ここしばらくブログは、チマチマした小謡集が続きました。おまけに、話はどんどん細かい所へ入り込んで、出口が見えません。
そこで、今回、能楽資料が20例目となるのを機に、少しマシな品で一区切りつけたいと思います(^^;
今回のブログは、『謡抄』です。
日本で最初に編まれた謡いの解説本です。
14 x 20 x 1.5 ㎝、慶長年間、113丁。
本来は、表に謡いの題目が書かれているのですが、表紙は失われています。
また、全部で10巻の大著のうち、私の持っているのは3巻目だけです。
表紙は、どなたかが反故を利用して、自分で補った物です。
この『謡抄』(守清本)は、私たちが普通に目にする江戸の版本と趣が異なっています。それは、この本が、古活字によって印刷されているからです。
古活字本とは、木版の活字(木活字)を組み合わせて印刷した本で、小数部出版されました。日本では、文祿年間から寛永年間(16世紀末~17世紀半)頃にかけて出版されましたが、本の需要が高まるにつれ、版木による出版に変わりました。
最初に、『老松』の辞解が16頁にわたって記されています。
以下、『朝長』、『楊貴妃』、『紅葉狩』、『姥棄』、『通小町』、『三井寺』、『西行桜』、『矢卓鴨』の順に、字句の解説がずっとなされています。
『朝長』
『楊貴妃』
『紅葉狩』
『姥棄』
『通小町』
- 『三井寺』
『西行桜』
『矢卓鴨』
この謡いは廃曲となり、現行曲にはありません。
『謡抄』では、全部で102曲の謡いをとりあげ、各曲の字句について、典拠、名所・旧跡、和歌、難解字句などの説明をしています。
「謡抄」は慶長年間に出版されたと言われていますが、いくつかのバージョンがあるようです。
現在、デジタルコレクションとして、京大(古活字)、国立国会図書館(古活字)、法政大学能楽研究所(木版)の所蔵品が閲覧可能です。
『老松』(2頁分)を例に、古活字本である京大、国立図書館所蔵の『謡抄』と故玩館の所蔵本とを較べてみます。
まず、故玩館の品。
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
国立国会図書館デジタルコレクション
3つともよく似ていますが、少しずつ異なっています。
特に、故玩館の品では、フリガナが多くふられています。他の2つより、少し時代が下がるかもしれません。
『謡抄』の画期的な点は、日本初の謡い解釈書であることにとどまりません。
それまでの謡いは、あいうえおの発音がつらなった音曲でした。一部伝書は残されていたものの、基本的に、謡いは、耳でとらえた音曲を手本として習い、伝えていくものだったのです。
ところが、それを漢字や仮名で表し、さらに解釈を加えたことにより、謡いや能は、新しい文化的価値をもつことになったのです。また、解釈書『謡抄』の成立は、テキストとしての謡本の出版を促した結果、江戸時代には、多くの人々が謡いや能を楽しめるようになりました。
豊臣秀次像(Wikipediaより)
桃山時代に、このような画期的な書物を発案し、編纂を指示したのは、豊臣秀次です。
文武両道に秀で、能や和歌を嗜む文化人でもあった秀次は、文禄4(1595)年3月、当時最高の文化人や各宗派の僧侶たちを集め、謡いの注釈書をつくるように命じました。その中には、連歌師里村紹巴や公家の山科言経も含まれていました。ところが、そのわずか4か月後、秀次は豊臣秀吉から謀反の嫌疑をかけられ、切腹して果てます。秀次の死によって作業は中断しましたが、5年程後、慶長年間に『謡抄』は完成しました。
秀吉による秀次切腹事件は謎だらけです。一般には、秀吉に後継ぎ・秀頼が誕生して、秀次が邪魔になったために抹殺したと言われています。しかし、それだけで、秀次のみならず、一族郎党39人を皆殺にした狂気の沙汰を説明するのは難しい。
私は、秀吉の甥・秀次に対するコンプレックスが根底にあると考えています。
まっとうな人間にとって、コンプレックスは自分を高めるための原動力なのですが、その逆の人間の場合には、自分をガードし、金や権力を得るために、コンプレックスを外に転化させ、妬みや怒りをかきたて、さらには憎悪を相手にぶつけることになります。
先のブログで、クズ総理の異様な行動は学術コンプレックスにある、と書きました。
ごく最近、彼は、著書の中で今の自分に都合の悪い部分を削除して、改訂版を出版したと報じられています。以前の書の中では、「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です」などと公文書管理の重要性を説いていたのです。いっぱしの言い回しですが、公文書隠蔽、改竄、廃棄の張本人とって、今となっては隠しておきたい不都合な記述です。タイトルが、『政治家の覚悟』とはブラックジョーク」でょうか、それとも『政治屋の最期』の誤植?(^^; ゴーストライターが書いたものでも、一応自著です。削除せずに堂々と再版するか、マズイと思うのなら絶版にすべきです。上に立つ立場の者がそれくらいの矜持をもたなくてどうする・・・・さもしい人生を生きてきたであろう人間のクズに対しては、無用のお話しでした(^^;
話しを、秀吉と秀次に戻しましょう。
秀次には、暴虐非道の人間という逸話が多くあります。しかしこれは後に作り上げられた話にすぎません。実際は、古典籍を集め、能、茶道や連歌を嗜む温和な人であったようです。
一方の秀吉は、その逆。
「自分と同じ下賤の出でありながら、あいつは一流の文化人とまじわっている。おまけに、能も自分よりはるかに上だ」
甥の秀次に対するコンプレックスが、いつしか憎悪にまでなっていたのです。
なお、秀吉は、「明智討」「柴田」「北條」など、自分が戦って討ち取った相手を題材にした能(豊行能)を作らせ、実際に舞ったと言われています。秀吉にとって、能は、自分のコンプレックスを昇華させる手段となっていたのです。晩年、異常なほど能にうちこんだ秀吉ですが、彼の歪んだ心の闇は底の知れない深さでした。
文禄2年、秀吉が催した前代未聞の禁裏能では、秀吉自身が数多くの能を演じると同時に、徳川家康、秀忠、前田利家、毛利輝元、織田信雄、宇喜多秀家、小早川秀秋など名だたる人たちが出演しています。ところが、豊臣秀次は呼ばれませんでした。この頃には、もう、秀吉の秀次に対する憎悪が燃え盛っていたのでしょう。
禁裏能から2年後、秀吉の憎悪を感じとった秀次は、急いで、自分が愛好した能、謡いを新しいステージへ展開しようとしたのではないでしょうか。謡い解釈書の編纂を指示した直後、秀吉により、秀次は蟄居から切腹へと追い込まれ、この能プロジェクト一時中断されました。しかし、心ある人々により編纂は続けられ、秀吉の死から数年後、『謡抄』が世に出たのです。
謡いの解釈を初めて集大成した『謡抄』は、江戸時代、武士から町民まで、幅広く謡い(能)が親しむための礎を築いたのです。さらに、明治になってからは謡曲の研究がすすみ、多くの解説本が出版されました。また、謡本そのものにも、字句の解説が載るようになり、現在にいたっています。
秀次が死の直前に撒いた種は、今の私たちの時代にも、花を咲かせ続けているのです。