遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能楽資料20 稀覯本『謡抄』

2020年11月01日 | 能楽ー資料

ここしばらくブログは、チマチマした小謡集が続きました。おまけに、話はどんどん細かい所へ入り込んで、出口が見えません。

そこで、今回、能楽資料が20例目となるのを機に、少しマシな品で一区切りつけたいと思います(^^;

今回のブログは、『謡抄』です。

日本で最初に編まれた謡いの解説本です。

 

14 x 20 x 1.5 ㎝、慶長年間、113丁。

本来は、表に謡いの題目が書かれているのですが、表紙は失われています。

また、全部で10巻の大著のうち、私の持っているのは3巻目だけです。

 

 

表紙は、どなたかが反故を利用して、自分で補った物です。

 

この『謡抄』(守清本)は、私たちが普通に目にする江戸の版本と趣が異なっています。それは、この本が、古活字によって印刷されているからです。

古活字本とは、木版の活字(木活字)を組み合わせて印刷した本で、小数部出版されました。日本では、文祿年間から寛永年間(16世紀末~17世紀半)頃にかけて出版されましたが、本の需要が高まるにつれ、版木による出版に変わりました。

 

最初に、『老松』の辞解が16頁にわたって記されています。

以下、『朝長』、『楊貴妃』、『紅葉狩』、『姥棄』、『通小町』、『三井寺』、『西行桜』、『矢卓鴨』の順に、字句の解説がずっとなされています。

 

      『朝長』

 

        『楊貴妃』

 

       『紅葉狩』

 

        『姥棄』

 

        『通小町』

 

 

  •        『三井寺』

 

        『西行桜』

 

        『矢卓鴨』

この謡いは廃曲となり、現行曲にはありません。

 

『謡抄』では、全部で102曲の謡いをとりあげ、各曲の字句について、典拠、名所・旧跡、和歌、難解字句などの説明をしています。

「謡抄」は慶長年間に出版されたと言われていますが、いくつかのバージョンがあるようです。

現在、デジタルコレクションとして、京大(古活字)、国立国会図書館(古活字)、法政大学能楽研究所(木版)の所蔵品が閲覧可能です。

『老松』(2頁分)を例に、古活字本である京大、国立図書館所蔵の『謡抄』と故玩館の所蔵本とを較べてみます。

まず、故玩館の品。

 

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

 

国立国会図書館デジタルコレクション

 

3つともよく似ていますが、少しずつ異なっています。

特に、故玩館の品では、フリガナが多くふられています。他の2つより、少し時代が下がるかもしれません。

 

『謡抄』の画期的な点は、日本初の謡い解釈書であることにとどまりません。

それまでの謡いは、あいうえおの発音がつらなった音曲でした。一部伝書は残されていたものの、基本的に、謡いは、耳でとらえた音曲を手本として習い、伝えていくものだったのです。

ところが、それを漢字や仮名で表し、さらに解釈を加えたことにより、謡いや能は、新しい文化的価値をもつことになったのです。また、解釈書『謡抄』の成立は、テキストとしての謡本の出版を促した結果、江戸時代には、多くの人々が謡いや能を楽しめるようになりました。

 

豊臣秀次像(Wikipediaより)

 

桃山時代に、このような画期的な書物を発案し、編纂を指示したのは、豊臣秀次です。

文武両道に秀で、能や和歌を嗜む文化人でもあった秀次は、文禄4(1595)年3月、当時最高の文化人や各宗派の僧侶たちを集め、謡いの注釈書をつくるように命じました。その中には、連歌師里村紹巴や公家の山科言経も含まれていました。ところが、そのわずか4か月後、秀次は豊臣秀吉から謀反の嫌疑をかけられ、切腹して果てます。秀次の死によって作業は中断しましたが、5年程後、慶長年間に『謡抄』は完成しました。

秀吉による秀次切腹事件は謎だらけです。一般には、秀吉に後継ぎ・秀頼が誕生して、秀次が邪魔になったために抹殺したと言われています。しかし、それだけで、秀次のみならず、一族郎党39人を皆殺にした狂気の沙汰を説明するのは難しい。

私は、秀吉の甥・秀次に対するコンプレックスが根底にあると考えています。

まっとうな人間にとって、コンプレックスは自分を高めるための原動力なのですが、その逆の人間の場合には、自分をガードし、金や権力を得るために、コンプレックスを外に転化させ、妬みや怒りをかきたて、さらには憎悪を相手にぶつけることになります。

先のブログで、クズ総理の異様な行動は学術コンプレックスにある、と書きました。

ごく最近、彼は、著書の中で今の自分に都合の悪い部分を削除して、改訂版を出版したと報じられています。以前の書の中では、「政府があらゆる記録を克明に残すのは当然で、議事録は最も基本的な資料です」などと公文書管理の重要性を説いていたのです。いっぱしの言い回しですが、公文書隠蔽、改竄、廃棄の張本人とって、今となっては隠しておきたい不都合な記述です。タイトルが、『政治家の覚悟』とはブラックジョーク」でょうか、それとも『政治屋の最期』の誤植?(^^;   ゴーストライターが書いたものでも、一応自著です。削除せずに堂々と再版するか、マズイと思うのなら絶版にすべきです。上に立つ立場の者がそれくらいの矜持をもたなくてどうする・・・・さもしい人生を生きてきたであろう人間のクズに対しては、無用のお話しでした(^^;

