goo blog サービス終了のお知らせ 

遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

珍品!五榜の掲示第ニ、第三札、合せ高札

2023年05月08日 | 高札

先のブログで、五榜の掲示第三札『切支丹禁制』を紹介しました。このキリシタン禁止札は、すぐに条文が変更されました。そして、先回のブログで、この変更は、新政府の公文書改竄ともいえるものであることを述べました。

先に紹介した五榜の掲示第三札『切支丹禁制』も、変更された条文の高札です。

そして、現在、各地に残されている五榜の掲示第三札『切支丹禁制』は、そのほとんどがこの高札と同じ、変更後の物です。

では、オリジナルの第三札『切支丹禁制』高札は存在しないのでしょうか。その謎を解く鍵が、今回の品です。

37㎝x79㎝、厚 3.0㎝。重 4.8㎏。慶応四年三月。(故玩館、高札No.10)

非常に大きく、重い高札です。四角形で、屋根、吊り金具、裏木はありません。

(第2札)
     

 何事によら寿よ路しからざる
 事に大勢申合候をととう登と
 なへととうして志いて祢がひ事
 く王だ法る越古うそといひあるひハ
 申合せ居町居村を立のき候をてう
 さんと申す堅く御法度たり若
 右類之儀これあらバ早々其筋の
 役所江申出遍し御ほうび下
 さる遍く事

  慶応四辰年三月  太政官   

(第3札)
     定 

 き里したん邪宗門之儀者堅
 御制禁たり若不審なるもの
 有之バ其筋之役所江申出べし
 御ほうび下さるべく事

  慶応辰四年三月 太政官

 (裏面)   弓懸村
                 (現、岐阜県下呂市弓懸)


 (意訳)    

    定
  何事によらず、良くない事を企み
  大勢が申し合わせることを徒党と言い、
  徒党して、強引に願い事を企てることを
  強訴という。また、示し合わせて
  居町居村を脱走することを逃散といい、
  これらはいずれも厳禁である。
  右の類のことがあれ、すぐさま
  関係する役所に通報せよ。
 ご褒美を下さるだろう。
  慶応四辰年三月 太政官


      定

  キリスト邪教は堅く禁止されている。  もし、怪しい者を見つけたら、その筋 の役所に届け出よ。
  ご褒美を下さるであろう。
   慶応四年三月 太政官

 

今回の高札は、非常に珍しい物です。その理由は二つ。

1.この高札は、五榜の掲示の第2札と第3札が合体した物です。第2,第3札を一枚の板に書き記していますが、五傍の掲示とは、五枚の制札のことですから、この高札は、本来の趣旨に反しています。 

2.以前のブログに書いたように、新政府は、公布からわずか50日ほどで、「切支丹邪宗門禁制」を「切支丹禁制」と「邪宗門禁制」とに分け、さらに密告報償についても削除して、諸外国からの批判をかわそうとしました。現存するほとんどの第三高札は、この慶応4年閏4月4日に改訂された条文の切支丹禁止札です。ところが、今回の品は、慶応4年3月15日に出された五榜の掲示のままです。

どうして今我々が目にするのは、慶応四年閏三月付けの五榜の掲示第三札「切支丹禁止高札」ではなく、慶応四年閏四月に改訂された条文の高札がほとんどなのでしょうか。

その大きな理由は、五榜の掲示の布告が、各地にすぐには伝わらず、高札板が作成される前に、改訂の布告が届いたからだと考えられます。もし、すぐに五枚の高札が作られて掲示され、さらにその後、「切支丹禁制札」だけ改訂された文面の物に替えられたとすれば、最初の「切支丹禁制札」は用済みとなり、巷に散って、我々が目にする機会が多くなったはずです。

