の桜とかは、花をつけたときのバランスなどを考えて、人の手が加えられている。

ここの桜の木は背が高く、スケールが大きいです。

桜の花が満開のシーズンだと、公園の桜とは違ったすばらしい景観になるとも思われます。

今度のシーズンに見てみたいですね。

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吉野町の「福島酒造」、富田町の「富名醸造」へ電力を送るための変電所である。

当時は、もう一つ同じような建物があったとされているので、それぞれの町内の建物に送るために分けられていたのかもです。

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紙漉沢の岩木川発電所で発電された高電圧の6,000Vを長い距離、送電するには、高電圧のままのほうがロスが少なくて済む。

そして、それぞれの町内の近くにあるこの場所で、100V~400Vに電圧を落としてから接続されていたようだ。

設備に400V、電灯や一般電力に100Vってところでしょうか!?

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離れてみると、周りの風景に溶け込んでいて、建物があることすら気が付きにくい場所だ。

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こんな広々した屋敷で、こういった煉瓦造りの家に住みたいと思ってみたり・・・

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さすがに、変電所跡には住めませんが・・・

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窓が上げ下げ式で、それがまたいい雰囲気を出しています。

ここは、もうヨーロッパの古い村なのではと、

行った事がないのに思ってみたり・・・(´▽`*)アハハ

これで、「福島藤助」のお酒造りに関係した建物は、ほとんど見れたと思います。

本当にすごい人だったと、残された建物から見て取れます。

=へばまんだのぉ~=


富名醸造

2013-09-09 23:47:36 | 風景・芸術

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富名醸造を引き継いだ、弘前銘醸株式会社に来てみた。

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「福島藤助」が、大正6年(1917)にこの地へ富名醸造を設立。

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ここでは、清酒「富名正宗」を造っていたそうだ。

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巨大な赤煉瓦の建物が3棟、連なっている。

この煉瓦の独特の赤が「福島藤助」のこだわりだったのかもです。

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建物間をつなぐ壁、ちょっと違和感ありますね。

煉瓦の積み方も異なるので、異なる時代に後付けしたのかもしれません。

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ここの3棟とは別に、もう1棟は、少しだけ離れた場所にある。

側面が道路に面しているので、その大きさがわかりやすい。

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この壁も、違和感があります。

建物とは別に、後から設置されたのではないでしょうか!?

それとも、壁はこんな感じになるのだろうか!?

煉瓦積みの建物に詳しいわけではない。

煉瓦の積み方がいくつかあり、大概は2つの積み方に大別される。

ここでは、その2つが見れるので面白いかもです。

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道路に側面をもつ建物がこれだ。

この前を、道路工事をしており、その工事車輌が建物の横にずらりと置かれていた。

展示会状態で、写真に納めるのは構図が良くなかったので、

全体を収めたかったが撮っていない。残念( TДT)

この「富名醸造」では、「富名正宗」を年間、40万本(1升瓶)を製造していたという。

ちなみに、吉野町の「福島酒造」で造られていた「吉野桜」は、年間100万本(1升瓶)というから驚きだ。

しかし、ここの「富名醸造」は、「弘前銘醸」に引き継がれたが、

残念なことに昭和60年(1985)に清酒醸造は止めてしまったようだ。

=へばまんだのぉ~=


カネタ玉田酒造店

2013-09-09 22:49:56 | 風景・芸術

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カネタ玉田酒造店

「福島藤助」が老舗の蔵元のとなりに・・・

のとなりの蔵元です。

かなり残念ですが、道路から見えていた元々の建物はなくなっており、

当時の雰囲気はまったくありません。

壁に大きな文字が書かれていなければ、ここが蔵元だとは気が付かないくらいです。

しかし、藩政時代は歴代藩主の御用酒屋だったそうで、古文書にも記されているそうだ。

『津軽4代藩主信政公が藩士玉田善兵衛に酒造資金を下賜し茂森山で酒造業を始めさせる。歴代藩主の御用酒屋となる』。

とのことだ。

元々は、「カネ玉」の屋号だったらしいが昭和36年に廃業したようだ。

しかし、再興の話が出て、分家「カネタ」だった当時の当主が分家をたたんで、

「カネタ」の屋号のままに後を引き継いだ経緯があるそうだ。

前代での出来事らしい。

なので、分家の(玉川)が引き継がれ、

「カネ玉」の(玉千鳥)は消滅してしまったようだ。

そういうのもあり、過去にこだわらず、

屋敷をあのようにしたのではないのでしょうか!?

