![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/f6/2f9b386b5bb81926882c7ef94e07aad5.jpg)
先に、江戸後期土佐派の絵師、土佐光孚による能画『江口』を紹介しましたが、土佐光孚の能画がもう一つありましたので、今回アップします。
全体、63.8㎝x193.8㎝。本紙(絹本)、49.9㎝x108.9㎝。江戸後期。
掛け軸の大きさ、絵のタッチは、先回の品とよく似ています。前後して描かれたものでしょう。
【あらすじ】漢、高祖の臣下、張良は夢の中で老翁と出会い、兵法の伝授を約束されます。夢の中での約束どおり、橋のほとりに行くも、時間に遅れてしまいます。老翁は遅刻を咎め、また五日後に来いと言い去ります。五日後、張良の前に、威儀を正した老翁(黄石公)が馬に乗って現われ、履いていた沓を川へ落とします。張良は急流に飛び込み沓を取ろうとしますが、大蛇が現れ妨害します。張良は剣を抜いて立ち向かい、大蛇から沓を奪い返します。大蛇は、張良の守護神となって天空へ消え、黄石公は張良の武勇をたたえ、兵法の奥義を伝授したのでした。
黄石公と太公望は兵法の祖とされています。張良は、黄石公から授かった太公望兵書によって大軍師となり、劉邦の漢の建国に貢献したのです。
馬に乗った黄石翁が、端の上から川へ沓を投げ、張良がそれを取りに行こうとしている場面です。
能舞台ですから、川も橋もありません。そこに橋があり、川がとうとうと流れている様を感じ取るのは観客の役目です(^^; 黄石翁は馬のつもりの桶に腰を掛け、台(橋のつもり)の上に座しています(^^;
黄石翁と張良は、ともに正装をしています。
二人とも能面をつけていません。いわゆる直面(ひためん)。人間の顔自体を能面と考えるのです。喜怒哀楽を直截的に表さない能では、直面で演じるのはかえって難しいとされています。
『張良』でもう一つ特徴的なのは、シテとワキの関係です。通常の能では、当然シテが主役であり、すべてのことがらがシテを引き立てるように能の構成はなされています。
ところが、『張良』では、どう考えてもワキが主人公なのです。能『船弁慶』でも、大活躍するのは、ワキの弁慶です。このように、シテではなく、ワキが主人公の能は珍しいです。
投げられた沓。
黄石公の左足の沓だったのですね。能では、頃合いを見計らって、後見が沓を舞台に投げます。そして、張良は大蛇と戦い、沓を取り戻します。沓が投げられた位置によって、シテは演技を微妙に変えなければなりません。普段の能では脇にまわるワキ方にとって特別の舞台であり、力量が求められる大曲です。
落款は、先に紹介した『江口』の場合と同じです。同時期に描かれたのでしょう。
今回の『張良』とほとんど同じ能画が、国立能楽堂に所蔵されています。おそらく他にもあるのでしょう。
以前のブログで、版画とは異なり、能画は絵師への依頼によって描かれた物、いわば一品物だと書きました。しかし、このように、同一パターンの能画が存在するのですから、少なくとも江戸後期の土佐派では、商業的に能画を製作していたと考えられます。
土佐光孚の色絵は非常に多く現存します(偽物ではない品が(^^;)。おそらく、弟子なども動員した工房体制がとられていたのではないでしょうか。
狩野派などでも、幅広い層のニーズにこたえるために、工房としての絵のスタイルを確立していたようですから、土佐派でも同じような体制をとっていたのでしょうよね。
そうでなければ、こんなに緻密に描いていたのでは、たった一人で描いていては、とても、多くの需要に追いつきませんものね。
故玩館からは、能に関する名品が、まだまだ、ぞくぞくと登場しそうですね!
ナンバーツー。「項羽と劉邦」の中で一番心に残る人物でした。
能に取り入れられると言うことは、日本人に馴染み易い人物像なんでしょうね。
世阿弥は河原者ながら、室町将軍の庇護を受け、中国由来の高度な書籍に接することができたらしいです。しかも、それを読みこなし、さらに能に創り上げるという凄いことを成し遂げたのです。今ではとても考えられないです。
いつも贋物に惑わされているので、一人の作者が一体どれだけの作品を残したのだろうか、とよく思います。
書、絵、工芸品・・・物によって違いがあるでしょうが、円空は、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれ、確認されている物が5000体とされています。これくらいがMAXでしょうか。
円空は例外で、いくら優れた作者でも、体力、気力などから、どんどん舞い込む注文をさばくのは難しいです。そこで、助手をつけたり、チームを組む必要が出てくるのでしょう。代作を頼むよりはマシ(^^;
今気になっているのは、今回の品のように複数の類似(ほぼ同一)品の存在です。もちろんよくできた偽物は論外です。
土佐光孚の場合、多くの注文をさばくのに、同じ物を複数作ったのだと思います。全部オリジナルで異なる絵を作るとなると大変ですから。
伊藤若冲の場合は、似てはいますが、少しずつ異なる墨絵を大量に生産したのだと思います。
不思議なのは田能村竹田です。完全に一人で描いているのですが、どうみても本人の作と思われる同じモチーフの絵(ほんのわずか違う)が存在するのです。よほどの自信作か、色々変化を試していたのか・・わかりません。
考えてみれば、浮世絵版画の色絵刷りの場合多数の版が要りますから、同一の絵を、多い時は数十枚も描いたはずです。コピー機顔負け、江戸時代の絵師はすごいですね(^.^)