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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

幕末新聞『内外新報』2. 新政府側の動向記事

2023年05月24日 | 高札

幕末期に江戸で創刊された新聞『内外新報』第一號から、いくつか記事を紹介します。まず、この新聞が発刊された最初の記事です。

木版印刷が鮮明でなく、また、資料の破れ、欠損もあるので、他の資料(奈良女子大学学術情報センター)のデジタルデータを参照しながら何とか解読したいと思います。

内外新報第一号號    慶應四辰年四月十日

   〇
昨廿七日大原前侍従殿品川宿御着途中行列調練太
鼓五白地菊御紋海軍先鋒ハ書記省之御旗二流シ笹
龍朦紋付小旗本御馬上御年齢四十歳位烏帽子
麾を腰二差鼡地絵子小袖紺地金襴袴御着用御跡
一 肥前薩州筑後兵士筒袖袴釼付筒相携隊長付
添前後人数二百人程是並隊相立御通行同日申下刻
御本陣江御着


(読み下し)
昨日二十七日、大原前侍従殿品川宿二御着。途中行列、調練太鼓五、白地菊御紋、海軍先鋒ハ書記省ノ御旗二流シ笹、龍朦紋付小旗本、御馬上二ハ御年齢四十歳位、烏帽子麾ヲ腰二差シ、鼡地絵子小袖紺地金襴袴御着用二ナリ、御跡ハ、一、肥前薩州筑後兵士、筒袖袴釼付筒相携シ、隊長付添、前後人数二百人程是並隊相立シ、御通行、同日申下刻御本陣へ御着。

 

一 雑裳北川南城真田刈谷百十両人指揮致、品川宿両三日御宿陣有之、同所御退陣日限江戸表御陣営御場所等儀ハ御治定之上可被仰出趣二丙未相分不申候
一 御本陣玄関紫笹龍御紋付幕紋白地同断幕ヲ張大原
前侍従殿陣営ハ高札有之御宿札相掛ケ有之官軍之
家人数上下二百人程近還旅篭屋宿陣二相成罷在候
三家共玉薬之外ハ兵器類手當相見不申候 大砲等茂
相見へ不申候
右之通御座候以上
三月

(読み下し)
一、雑裳、北川、南城、真田、刈谷、百十両人ヲ指揮致シ、品川宿両三日御宿陣之有リ、同所御退陣日限江戸表御陣営御場所等ノ儀ハ、御治定ノ上仰セ出サレルベキ趣二、丙未相分申サズ候。
一、御本陣玄関、紫笹龍御紋付幕紋白地同断幕ヲ張リ、大原前侍従殿陣営ハ高札之有リ、御宿札相掛ケ之有リ、官軍ノ家人数上下二百人程、近還旅篭屋宿陣二相成リ罷リ在リ候。三家共玉薬ノ外ハ兵器類手當相見エ申サズ候、大砲等モ相見へ申サズ候。
右之通御座候以上。
三月

 

今回の記事は、慶應四年三月二十七日、新政府側の先陣が、品川宿に到着した様子を記したものです。
前侍従、大原重実(旧、綾小路俊実)は、慶應四年三月二十七日、海軍先鋒副総督として、戊辰戦争の最前線、江戸入口の品川宿へ着陣します。
当時、三月十五日の江戸城総攻撃は回避されたとはいえ、東征軍が江戸へ進軍してくるにあたり、江戸界隈ではいろいろな噂がながれ、市中は大混乱におちいっていました。その中で、先鋒総督橋本実梁は、まず、横浜に三月二十三日に横浜に到着した大原前侍従を品川に着陣させることにしたのです。
『内外新報』の冒頭を飾る今回の記事は、大原侍従が、薩摩、肥前、筑後の兵、数百人を従えて品川宿に着陣した様子を伝えています。特に、隊列の出で立ち、装具、大原重実の風貌、本陣の様子などが、細かに記されています。今なら、写真を載せるところですが、当時は、こうした文章によって、人々に生々しい情報を伝えたのですね。