新政府の通達がすぐに各地に伝わらなかったのは、情報伝達の方法と当時の戦況にあります。江戸幕府に代わって権力を掌握しつつあった新政府にとって、政府方針の伝達は非常に重要でした。しかし、まだ支配体制が十分に確立していない段階では、かなりの混乱があったはずです。そこで、新政府は、慶応四年四月一七日、太政官布告類を諸藩に伝達するのを任務とした藩を触頭(ふれがしら)として当番制で任命したのです。五榜の掲示が出されてから1か月後のことでした。しかし、まだ戊辰戦争の真っただ中、中部地方以東は、様子見や敵対する藩が多く、五榜の掲示の布告が伝わるような状況になかったといえます。

結局、五榜の掲示の五枚の高札は、日本各地でバラバラとさみだれ式に掲げられていったのです。たとえば、故玩館所蔵の五榜の掲示第四札『万国公報遵守』の第二発給者は岐阜県です(次回のブログで)。五榜の掲示発布から4年以上経った、明治4年7月の廃藩置県以降に作られた第四高札なのです。

しかし、今回の高札は、改訂版でない当初の「切支丹禁制」です。裏書のある「弓懸村」は、飛騨国の山間の村です。ここにいち早く慶応四年三月の五榜の掲示が届き、第三高札が作られたとは考え難いです。私は、改訂されていない当初の切支丹札を、他に、新潟県の小さな資料館で見たことがあります。当時の状況からすると、新潟でいち早く、五榜の掲示高札が作られたとはやはり考え難いです。

都から離れた地で、なぜ新政府が最初に発表した民衆政策、五榜の掲示が、オリジナルの形で「切支丹禁制」高札として残っているのか、大きな謎です。


改竄?!『太政官日誌第六』

2023年05月06日 | 高札

幕末、明治の高札に戻ります。

先のブログで、新政府が発表した五榜の掲示5枚のうち、第3札『キリシタン禁制』の条文が、慶応四年三月十五日付けの当初のもの(『太政官日誌第六』)から、わずか50日ほど後、慶応四年閏四月四日に、変更されたことを書きました。

現在の官報に相当する『太政官日誌』は、その後も発行されています。私の所には、第六しかないので、国会図書館の資料を調べていました。そのうちに、奇妙な事に気が付きました。

『太政官日誌第六』(国会図書館デジタルコレクション)

 

それに対して、故玩館所蔵の『太政官日誌第六』を、再掲します。

 

両者を較べると、同じ『太政官日誌第六』ですが、大きな違いがあります。第三札「キリシタン禁制」の項目です。

上:故玩館の『太政官日誌第六』、下:『国会図書館デジタル』の『太政官日誌第六』

国会図書館蔵の『太政官日誌第六』では、第三札の条文が、慶応四年閏四月に出された太政官布告のものになっています。しかし、これはおかしな事です。慶応四年閏四月に変更された第三札が、五榜の掲示が出された慶応四年三月にすでに存在したことになってしまいます。当初の第三札「キリシタン禁制」は、国会図書館デジタルコレクション『太政官日誌』のどこを探してもありません。この『太政官日誌』を見る限り、慶応四年三月十五日に出された五榜の掲示の第三札は、初めからキリシタンと邪教を分けて禁止とし、さらに密告の奨励を含まないもの(慶応四年閏四月布告)であるのです。本来なら、『太政官日誌第六』にはオリジナルの五榜の掲示を記し、閏四月以降の号で修正した五榜の掲示を再び載せるのが日誌です。そうでなければ、最初の第三札は抹消され、『太政官日誌第六』は改竄されたのと同じことになります。つまり、新政府は歴史の書き変えを行ったことになります。

我々の記憶の新しいところでは、あの安屁¨元総理が奴隷官僚を使って、公文書の改竄をさせていましたね。クズ政治家のルーツは、薩長を中心の新政府にあるのかもしれません。

それにしても、同じ『太政官日誌』なのになぜ?

