能の絵です。
屏風から錦絵まで、故玩館にある能関係の絵画、100点ほどのうちで、最もレアなものの一つです。
しかし、どの能解説書を開いても、この人物は見あたりません。
プロの能楽師の方々に聞いても、おそらくわからないでしょう。
手がかりは、表具にありました。
デザインの一環として、表具に、謡本を貼り付けてあるのです。
題目(演目)は、『忠霊』。
共箱です。作者は、能画家、瀧川洗風(明治30-平成元年)。
箱書きの年月日、昭和17年11月3日は、当時の4大節の一つ、明治節(明治天皇の誕生日)にあたります。
この日付けの能画『忠霊』は、当然、特別の意味をもっています。
『忠霊』は、戦時中に新しく作られた能、新作能なのです。昭和16年、皇紀2600年を記念して、大日本忠霊顕彰会が観世流に依頼して作られらたものです。
【あらすじ】
国士何某(ワキ・ワキツレ)が、日本の繁栄を述べ、靖国神社の忠霊塔を礼拝する。そこへ、親子らしき老人(前シテ)と男(ツレ)が登場し、国のために命をささげた忠霊の徳を讃えて勤労奉仕する。ワキは、その二人に声をかけ、親子は子々孫々に国を護る意義を述べる。ワキは、それは頼もしい心持ちであるが、殉死した霊の心はどのような物であろうかと問うと、「最期を飾る光栄は。何に喩へんものもなし」「無上の栄に浴したり。今は皆令満足ただ、有難き極みなり」と説く。ワキは感心し、さらに夜も会話を続けようとするが、二人は忠霊塔の辺りに消えてしまう。(中入り)アイの末社の神が登場、靖国の来歴の功を讃える。夜更けから夜明けの時間経過がワキによって謡われ、突然光が射しワキは神の気配を感じる。忠霊(後シテ)が現れ、皇統を賛美し、戦で命を落としたが、護国の神となったことを述べる。戦闘の激しさが謡われシテは荒ぶるが「皇軍勝利の為ならば、命捨つるはいと易し」と晴れやかに謡い、装束を一部替えて舞を舞い、国の繁栄を讃えて納める。 (東谷櫻子「新作能「忠霊」をめぐる考察『花もよ』第38号、2018.07.01より)この絵画は、能の後半、シテ忠霊が現れ、国のために戦い、命を落としたことを語り、国を治める御代を讃える場面を描いています。
報国思想をたたえ、戦意高揚をはかる新作能は、その後、『皇軍艦(みいくさぶね)』、『撃ちてし止まむ』、『玉砕』(いずれも、昭和18年)などが作られました。
これら戦時下の新作能のうちでも、『忠霊』は、完成度が高く、全国各地で上演されたといわれています。好評を得ましたが、やはり、戦時の報国を謳い上げた国策能でした。
戦後は、上演されたことはありません。能関係者の間でも、次第に忘れられつつあります。
なお、能『忠霊』の一部は、当時のニュース番組の中で見ることができます。
番組に登場するシテ忠霊は、この掛け軸に描かれた通りの姿です。なお、番組には、戦時中の金属回収の様子も出てきます。
このように、能楽が、滅私報国、国威発揚に寄与したのは、元々、旧態然とした能が持っている特性のためだったのでしょうか?
現在も演じられる能の名作のひとつに、『蝉丸』があります。
能・蝉丸【あらすじ】 世阿弥作
時の帝、醍醐天皇の第4皇子、蝉丸は、琵琶の名手であったが、幼少より目が不自由で、父帝により、逢坂山の山中に捨てられてしまう。髪を剃られ、出家の身となって、蓑と傘を身に着け、粗末な藁屋の中で、琵琶を弾き、通りすがりの人々の施しによって生きている。一方、天皇の第3子、姉である逆髪は、生まれつき髪の毛が逆立つ病気をもち、それを苦にして狂乱となり、各地を放浪していた。ある日、藁屋から琵琶の音が聞こえ、音の主が蝉丸だと気が付く。二人は、手を取り合って再会を喜び、互いの境遇に涙する。しかし、逆髪に長居はできず、いずこかへ立ち去ってゆく。蝉丸は、見えぬ目で姉を見送るのだった。
皇族でありながらも、障害をもったばかりに、残酷な運命に苛まれる二人。天才世阿弥の能は、悲劇を通して人間存在の本質にまで迫っています。
ネットに巣食う疑似右翼や明治政府が富国強兵のために作り上げた薄っぺらな皇国史観を振り回す自称文化人たち。彼らには、卒倒しそうな能です。
当然、戦時の異様な体制の中では問題とされ、早くも、昭和9年には、上演自粛に追い込まれています。
他にもうひとつ。
これも、現在、上演されることの多い能、『大原御幸』です。
大原御幸【あらすじ】 伝世阿弥作
平家滅亡の時、壇之浦で我が子、安徳天皇とともに入水した徳子は、源氏に助けられた後、出家して建礼門院と名をあらため、京都大原、寂光院で平家一門を弔う日々を送っていた。そんな中、夫、高倉天皇の父、後白河法皇が訪ねてきた。女院は、生死の境で見た六道や平家一門の最後の様子を、涙ながらに物語る。やがて、法皇は還幸され、女院は、柱の陰から、いうまでもその後を見送るのだった。
能『大原御幸』は、昭和14年には、皇族が登場するというだけで不敬とみなされ、上演できなくなりました。
このように、能は、戦時体制に協力し、国体の護持、国威発揚に寄与した一方で、能の奔放な芸術性が、時の権力から疎まれ、抑圧されるという二面性をもっていたのです。
室町時代、将軍足利義満の庇護のもとで、、世阿弥は、当時の最高の古典籍や文物に接することができました。それをもとに、彼は、世界最古の総合演劇、能を完成させたのです。世阿弥の偉大さは、能の作成にあたっては、権力者とはほぼ無関係に、純粋な芸能として、能を書きあげたことです。足利幕府を礼賛したりすることなく、古典や伝承からヒントを得て、芸術性の高い、多数の名作を作りだしました。中でも、世阿弥の傑作は、『砧』 『蝉丸』『恋重荷』『藤戸』『姥捨』など、悲劇性の強い能にあると思います。
権力者と芸術家・世阿弥との関係は、時代とともに危うくなりました。義満の死後は弾圧を受け、72歳で佐渡に流されてしまいます。
このように、創成期から、能は権力者との微妙な関係の上に成り立ってきました。その後の戦国時代、安土桃山時代、そして、江戸時代まで、その事は変わりませんでした。ただ、創造のエネルギーは次第に衰え、過去に完成された芸を護り、伝えることが主になってしまったのです。
戦争は、強大な権力が支配する時代です。『忠霊』はそのようななかで、あらたにつくられた能です。国策能としてはかなり出来が良く、能の体裁を十分に整えています。しかし、能の名作には必ず備わっている、しみじみとした情感、そこからもたらされる幽玄の世界を感じとることはできません。それは、作者が自由な精神世界をもてなかったからです。言い換えれば、どのような状況下でも、内面の芸術至上主義を貫くだけの覚悟と能力がなかったといえます。
芸術は、権力とは無関係なところでしか創造されないのです。逆に、権力側は、それを配下に置き、利用しようとします。近年では、ヒットラーやスターリンが、芸術や芸能をたくみに利用したことで知られています。日本の戦時下も。
最近では、愛知トリエンナーレの少女像をめぐる一連の出来事。為政者が本性をあらわして芸術に介入してくる時、必ず、それに乗って先兵を務める者たちが出てくる・・・・・・・・・歴史の教訓からすれば、戦争はすぐそこまで。