なお、この記事は、現在の新聞に近い記述の仕方で書かれています。旧幕府、新政府のどちらか一方に強く肩入れした表現はみられません。『太政官日誌』が、新政府や朝廷の意向を伝え、さらに政府側に立った戦況報告を載せていたのとは対照的です。


幕末の仇花『内外新報』1

2023年05月22日 | 高札

今回の品は、『太政官日誌第六』が出た慶應四年三月の翌月、慶応四年四月に創刊された『内外新報』です。これは、戊辰戦争のさなか、佐幕派の橋本貫一らの海運会社が、薩長勢力に対して言論で一矢むくいたいとしてはじめた新聞です。粗末な和紙に木版刷り、3,4日毎に小冊子形式で出されました。

今回の品は、『内外新報』の四月分、1号~18号です。

一か月分の内外新報が糸で綴られ、簡易製本されています。「海運会社執事」となっていますが、「海運会社」の実態はよくわかりません。幕府側の組織であることは確かです。

ページを開くと・・・

りゃりゃ、第ニ号(四月十三日)から始まる?

内側に、「内外新報第一号」(四月十日)が別に入っていました。

紙縒りで綴じてあります。破損が酷い(^^;

なぜ、創刊号だけ別なのかわかりません。レイアウトは一緒です。しかし、紙の大きさが創刊号の方が少し大きい。何らかの事情があったのでしょう。

破れ、虫食いは仕方がないですが、印刷の不鮮明さが目立ちます。

『太政官日誌』と較べると、資金力の差が歴然です。

   『太政官日誌』    『内外日報』  

『内外新報』は、慶應四年六月一日第六十号をもって発刊禁止、廃刊となりました。3カ月足らずの寿命でした。

『内外新報』の内容に関しては、次回ブログで。


『太政官日誌』の役割

2023年05月20日 | 高札

慶応四年三月発行の『太政官日誌第六』には、五榜の掲示の後に、まだ、いくつかの記述があります。太政官日誌は、布告など新政府の法令や政策を知らせるだけでなく、戦争の情勢や朝廷の動向など、新政府側の情報を人々に伝える役目をもっていたのです。

一、東山道官軍先鋒、既ニ戦争ニ及ヒ賊軍敗走ノ旨ニハ候得共東海道亦如何共難計趣言上有之、旁以海軍出帆被差急御出輦被遊候条、各其分相心得、出格勉励可有之旨御沙汰候事
三月十五日・・・・(文1)

一、御親征日限御延引之処、来廿一日御発途、石清水社御参詣、同所御一泊、廿二日守口御一泊、廿三日御着坂其後海軍整備叡覧可被為在之旨被仰出候事
三月十五日
但シ太政宮代被移候儀者先被止候事 ・・・・(文2)

一、今般王政御一新、万機従朝廷被仰出候ニ付而者皇国内遠迩与ナク蒼生安堵致シ候様、日夜御憂慮被為在、断然御親征行幸被仰出、尚海軍整備天覧被遊、関東平定之上者、速ニ還御被為在、大ニ列聖之神霊ヲ被為奉安度、深重之思食ニ付、上下心得違無之様、名々可尽其分御沙汰候事
三月十五日
但シ億兆之君タル天職ヲ被為尽御親征行幸被仰出候処、委キ御趣意ヲ不弁モノ共、只々朝廷之御上ヲ奉按候故カ或者一家之盛衰目前之栄利ヲ相考候故カ全体之御危急ヲシラス、種々之浮説申唱江、彼是疑惑ヲ生シ候儀モ有之哉ニ相聞江甚以如何之事ニ候条、末々ニ至迄、急度安堵致シ生業ヲ可営候事  ・・・・(文3)