調べてみると、『太政官日誌』には、京都版3種、江戸版2種、長藩版1種、計6種の異本が存在することがわかりました。このうち、京都版の3種は、版組のわずかな違いだけで、実質的には1種と考えられます。最後の頁には、「官版 不許翻刻 御用御書物所 東洞院三條上ル町 堀川二條下ル 井上治兵衛」と書かれています。この京都版が『太政官日誌』の初版本です(山口順子「『太政官日誌』の発刊」出版研究、42号、1-21(2011))。

故玩館蔵の『太政官日誌第六』の刊記も全く同じ(上写真)で、当初の『太政官日誌』であることがわかります。

粗末な紙に木活字で刷られ、紙縒りで綴じられたこの小冊子は、歴史の証人なのですね。

 


五榜の掲示第三札『切支丹邪宗門の禁止』

2023年04月22日 | 高札

今回は、五榜の掲示第三札『切支丹邪宗門の禁止』です。

 

41㎝x57㎝、厚 2.8㎝。重 3.7㎏。慶応四年三月。故玩館、高札N0.9。

駒形屋根付きで、裏木補強がなされています。吊り金具はありません。分厚い板で頑丈に作られています。墨書きは非常に鮮明に残っています。裏書にある古市場村は、現在、岐阜大学がある辺りです。


     
一切支丹宗門之儀者
 是迄御制禁之通
 固く可相守事
一邪宗門之儀者固く
 禁止候事
慶応四年三月 太政官

  (裏面)    山縣郡古市場村

この高札文の意訳です。

    定
一キリスト教は
 ずっと禁制であり、
  今後もこれまで通り堅く守るべきである。
一邪教は堅く
  禁止である。
    慶応四年三月 太政官
  
(裏面) 山縣郡
       古市場村(現、岐阜市古市場)

この高札は、正徳元年五月の切支丹札に相当します。
正徳大高札『切支丹札』は次の通りです。
き里志たん宗門ハ累年御禁制
たり、自然不審成ものこれあらハ、申
出へし、御不うひとして 
  はて連んの訴人    銀五百枚
  い累まんの訴人    銀三百枚
  立かへ里者の訴人    同 断
  同宿并宗門の訴人   銀百枚
右の通下さるへし、たとひ同宿
宗門の内たりといふとも、申出る
品により銀五百枚下さるへし、かく
し置他所よりあらはるゝにおゐては
其所の名主并五人組迄一類ともに
可被行罪科候也
    正徳元年五月日
                          奉行


新政府になっても、キリシタン政策は変わらなかったのですが、今回の高札を見る限り、表現はずっと簡素であり、密告の推奨や報賞金の記述はありません。また、匿った場合の罰則なども書かれていません。
         
ところで、『太政官日誌第六』に載った五榜の掲示第三札『切支丹邪宗門の禁止』の文面と今回の高札とを照合してみます。
『太政官日誌第六』での第三札は、次の様でした。

   
きりしたん邪宗門之儀ハ、固く御制禁たり、若不審なるもの有之は、其筋の役所江申出べし、御ほふび下さるべく事
  慶応四年三月 太政官

同じ五榜の掲示第三札なのに、『太政官日誌第六』と今回の品は、大きく異なっています。
相違点は二つ。
(1)『太政官日誌第六』では、「きりしたん邪宗門」が禁止なのに対して、今回の高札では、触書が2ケ条から成っていて、キリスト教はこれまで通り禁止、邪宗門も禁止と述べて、キリスト教と邪宗門を分けています。
(2)『太政官日誌第六』では、「不審者をみつけたら役所へ申し出よ、報奨金を与える」との文面が、今回の高札では削除されています。

 実は、慶応四年三月に五榜の掲示が出されましたが、その中で第三札『切支丹邪宗門の禁止』に対して、海外の諸国から強い反発の声があがったのです。
そこで、新政府は、慶応四年四月四日、第三札の改訂を布告しました。最初に発布された第三札切支丹禁止に対して、50日もたたないうちに、改訂の布告が出されたのです。
  
太政官布告 第二百七十九号 『切支丹宗門及ヒ邪宗門禁止ノ制札ヲ改ム』
 「一切支丹宗門之儀ハ是迄御制禁之通固ク可相守事
  一邪宗門之儀ハ固ク禁止候事」
      
これは、今回の高札と全く同じ文面です。但し、布告では、かなはすべてカタカナになっています。後に明治政府が学校や政令での文章に、ひらがなではなくカタカナを推奨するようになりますが、その兆しがうかがえます。