過去にとらわれない、新しいお酒が、どんどん造られるのかもですね。

=へばまんだのぉ~=


酒舗カクイ成豊

2013-09-09 22:05:19 | 風景・芸術

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「福島藤助」が初めて酒造蔵を建てた場所だ。

江戸時代から創業している、老舗の蔵元のとなりに・・・

その後に酒小売店の「酒舗カクイ成豊」として、「福島藤助」の義理の弟である、

「成田豊助」が創業した。

古いときのイメージを壊さないように、きれいに修繕されている。

時間が経てば、新しく見えている木の風合いも良くなって、雰囲気が出てくる思われます。

当時のままの雰囲気を、きれいに再現されていると思います。

このようにうまく修繕・修復がされていると、それでも当時の時代が感じられて良いですね。

=へばまんだのぉ~=


朝日サイダー

2013-09-09 02:02:14 | 食・レシピ

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「朝日サイダー」の工場へ来てみました。

「福島酒造」のことについて調べていたら、吉井酒造につながり、

「朝日シードル」にたどり着いたルートがあって、

シードル=CIDRE ・・・ CIDER サイダー

っで、「朝日サイダー」が飲みたくなった。

小さい頃の清涼飲料水といえば、「朝日サイダー」が定番だった。

今は、近所のローカルなお店でも置かなくなったので、飲む機会がまったくなくなっていた。

大手の清涼飲料水がCMをバンバンしているので、そちらの新しい飲み物のほうが好まれますからね。

しかし、調べてみると、今でも昔ながらの味を守って製造・販売されて、小売もされていることを知った。

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さっそく、入手する為にやってきたのだ。

少し解りづらかったが、サイダーW君が同行してくれていたおかげで、なんとか辿り着けた。

すると、日曜日なので工場は稼動していない。

販売はしているのではないかと、事務所側に近づいてみたところだ。

料金表と、なにやら、購入システムなる事柄が書いたものがあった。

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なんと、無人販売方式をとっていた。

休日だけの特別なシステムか!?

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代金を入れる封筒が入っていた。

これに、代金を入れて事務所のポストに投函するシステムだ。

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ここから欲しい本数を取り出し、その分の料金を封筒に入れて事務所のポストに投函しました。

事務所といっても、工場の隣の普通の民家でした。

ポストに記載された名前が製造主と同じなので間違いないと思いますが・・・

違っているんじゃないかと、少し不安を覚える感じで、

代金を入れた封筒をポストに入れました。(´▽`*)アハハ

ビンはリターナルなので、返品する前提だと、ビン代を差し引いて支払いが出来るので、少しお得になります。

しかし、オイラの場合は、返しにはこれないと思うので、ビン代も含めての支払いにしました。

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3本、買ってきました。

ケースに入ってビニールが上からかけられていたとはいえ、

無人販売方式で外に置いてあったものだ。

少しホコリが付いているので、ふき取って冷蔵庫で冷やしておいた。

全部、色や元々の内容物が違うものだったようですが、

容器がリターナブルなので、大きさ・形状はまったく同じ。

このような無駄のない、地球に優しいシステムが昔からあったのだ。

PETボトルもリターナル化出来ないものなのでしょうか!?

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紙のラベルがレトロです。

明治30年(1897)から操業している老舗のサイダー

オイラが覚えている昔からラベルは変わっていないようだけどね。

ちょうど冷え頃を見計らって、冷蔵庫から取り出し飲んでみました。

炭酸が強めで、喉に刺激が残るが、甘さは控えめだった。

この味です。

昔から変わっていません。

なつかしの味も楽しめました。

=へばまんだのぉ~=


吉井酒造株式会社

2013-09-08 04:05:12 | 風景・芸術

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吉井酒造株式会社に来てみた。

いくらか改修されているようだが、もとは古い建物のようである。

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この「吉井酒造株式会社」については詳細が解りません。

解っているのは、「福島酒造」と、それからあの吉野町にある、「旧・福島酒造」の今では赤煉瓦倉庫と言われている場所で、リンゴ果汁にアルコール加えたリンゴ酒とは異なる、日本で始めてスパークリングワインを開発し販売していたことに関係していたことくらいだ。

少し掘り下げて調べてみると、

昭和29年(1954)、「日本酒造会社」の吉井勇氏が「アサヒビール」と提携して、
「朝日シードル株式会社」を設立した。

フランスに直接出向き醸造方法を研究、またフランスから技術者を招きいれ、その技術を導入して製造・販売していたようだ。

昭和35年(1960)には、「日本酒造会社」はニッカウヰスキーに吸収される。

その後昭和40(1965)年には、ニッカウヰスキーは栄町に工場を新築。

製造場所もそこに変わり、吉野町の「旧・福島酒造」の工場では製造を止めている。

現在もニッカシードルとして、栄恵町にあるニッカウヰスキー弘前工場が伝統を守りながら時代にマッチするように少しずつ改良し、製造・販売されている。

「吉井勇氏」といえば、「吉井酒造」の社長である。

このことから、「日本酒造会社」とは、「吉井酒造株式会社」の社長が、
「シードル」を世界的に製造・販売していくために設立したなのではないだろうか!?