(読み下し)
一、東山道官軍先鋒、既に戦争に及ひ賊軍敗走の旨には候えども、東海道また如何とも計り難き趣言上これ有り、旁以って、海軍出帆差し急がされ、御出輦遊ばされ候条、各其の分相心得、出格勉励これ有るべき旨御沙汰候事
三月十五日

一、御親征日限御延引の処、来廿一日御発途、石清水社御参詣、同所御一泊、廿二日守口御一泊、廿三日御着坂、其の後海軍整備叡覧あらせられるべきの旨仰せ出でられ候事
三月十五日
但シ、太政宮代移られ候儀は先ず止められ候事

一、今般王政御一新、万機従朝廷仰せ出され候につきては、皇国内遠迩与なく蒼生安堵致し候様、日夜御憂慮あらせられ、断然、御親征行幸仰せ出され、尚、海軍整備天覧あそばされ、関東平定の上は、速やかに還御あらせられ、大いに列聖の神霊を安度奉らされ、深重の思食につき、上下心得違これ無き様、名々其の分尽くすべく御沙汰候事
三月十五日
但し、億兆の君たる天職を尽され、御親征行幸仰せ出され候処、委しき御趣意を不弁ものども、只々朝廷の御上を按じ奉り候故か、或いは一家の盛衰目前の栄利を相考え候故か、全体を御危急をしらず、種々の浮説申唱え、かれこれ疑惑を生し候儀もこれ有るの相聞え、甚だ以って如何の事に候条、末々に至る迄、急度(きっと)安堵致し生業を営むべく候事

(注)
出輦(しゆつれん): 行幸。
出格:並外れている。
勉励:懸命に努力し、努め励むこと。
御親征:天子みずから征伐に出ること。
言上(ごんじょう):目上の人に申し上げること。
旁(かたがた)以って:いろいろな点からみて。
着坂=着阪
太政宮代:現在の内閣に相当。最初、二条城に置かれた。
万機(ばんき): 政治上の多くの重要な事柄。
遠迩(えんじ):遠い所と近い所のこと。
蒼生(そうせい):民。
断然 (だんぜん):きっぱりと。
還御(かんぎょ):天皇などが外出先から居所に帰還すること。
列聖(れっせい): 歴代の天子。
深重(じんじゅう):幾重にも深いこと。
思食(おぼしめし):お思いになること。
不弁(ふべん):能力のない。

ここには、3つの文が書かれています(文1、文2、文3)。

(文1)東山道官軍先鋒により、賊軍は敗走したが、東海道はまだ先がわからない中、帝は海軍出帆を急がれ、行幸されるのであるから、各自、分をわきまえ、励むように。 三月十五日

 (文2)御親征は延期になっていたが、来る21日に出発、石清水八幡宮参詣、22日守口一泊、23日に大阪に着かれ、その後、海軍整備をご覧になる予定である。 三月十五日
但し、太政官代の移転は中止となった。

(文3)王政御一新になったのであるから、重要事項はすべて朝廷に従うよう命じられ、国内いずこも国民は安堵するよう心をくだかれて、きっぱりと征伐行幸を発せられ、海軍天覧、関東平定の後は、ただちに帰還されることとなった。この深く厚い御思慮に対し、心得違いが無いよう、各人それぞれの本分を尽くすべく努めよ。 三月十五日
但し、万民の君である天職を尽くし、御親征行幸を発せられたにもかかわらず、この御趣意をないがしろにして、無能の者たちが、ただ朝廷を按じてか、或は目前の栄利を考えるだけなのか、全体の危急を知らず、浮説をながし、疑惑を生じさせるような事も聞こえてきて、大変遺憾である。下々に至るまで、ゆるぎなく安堵し、生業に励むこと。