このように、今回の高札は、改訂された文面の第三札だったのです。布告では、第三高札『切支丹禁止』の変更理由を、次のように記しています。
  「先般御布令有之候切支丹宗門ハ年来固ク御制禁ニ有之候處其外邪宗門之儀モ總テ固ク被禁候ニ付テハ混淆イタシ心得違有之候テハ不宜候ニ付此度別紙之通被相改候條早々制札調替可有掲示候事」
 「キリスト教はこれまで禁制であったが、同時に邪宗も禁止であったので、両者が混同され間違いが起こるといけないので文面を訂正する」というのです。何か、今の国会で政治家や官僚の答弁を聞いているような錯覚に陥りますね(^^;)
そこで、「切支丹邪宗門」を「切支丹」と「邪宗門」の二つに分けて、それぞれが禁止だとの表現に変更した訳です。「切支丹」=「邪宗門」ではないと言いたかったのでしょう。しかし、これで諸外国からの非難がおさまるはずはありませんでした。
このように、開国の一方でキリスト教を禁止するという新政府の矛盾は、やがて高札制度を崩壊へと導くことになります。


五榜の掲示第ニ札『徒党強訴逃散の禁止』

2023年04月20日 | 高札

今回は、五傍の掲示第二札『徒党強訴逃散禁止』です。

41㎝x57㎝、厚3.0㎝。重 3.2㎏。慶応4年3月。
                   (故玩館、高札No.8)

非常にぶ厚い板を用いて頑丈に作られています。屋根付き駒形で裏木補強がなされています。吊り金具はありません。高札板の風化はわずかで、墨書は鮮明に残っています。この高札には裏書があり、美濃國大野郡政田村に掲げられた物であることがわかります。この場所は、故玩館からすぐ北の農村地帯です。江戸時代、献上品であったまくわウリの産地で、民間の人形浄瑠璃、真桑文楽が伝承されてきた地でもあります。

 

      定
何事によら須よ路しからさる事に
大勢申合候をととう登となへ
ととうして志いて祢可ひ事く王たつるを
古うそといひ、あるいハ申合セ、居町
居村をたちのき候をてうさんと
申須、かたく御法度たり、若
右類の儀是阿らハ早々其筋之
役所江申出遍し、御ほふひ
下さ縲遍く事
 慶応四年三月 太政官

(裏面)大野郡政田村


『太政官日誌第六』に載っている文面と較べてみます。
    
何事によらす、よろしからざる事に、大勢申合候を、ととうととなへ、ととうして、志いてねがひ事くわだつるを、ごうそといひ、あるひハ申合せ、居町居村をたちのき候を、てうさんと申す、堅く御法度たり、若右類之儀これあらば、早々其筋の役所へ申出べし、御ほふひ下さるべく事
   慶応四年三月 太政官

文面は同じですが、高札の方が、変体仮名を多く使っています。

今回の高札を意訳すれば次のようになります。
      定

何事によらず、良くない事を企み
大勢が申し合わせることを徒党といい、
徒党して、強引に願い事を企てることを
強訴という。また、示し合わせて
居町居村を脱走することを逃散といい、
これらはいずれも厳禁である。
右の類のことがあれば、すぐさま
その筋の役所に通報せよ。ご褒美を下さるだろう。
 慶応四年三月 太政官

(裏面)大野郡政田村
        (現、本巣市政田)

さて、この五榜の掲示第ニ札は、明和7年4月の徒党強訴逃散禁止札とよく似ています。
     
何事によらすよろしからさる事に
百姓大勢申合候をととうととなヘ 
ととうしてしゐてねかひ事くはだたつるを
こうそといひ あるいは申あはせ
村方たちのき候をてうさんと申
前々より御法度に候條 右儀これあらば
居むら他村にかぎらず 早々其すじの
役所へ申出べし 御ほうびとして