社名から、そういう風に読み取れるのだが・・・

しかも、「日本酒造工業株式会社」のことではないのだろうか!?

そうなると、「吉井酒造株式会社」の「岩木川発電所」にある銘板に記載されていた、
「日本酒造工業株式会社」と、「吉井酒造株式会社」との関係がつながってくる。

同じ社長の名前が出てくることから、前進の会社か、子会社ということでは!?

「ニッカウヰスキー」といえば、もとは「大日本果汁株式会社」として果汁100%のジュースを扱っていた。

そのような経緯を持っている酒造メーカーなので、原材料がリンゴの「シードル」をさらに大量に製造・販売していくには「ニッカウヰスキー」に一任して、大々的に製造・販売して日本のシードルが世界的に売れることを願ったのではないだろうか!?

それで、「ニッカウヰスキー」に吸収という形になったのでは!?

昭和29年(1954)といえば、「アサヒビール」が「ニッカウヰスキー」に資本参加している。

「ニッカウヰスキー」の内部の事情から、アサヒビールに株の過半数を売却し、グループに入るという事態があったようだ。

そういった事情から、「朝日シードル」という名前が5年間存在したようだが、それがなければ最初から「ニッカシードル」になっていたかもですね。

その「ニッカウヰスキー」も昭和13年(2001)には「アサヒビール」の完全子会社化された。

現在は、「ニッカシードル」の商品について、「アサヒビール」のHPから見れるように変わっています。

当時の味を再現し、「朝日シードル」が復活したら面白いかもです。

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吉井酒造は、福島酒造から引き継いだ、「吉野桜」という日本酒を造っていたが、

今は、お酒造りそのものを止めてしまっているようだ。

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奥の方に赤煉瓦で出来た立派な煙突が見える。

お酒を造っていた工場だと思われます。

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中庭が立派です。

四季醸造を始めてみたり、日本で始めてシードルを製造してみたり、

この弘前には、パイオニア精神が高い人たちが多いようだ。

=へばまんだのぉ~=


吉井酒造赤煉瓦倉庫とA to Z メモリアルドッグ

2013-09-06 02:57:16 | 風景・芸術

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吉野町の緑地公園にある A to Z メモリアルドッグ

同行している、フォトグラファーW君によるフォトショット。

2006年の夏、ここで博覧会「YOSHITOMO NARA+graf A to Z」が開催された。

その収益金からA to Z メモリアルドッグが製作され、ここに設置し、弘前市に寄贈されたのだそうです。

最初に訪れたのは、偶然だったのだ。

街中の運転はあまり得意じゃないので・・・迷ってました。(´▽`*)アハハ

2008.08.21

巨大な犬

2010.05.22

GX70G改で、ドライブ②

(過去記事のタイトルからジャンプできます)

最初は、偶然に迷い着いて発見。

その後も結果的には迷って再訪してたり、

それからは幾たびか、この辺を走るたび訪れていたところです。

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A to Z メモリアルドッグ のそばにある、「吉井酒造」の「赤煉瓦倉庫」

最初は、昔、吉井酒造がここで、お酒を造っていた工場跡なことぐらいにしか知らなかった。

後で、もともとは「福島酒造」だったことを知ることとなる。

その「福島酒造」は、元は大工だった「福島藤助」が、明治29年26歳(1896)の時に酒造りを志して、その後に造った工場なのだそうだ。

なんでも最初は、貞享2年(1685)の江戸前期に津軽4代藩主信政公の命で創業している
老舗である茂森の玉田酒造店(玉川)の隣に酒屋を開業したのが始まりのようです。

俺だったら、もっと旨い酒が造れると、喧嘩でもしたのだろうか!?(´▽`*)アハハ

元は大工、酒蔵については当時最新の建築方法を学んで自分で作れるだろうし、大工は数字に強いので、その中でも経理・経営面にも優れた能力に長けていた人だったと思われます。

酒造りに転業するぐらいなので、相当な勤勉家であったのでしょう。

蔵元は、代々引き継いできた製法、経営方法をしているだろうから、旧来の方法を変えようとしないのに、「福島藤助」にとっては不思議でならなかったのではないだろうか!?