 

話しを、秀吉と秀次に戻しましょう。

秀次には、暴虐非道の人間という逸話が多くあります。しかしこれは後に作り上げられた話にすぎません。実際は、古典籍を集め、能、茶道や連歌を嗜む温和な人であったようです。

一方の秀吉は、その逆。

「自分と同じ下賤の出でありながら、あいつは一流の文化人とまじわっている。おまけに、能も自分よりはるかに上だ」

甥の秀次に対するコンプレックスが、いつしか憎悪にまでなっていたのです。

なお、秀吉は、「明智討」「柴田」「北條」など、自分が戦って討ち取った相手を題材にした能(豊行能)を作らせ、実際に舞ったと言われています。秀吉にとって、能は、自分のコンプレックスを昇華させる手段となっていたのです。晩年、異常なほど能にうちこんだ秀吉ですが、彼の歪んだ心の闇は底の知れない深さでした。

文禄2年、秀吉が催した前代未聞の禁裏能では、秀吉自身が数多くの能を演じると同時に、徳川家康、秀忠、前田利家、毛利輝元、織田信雄、宇喜多秀家、小早川秀秋など名だたる人たちが出演しています。ところが、豊臣秀次は呼ばれませんでした。この頃には、もう、秀吉の秀次に対する憎悪が燃え盛っていたのでしょう。

禁裏能から2年後、秀吉の憎悪を感じとった秀次は、急いで、自分が愛好した能、謡いを新しいステージへ展開しようとしたのではないでしょうか。謡い解釈書の編纂を指示した直後、秀吉により、秀次は蟄居から切腹へと追い込まれ、この能プロジェクト一時中断されました。しかし、心ある人々により編纂は続けられ、秀吉の死から数年後、『謡抄』が世に出たのです。

謡いの解釈を初めて集大成した『謡抄』は、江戸時代、武士から町民まで、幅広く謡い(能)が親しむための礎を築いたのです。さらに、明治になってからは謡曲の研究がすすみ、多くの解説本が出版されました。また、謡本そのものにも、字句の解説が載るようになり、現在にいたっています。

秀次が死の直前に撒いた種は、今の私たちの時代にも、花を咲かせ続けているのです。

 

 

 

 


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6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
遅生さんへ (Dr.K)
2020-11-01 09:08:14
秀次には、そんな一面があったんですか。
普通の歴史小説では殆んど触れられていませんので、分かりませんでした。

版木による印刷本の前に、木版の活字(木活字)を組み合わせて印刷した古活字本というものがあるんですか。
そのようなものが存在することさえ知りませんでした。
故玩館には、慶長年間発行の、その古活字本があるんですね! それ自体、凄いことですね!!
京大、国立国会図書館級ですものね!!!
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Unknown (jikan314)
2020-11-01 09:14:05
古活字本を初めて見ました。素晴らしいです。これなら読みやすい?ですね。小生の蔵書にも、もしかしたら古活字本が有るかも知れませんが、そこまでの知識はなかったです。
秀次が、残そうとした本。南蛮文化など新たな桃山文化が花開く中で、古い日本の文化が継承されて行かない事を歎いていたかも知れませんね。
古筆鑑定家の古筆極の琴山印、古い桂本万葉集本も秀次からとの事で、古い物を残そうと言う意欲が強かったからか?と貴blogを拝見して思いました。
又貴重なコレクションとその解説を楽しみにしております。
拙句
紅葉狩り鬼にも見せむ此の山を
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Dr.Kさんへ (遅生)
2020-11-01 10:50:40
こういう地味な人は、ドラマの登場人物には不向きですね。ただ、歴史の片隅でポツンと光るものには惹かれます。

古活字なんて、私もしりませんでした。なんとなく締まりのない木版だなーくらいの事でした(^^; 江戸初期には、300くらいの本が古活字で出されたそうです。そのうち、どれくらいが残っているのでしょうか。
宣教師や朝鮮の影響だそうですが、金属活字でないので、木版の方がずっと効率がよかったのでしょうね(^.^)
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jikan314さんへ (遅生)
2020-11-01 11:03:57
木活字は大きいですね。
カナはそれほどでもないですが、漢字は1㎝あります。金属でないので、画数の多い活字はある程度の大きさでないと彫るのが無理なのでしょうね。それから、耐久性も。その点、木版の方が優れていたのだと思います。

古い物をあつめ、残すことに意味があるのなら、うれしい限りです(^.^)
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秀次 (kunorikunori)
2020-11-01 11:08:13
遅生様

秀次のお話、ありがとうございました。
「秀次が死の直前に撒いた種は、今の私たちの時代にも、花を咲かせ続けているのです。」にジーンときています。
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kunorikunoriさんへ (遅生)
2020-11-01 15:24:27
コメント、ありがとうございます。

歴史は勝者によって書き変えられますから、真実を知るのは難しいですね。
私は、少数派や敗者の方を見ていきたいと思っています。
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