 ととうの訴人   銀百枚
 こうその訴人   同 断
 てうさんの訴人  同 断

右之通下され その品により帯刀苗字も
御免あるべき間 たとひ一旦同類に成るとも
発言いたし候もの 名まへ申出におゐては
その科をゆるされ、御ほうび下さるへし

一 右類訴人いたすものもなく村々騒立候節
  村内のものを差押へ ととうにくはゝらせす
  壱人もさしいださゝる村方これあれば 
  村役人にても百姓にても重にとりしずめ候ものは
  御ほうひ銀下され 帯刀苗字御免、さしつゞき
  しづめ候ものどもこれあらばそれぞれ御ほうび
  下しおかるべき者也

  明和七年四月
            奉行

右之通 御料者御代官 私領者領主地頭より村々へ相触
高札相建之有村方は高札に認相立可申候右通可被相触候

 徒党、強訴、逃散の禁止を強くうたっているところは、両者同じです。また、密告の奨励と報奨金という飴と鞭の密告制度も同じです。五榜の掲示第ニ札が、明和七年の高札を手本にしていることは確かでしょう。但し、五榜の掲示第ニ札では、報奨金の金額について具体的記述はありません。当時、新政府は極度の財政難にあり、新紙幣(太政官札)の発行と流通の見通しも不明確だったためでしょう。

今回の高札と『太政官日誌第六』とをくらべてみると、文面は全く同じですが、今回の品の方が、多くの変体仮名が使われています。明治政府が、一音一文字のかな制度を正式に導入したのは、明治33(1900)年の小学校令からです。高札に墨書きした人は、それまで使い慣れていた変体仮名を多用したものと思われます。また、同じ五榜の掲示の高札でも、それぞれの場所によって、変体仮名の使い方に違いがあります。このことは、第一札から第五札まで、すべてについて言えます。当時、高札文面の字体については、細かな指示はなされず、各地の役所に任されていたと思われます。
このように見てくると、『太政官日誌第六』に記載されている高札は、その内容はともかく、書体からは、近代の日本語の方向を先取りしていたといえます。ところが、このことが当てはまるのは、第一、第二、第三の定め札だけで、第四、第五の覚え札は、変体仮名が多用されているだけではなく、高札の文体そのものが江戸時代とほぼ同じです。これは、第四札、第五札が、天皇の意向を伝えるものであったためだとおもわれます。


五榜の掲示第一札『五輪道徳の尊守』

2023年04月18日 | 高札

先回のブログで、新政府の政策の骨子を載せた『太政官日誌第六』を紹介しました。五榜の掲示に示された5枚の高札を紹介するにあたって、まず、太政官日誌の中で、五榜の掲示の前文を見てみます。

【諸国高札の事】
諸国之高札、是迄之分、一切取除ケいたし、別紙之条々改而掲示披 仰付候、自然風雨之ため、字章等塗滅候節は、速に調替可申事
但、定三札ハ、永年掲示被 仰付候、覚札之儀ハ時々之御布令ニ付、追而取除ケ之 御沙汰可有之、尚御布令之儀有之候節ハ覚札を以、掲示可被 仰付候ニ付、速ニ相掲ケ、偏境ニ至るまで 朝廷御沙汰筋之儀、拝承候様可被相心得候事、追而 王政御一新後、掲示ニ相成候分は、定三札之後江当分掲示致置可申事
  三月

諸国の高札、これまでの分、一切取り除けいたし、別条の条々改めて掲示仰せ付けられ候。自然風雨のため、字章等塗滅候節は、速やかに調べ替え申すべきこと。
但し、定三札は、永年掲示仰せ付けられ候。覚札の儀は、時々の御布令につき、速やかに相掲げ、偏(辺)境に至るまで、朝廷御沙汰筋の儀、拝承候様相心得らるべき候事、追って、王政御一新後、掲示に相成り候分は、定三札の後へ当分掲示致し置き申すべき事。
    三月