この人物の酒造りの偉業にまつわる建物について知りたくなったのだ。

この地には、酒造りに適した清水が湧いていたのだという。

明治40年(1907)に、この地に福島酒造を設立。

昔の地名は、清水町吉田野と言われていたことからも解る。

また、大正6年には、近くの富田3丁目(当時は富田字名屋場)に富田醸造を設立し、

それぞれのところで造られたお酒は、青森県内はもとより県外にも販路を見出し、樺太にも輸出されていたようだ。

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この「福島酒造」では、清酒「吉野桜」が作られていた。

清酒「吉野桜」が町名の由来になっているほど、地域にも影響している。

総建て坪 2,200 坪で敷地面積 3,700 坪

建物は、工場と倉庫を含めて10 棟もあったというから驚きだ。

現在は、ここの2棟だけが残っている。

戦前に、これだけの巨大なお酒を造る工場群としては、日本で数えるぐらいしかなかったのではないでしょうか!?

それもたった1代で、しかも元大工である「福島藤助」という人物が建設したのである。

この近代的な工場でたくさんのお酒を作り、東北・北海道で首位の大きな酒造メーカーにまでなったのだ。

さらに、酒造業だけでは収まらず、食品製造業、製糸業、印刷業などにも進出していたようだ。

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「福島藤助」は、ここで「四季醸造」を導入している。

当時は、酒造りというと「寒造り」という冬の厳寒期に造る方法が一般的だったようだ。

季節に左右されず、いつでも酒造るための日本で始めての「四季醸造」を実現するため、

ここの工場には、製氷機、蒸気機関、精米機、細菌学研究設備、冷却装置も設置したという。

当然、冷却装置には大きな電力消費を伴うので、あの発電所が必要になったのだ。

2013.09.04

吉井酒造 岩木川発電所

(過去記事のタイトルからジャンプできます)

電力まで自前でまかない、これらも準備し、醸造場を季節の変化にかかわらず、一定の温度に保つよう工夫。

これらの設備と独自の醸造法によって、気温の変化に関係なく四季を通じて醸造ができるようにしたという。

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この「四季醸造」の導入において、純粋酵母仕込み(酒母なしでモロミを造る方法)

を採用しており、大正末期の日本酒造業界ではすごいことだったらしい。

「福島藤助」という人物は、そこまでお酒に魅入られていたわけだ。

いっきに巨大化していった「福島酒造」だが、そのまま順調とはいかなかったようです。

一方で、巨額の工時費用を要した水力発電所建設などの設備投資が、かなりの負担となってしまったようだ。

「四季醸造」は営業の採算ベースに、うまく乗っていたかは確証がとれていないらしい。

昭和の初めにかけて、「福島酒造」を始め「富名醸造」などの一連の事業は福島家からはなれてしまったようです。

ここの「福島酒造」の酒蔵は、その後、「吉井酒造」を経て、「ニッカウヰスキー弘前工場」が、昭和40年(1965)までシードルを生産していたという。

過去に、ニッカがリンゴのお酒として、女性向けにとCMに力を入れていた時期がありました。

もともとは、ここで造られていたんですね。

富田三丁目の富名醸造は「弘前銘醸(株)」に引き継がれたようだが、昭和60年(1985)に清酒醸造をやめてしまったようだ。

現在は、「福島藤助」の酒造り自体を継承するものはないのだそうだ。

清酒「吉野桜」は数年前までは手に入っっていたらしい。

どんなお酒だったのだろう!?

呑んでみたかったね。

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「福島藤助」が好んだ赤煉瓦造の建物。

小栗山に煉瓦工場も建設し、煉瓦まで自家生産していたのだそうだ。

自社工場や倉庫を建設する時、それを使用していたのだと言う。

なので、すべて同じ色の煉瓦の建物なのがうなづける。

ここの吉井酒造赤煉瓦倉庫(旧・福島酒造)のA to Z メモリアルドックのそばの道路の反対側に、割烹中三が少し前まであったのだ。

広い屋敷が趣のある古い塀で囲まれていた。

今ではそれもなくなってしまった。

他の周囲にあった建物も別のものに建て変わっていたりして、景観も変わってきている。

この歴史ある建造物は、後世にしっかりと残してもらいたい。

また、それが「福島藤助」の遺志でもある。

「事業に失敗しても、建物だけは永久に残る」と言っていたようだ。

瞬く間に成功を収めた「福島藤助」だが、大正14年55歳(1925)で心臓麻痺のため急逝してしまったようです。

弘前の経済人とまでなった人なので、葬儀は盛大に行われたようだ。

55歳では若すぎる。

長生きしていたら、酒造りにはさらに情熱を燃やし、まったく新しいお酒を開発していたかもですね。

突然、大工から酒造りに転業した訳は解らなかった。

どんな理由からだったのだろうか!?