慶応四年戊辰三月に出された『太政官日誌第六』は、このように、五榜の掲示五札の後に、3つの記述を載せています。いずれも、天皇行幸についてです。
慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った新政府側は、東山道官軍先鋒を組織し、関東制圧に向けて兵を進めていました。そんな中で、天皇が京を出て大阪へ行き、海軍を視察する行幸は、政治的に非常に大きな意味をもっていました。ですから、この行幸に対して、御親征の言葉を使っています。さらに、太政宮代も移転することになっていました。また、今回紹介する3つの文や五榜の掲示が出された三月十五日は、新政府軍による江戸城総攻撃の予定日でもありました。

具体的な行幸のスケジュールは、文2の通りです。この大阪行幸は、実は大阪遷都の意味を持っていました。行幸の後、そのまま大阪にとどまる事になっていたのです。発案したのは、大久保利通で、一月の太政官会議に建白書を提出したのですが、京都保守派からの激しい抵抗にあい、廃案となりました。そこで、一時的な大阪滞在の案に変更し、実行することになったのです。慶応四年三月ニ一日、天皇は京都を出発し、三月ニ三日に大坂に到着、天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、閏四月八日京都に還御しました。なお、太政宮代の大阪移転は中止になりました。


しかし、江戸城が無傷開城され、江戸の町も戦火をまぬがれたため、政治の中心は次第に江戸に移っていくことになります。天皇は、京都から江戸へ行幸し、まもなく京都に環御しました。そして次の行幸以降、東京に滞在する期間が長くなり、天皇の在所は結果的に京都から東京へ移りました。正式の発表がないまま、いわばなし崩し的に東京遷都は行われたわけです。

明治維新以降、大阪は次第に衰退し、現在、東京との差は埋めようもないほどになっています。大阪人が、東京に対して大きなコンプレックスを抱くようになるのは当然のなりゆきでした。そこにつけ込み、人々のネガティブな情念を煽るのがクズ政治家の常套手段です。「維新」という名の政党の子供だまし政策に、人々がコロリといかれる・・・ことの発端は、戊辰戦争のさなか、150年前の幻の大阪遷都にあったのですね。

 


五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』

2023年05月16日 | 高札

やっと、五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』まで来ました。

47㎝x106㎝、厚 2.3㎝。重 5.9㎏。明治元年。(故玩館高札No.12)

第4札と同じく、文章が長いので、大きな高札です。駒形ですが、屋根はありません。吊り金具はなく、裏木補強もなされていません。

   覚 

王政御一新ニ付而ハ速ニ
天下御平定萬民安堵ニ
至リ、諸民其處を得候様
御煩慮被為 在候ニ付、此折柄
天下浮浪之者有之候様ニ而ハ
不相済、自然今日之形勢ヲ窺
猥らに士民共本国を脱走致
候儀堅被差留候、萬一脱国之
者有之不埓之所業致候節ハ
主宰之者落度太留ヘく候
尤此御時節ニ付無上下
皇国之御為又ハ主家之為筋
等存込建言致候者ハ、言路を
開き公正之心を以其旨趣を
盡させ、依願太政官代江茂
可申出被 仰出候事 
  但今後総而士奉公人ハ不申及
 農商奉公人ニ至る迄相抱候
 節ハ出処篤登相糺可申自然
 脱走之者相抱不埓出来御厄
 害ニ立到リ候節ハ其主人之
 落度太留ヘく候事 

明治元年三月  太政官 

(裏面) 下組分
         下松倉村

(読み下し)

王政御一新につきては、速やかに
天下御平定萬民安堵に
至り、諸民其のところを得候様
御煩慮あらせられ候につき、此の折柄
天下浮浪の者これ有り候様にては
相済まず、自然、今日の形勢を窺い、
猥らに士民ども本国を脱走致し
候儀、堅く差し留められ候、万一脱国の
者これ有り不埒の所業致し候節は、
主宰の者落度たるへく候
尤も此の御時節につき上下無く、
皇国の御為又は主家の為、筋
等存じ込み建言致し候者は、言路を
開き公正の心を以って其の旨趣を
盡くさせ、依願太政官代へも
申し出すべく、仰せ出され候事 
 但し、今後総じて士奉公人は申すに及ばず、
 農商奉公人に至るまで相抱き候
 節は、出処篤と相糺し申すべし、自然、
 脱走の者相抱え不埓出来御厄
 害に立到り候節は、其の主人の
 落度たるヘく候事 