これまでの高札は全部取り除いて、新しい高札を掲げよとの指示です。徳川の高札場は、そのまま利用する訳です。さらに、高札が劣化したら、直ちに取り替えるべきだと述べています。新政府は、高札制度を重視していたことがわかります。
第一~第三までの高札は定め札で永久に掲げよ、とまず述べ、さらに、第五、六は覚え札で、天皇の指示、命令であるから速やかに掲げよ、と指示しています。さらに追加があれば、定三札の後に掲げよと述べています。
このように、五榜の掲示は、徳川幕府の高札制度を利用して、新政府の方針(江戸時代と類似)を「定」札として人々に周知し、さらに、天皇の指示、命令を「覚」札として加えたものであったのです。

 

前置きが長くなりましたが、五榜の掲示の5枚の高札を順次紹介します。
今回は、第一札『五輪道徳遵守』です。

43㎝ x 60㎝、厚 1.5㎝。重 1.7㎝。慶応4年3月。        (故玩館高札、No.7)

駒形で、屋根と吊り金具がついています。裏木による補強もなされています。木部の風化はわずかです。これまで紹介してきた江戸期の高札とはことなり、墨書が少しかすれてはいますが、そのまま読めます。
                    
   定 
 一人多類もの五倫之道を
  正敷寿偏き事 
 一鰥寡孤独癈疾之ものを
  憫むへき事 
 一人を殺家を焼財を盗む
  等之悪業阿るましく事 

    慶応四年三月     大政官

慶應四年三月発行の『太政官日誌第六号』での第一札の記述と比較してみます(()内は、本文ではルビ)。
  
   
一人たるもの五倫(りん)之道(みち)を正(ただ)しくすべき事
一鰥寡孤独廃疾(くわんくわこどくはいしつ)のものを憫(あわれ)むべき事
一人を殺(ころ)し家(いえ)を焼(や)き財(ざい)を盗(ぬす)む等之悪業(あくぎょう)あるまじく事
 慶応四年三月 太政官

両者、文面は同じですが、『太政官日誌第六号』では実際に掲げられた高札よりもひらがなを多用し、漢字にはルビがふってあります。太政官日誌の段階では、人々になじみやすい表記が考えられていたようです。それが、実際の高札板では、漢字が多く、かなは少ないです。もちろん、漢字にフリガナはうたれていません。

第一札の文面を意訳すると次のようになります。
     定 
 
一、人は、五倫の道を正しくすべきである。
一、身よりのない人や体の不自由な人を憫みなさい。 
一、人を殺し、家を焼き、財産を盗む等の悪業を決して行ってはならない。 

    慶応四年三月     太政官

五倫の道:儒教が説く人の守るべき5つの徳目。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。親、義、別、序、信を五教、五典、五常などとも言う。
鰥寡孤独(かんかこどく):身よりのないひと。
癈疾(はいしつ):身体に障害のあるひと。

五榜の掲示第一高札は、3つの項目から成っています。第1項目の内容は、徳川幕府治世の基本を記した正徳大高札の忠孝札に相当します。
また、「鰥寡孤独癈疾之もの」(身よりのない人や体の不自由な人)は律令制度下で、援護、救済の対象となりました。これにならって、王政復古の新政府は、第2項目を設けたものと思われます。実際、、明治7年、太政官布「恤救規則」で類似の救済制度を制定しました。
第3項目では、火付け、人殺し、窃盗の禁止をうたっています。これは、正徳大高札の火付け札に相当します。
したがって、五榜の掲示第一高札は、徳川幕府、正徳元年の大高札のうち、『忠孝札』と『火付け札』を合わせ、さらに、律令制度化の弱者への配慮を加えた道徳律の高札と言えるでしょう。

なお、発給主体は、太政官ではなく、点の無い大政官となっています。なぜ、「大政官」を使ったかわかりません。一般には、太政官と書かれる事が多いです。両者の違いに関しては諸説あり、定かではありません。