冒頭にも言っているが、喧嘩したわけではないと思うが・・・(´▽`*)アハハ

=へばまんだのぉ~=


吉井酒造 岩木川発電所

2013-09-04 00:56:51 | 風景・芸術

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青森市から、弘前市に移動して来ました。

紙漉沢という所へ向かっています。

晴れ男のW君が同行している。

当初の計画では、青森市ではなく、弘前市に出向くつもりでいた。

天候が悪いとの予報だったので、予定を変更し青森市に買い物に行っていたのだ。

しかし、青森市では美味しいラーメンでお腹を満たすことが出来たが、

それ以外に何も用事が足せなかったのだ。

せっかく出歩いているので、このまま帰ったのではもったいない。

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岩木山から噴出しているかのような大きな雲を見て、やたらとはしゃいでいるW君。

あの雲、スゲー、スゲー と、連発していましたが・・・

晴れ男のW君の効果があるうちに、

当初の目的である、弘前方面を探索することにしたのだ。

青森市からの移動途中、大雨にうたれた。

しかし弘前市に近づいてからここまでは、曇ってはいるが雨の気配は感じられない。

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目的の場所へと、だいぶ近づいているはずだ。

カーナビもセットせず、地図も持たず、大体の位置を頭に入れて適当に走っています。

まぁ~、いつものことですけどね。

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発見(*゜Д゜) ムホムホ

岩木川発電所です。

これは、現・吉井酒造が管理しているものだ。

先日からの雨で、かなり川が増水し激流化している。

川の水に土砂が含まれているからだろう、かなり濁っている。

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ここは古い水力発電所なのだが、オーバーフローした水が、

ものすごい勢いで、民家のような赤い屋根の建物の右側から川へと流れ出ている。

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近づいて見ることにした。

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川沿いを少し進むと、すぐに近づくことが出来る。

すると、立ち入り禁止の看板が目に入る。

その手前付近が少し広くなっているので、そこに車を停めた。

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これが、水力発電の水車と発電機がある建屋だ。

赤レンガの建物で、趣があります。

屋根はきれいにトタン葺きされている。

建設当初は瓦が使用されていて、近年に補修されたのではないかと思われます。

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左のコンクリートの構造物は、上部水槽。

これより先は立ち入り禁止なので詳しくは解らないが、流れ込み方式とのことだ。

コンクリートの部分が水槽になっていると思われるが、それほど大きなものではないと思われる。

先ほど川にバイパスして水が流れ出ていたのは、この水槽のオーバーフローした水だと思われます。

その上部水槽の下部より真っ黒な水圧鉄管が2本出ています。

写真では解りづらいが、フランジ部分がリベット止めしてあります。

おそらく当時ものでしょう。

上部の水槽の水が水圧鉄管を通って押し流されて、

発電機の動力として水車が回り、発電される仕組みだと思います。

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上の写真の右奥にも建屋があります。

中央に三つの電線引込み線の取り入れ口があるが、電線は引き込まれていない。

変電設備らしいが、現在とは仕様が合わないためか使われていないようだ。

ここの発電所施設は、もともと、福島酒造が四季醸造を日本で始めて行うのに必要な自社工場の動力をまかなうために建設したものだ。

水車と発電機の建屋には銘板が付いていたが、

    岩 木 川

    発 電 所

日本酒造工業株式会社

とあり、

その発電所と日本酒造工業株式会社の文字の間に、白いプレートで吉井酒造株式会社と嵌め込まれていた。

おそらく、福島酒造→日本酒造工業→吉井酒造の流れで、現在に至るのではないのだろうか!?

福島酒造から日本酒造工業の手に渡ったとき、付け替えられた当時の銘板なのでしょう。

それが何時なのかは、不明だ。

酒造りと言えば、厳寒期に作るのが当時一般的だったようだ。

それを季節に関係なく一年中、酒造りをしようとしたのだ。

この発電所は、大正10年4月に許可を取っており、大正13年1月から運転を開始している。

およそ3年で建設したことになる。

現在でも運転されていて、東北電力へ売電されていると思われます。

当時から89年も稼動していることになる。

最大出力は680KW

減水区間が2.6kmもある。

これほどの大きな施設を建造するのに、莫大な費用が掛かっていたようだ。

当時の一企業が建設する工事金額のレベルとしては、はるかに越えていたと思うのですが・・・

凄すぎます。

次は、その四季醸造を行った工場を見に行きます。

=へばまんだのぉ~=