遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

古美術骨董雑誌『阪急美術』

2024年01月07日 | 骨董本・雑誌

戦前、大阪梅田の阪急百貨店が発行していた古美術雑誌『阪急美術』2冊です。

左:『阪急美術』第十五號(昭和13年12月)
右:『阪急美術』第二十七號(昭和14年12月)
縦 23㎝、横 16㎝。
古書店(資料館?)のラベルが付いています。

 

『阪急美術』第十五號(昭和13年12月)
表紙装丁:芹沢銈介(染色家) 表紙素材:丹波手漉き和紙
表紙題字:山本發次郎(美術コレクター)

目次と口絵写真(諏訪蘇山、兎)

武者小路実篤の記事

阪急美術の出版母体、充美会(古美術店9軒)の展観案内。

茶事の記事。

編集後記と阪急美術部の広告。

 

『阪急美術』第二十七號(昭和14年12月)
表紙装丁:芹沢銈介(染色家) 表紙素材:丹波手漉き和紙
表紙題字:大塚治六(書家、教育者)

目次と口絵写真(芹沢銈介、赤絵大皿)

原色図版(時代裂、波斯もうる裂)。

香合の記事。

茶室の記事。

大津絵の記事。

柳宗悦による芹沢銈介第1回個展の紹介。

 

『阪急美術』は、昭和12年10月に、阪急百貨店から発行(月刊、20銭)され、昭和16年6月まで刊行(45号)されました。そして、その後も装いを変えながら、『汎究美術』(昭和16年7月,45号ー昭和17年3月,54号)、『美術・工芸』(昭和17年4月,1号ー昭和19年12月,31号)、『日本美術工芸』(昭和20年1月,32号ー平成9年1月,700号)の形で刊行されました。

阪急百貨店は、阪急グループの創業者、小林一三(1873〜1957)が、昭和2年(1927)に設立したデパートです。古美術蒐集家、茶人でもあった小林は、百貨店内に阪急美術部を作り、在阪の有力古美術商を集めて(充美会)、店内に古美術店街をつくりました。この充美会が中心となり、発行した月刊古美術誌が『阪急美術』です。茶道具を得意とする古美術店ですし、小林一三自身が茶人でしたから、『阪急美術』に茶関連の記事が多いのは当然としても、注目されるのは、内外の民芸的な品物を積極的に取り上げていることです。また、芹沢銈介装丁の手漉き和紙を表紙に使うなど、『阪急美術』全体に旧来の古美術の枠を超えようとする姿勢が色濃くうかがえます。このように、『阪急美術』には、宝塚歌劇団や東映設立による娯楽の拡大と同じように、古美術品の大衆化をめざした小林一三の趣意が反映されていると思います。文筆にも才を発揮した小林一三です。草葉の陰から、宝塚歌劇団の醜態を鋭い筆致で憂い、たしなめていることでしょう。

もう一つ、『阪急美術』で特筆されるのは、少しずつ形を変えながらも、戦前から戦後へと息長く発行されたことです。特に、戦時体制下でも、古美術の灯を守ることに貢献しました。

昭和13年、『阪急美術』第十五號の表紙題字を書いた山本發次郎は、その頃、画家佐伯祐三の尋常でない才能にいち早く気づき、本格的に蒐集を始めていました。しかし、150点にのぼる日本最大の佐伯コレクションは、昭和20年の空襲でその6割が灰燼に帰してしまいました。山本の死後、残りのコレクションは大阪市に寄贈された後、長い年月眠ったままだったのですが、令和4年、山本發次郎コレクションをもとに、ついに、大阪中之島美術館設立となったわけです。

小さな雑誌『阪急美術』は、大阪の美術界とともに歩いてきたのですね。

コメント (8)
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