今年も、8月15日が来ます。日本が焦土と化し、悲惨な戦争が終わった日です。
第二次世界大戦ほど、日本を大きく変えた出来事はないと思います。有史以来、はじめて、外国によって、国が焦土となったのです。しかし、その戦争に対して、その政治的責任と思想的責任が十分に検討されたとは言えないまま、かつての敵国のやり方にすべて追従し、アメリカナイズされたのが今の日本です。そして、もはや戦後ではない、との甘言をまき散らしながら、夢(利益)よもう一度と、きな臭い道を歩ませようとの動きがあからさまになってきています。
どんな戦争でも、利益を得るのは為政者と一部の取巻きたち、散々な目に合うのは一般庶民です。
ブログでは、第二次世界大戦の戦争前、戦争中の息詰まる世相のなかで、人々がどのように暮らしていたかを、いくつかのモノを紹介しながら、戦争と一般庶民との関係を見ていきたいと思います。
今回は、次の慰問袋、2個です。
大、29x19㎝。小、28x18.5㎝
慰問袋は、戦場の兵士を見舞うための袋です。
日用品や娯楽用品、雑誌、御守り、手紙などを入れて送りました。
日露開戦直後の1904年(明治37)に始まり、満州事変以降、日中戦争では大量の慰問袋が送られました。最初は、木綿の手ぬぐいを二つ折りにして縫った、手作りの袋でした。その後商品化され、できあいの慰問袋が売られるようになりました。さらに戦争が拡大し、物資が欠乏すると、慰問袋も下火になりました。
サル蟹合戦の猿に扮したルーズベルトを、臼が退治しています。
右下には、「宇知弖斯夜麻牟」(ウチテシヤマム)の文字が。
このスローガン、「敵を撃ち砕くぞ」が登場したのは、昭和18年の陸軍記念日です。以来、商品の広告をはじめ、日常のあらゆるところに、このスローガンが登場したのです。
しかし、昭和18年といえば、戦局がかなり怪しくなって来たころです。
戦局が危うくなる中でのスローガン、「うちてしやまむ」は、裏を返せば、「うたずばやまじ」、つまり、殲滅しなければ止まないという意味となります。まともな戦略も打ちだせず、盲目的に精神の昂揚だけをはかるこのスローガンは、すでに、その後の破滅への道を表していたのです。
「宇知弖斯夜麻牟」の出典は、古事記(中巻 神武天皇 四)です。久米歌としてしられています。
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美
久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟
みつみつし 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植えし椒(はじかみ) 口ひひく 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ
勇ましい久米の兵たちが、垣に植えた山椒の実は、口がヒリヒリするほど辛い。敵から受けた痛みを我々はわすれない。敵を撃ち砕くぞ。
日本書紀などにも、類似の歌が出てきます。
もう一つの袋には、王(サル?)とカッパ、桜の花びらが書かれています。
意味は不明です。