明治元年三月  太政官

(意訳)
覚 
王政御一新であるので、速やかに、天下は平定され、万民が安心して暮らせるようになった。そのことを、よくわきまえるよう思い煩っておられる。ついては、この時節、天下浮浪の者がうろつくようではならぬ。今日の形勢を窺い、士民達が勝手に本国(郷土)を脱走することは堅く禁じられている。万一、脱国を致す不埒者がいた場合は、主宰者の落ち度となるであろう。
  ただ、この御時節であるので、身分の上下に関係なく、皇国の為や主家の為などに建言を行う者は、その提言を採る道を開き、公正な立場で、その考えを聞き、郷土出国の願い出を、太政官(役所)へ、申し出ることができる。
  ただし、今後、武士の奉公人はもちろん、農民、商人の奉公人に至るまで、すべて雇用を行う時は、出身地をしっかりと調べよ。もし、脱郷者を雇い、とんでもない事態に至った場合には、雇用主の罪となろう。
   明治元年三月  太政官
      

今回の品で一番注目されるのは、高札の発給日が「明治元年三月」と書かれている事です。改元となり明治が始まるのは、9月8日です。ですから、明治元年に三月は存在しません。「慶応四年三月」と書くべきなのです。高札の書き手がウッカリしていたのですね(^^;  と同時に、この高札が、五榜の掲示が出されてから相当後に作られたことがわかります。

五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』は、江戸時代の規則を踏襲しています。集団で村を捨てる逃散については、すでに、五榜の掲示第2札『徒党強訴逃散禁止』で、禁止しています。第5札は、さらに、個人レベルでも村から逃げることを禁じているのです。
この第5札『郷村脱走禁止』は、五榜の掲示5枚の札のうち唯一、高札制度が廃止になる前に撤去されました(明治4年10月4日)。
五榜の掲示の変化や高札制度の廃止については、後のブログで書きます。

 

 


五榜の掲示第四札『万国公法尊守』

2023年05月10日 | 高札

今回は、五榜の掲示第四札『万国公法尊守』です。

47㎝x116㎝、厚 3.0㎝。重 7.4㎏。明治初期(4年11月以降)。(故玩館高札No.11)

非常に大きくて重い高札です。故玩館所蔵の高札の中で最大です。屋根の付いた駒形です。吊り金具や裏木補強はありません。

   
今般
王政御一新ニ付
朝廷之御條理ヲ追ヒ外國御交際之儀
被 仰出、諸事於
朝廷直チニ御取扱被為成、萬國之公法ヲ以
條約御履行被為 在候ニ付テハ、全國之人民
叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被
仰付候、自今以後猥リニ外國人ヲ殺害シ
或ハ不心得ノ所業等致シ候者ハ
朝命ニ悖リ、御國難ヲ醸成シ候而已ナラス
一旦御交際被 仰出候各國ニ對シ
皇國之御威信茂不相立次第甚以不届
至極之儀ニ付、其罪之軽重ニ随ヒ士列之
者ト雖モ削士籍到當之典刑ニ
被処候条銘々奉
猥リニ暴行之所業無之様被 仰出候事
  三月  太政官
右之通被 仰出條
可得其意もの也
岐阜縣

(裏面) 大野郡更地村 (現、岐阜県本巣町更地)

 

(読み下し)

今般、王政御一新につき、朝廷の御条理を追い、外国御交際の儀、仰せい出され、諸事において、朝廷ただちに御取扱いなされ、万国の公法を以って、条約御履行あらせられ候につきては、全国の人民叡智を奉戴し、心得違いこれ無き様仰せつけられ候。 自今、以後猥りに外国人を殺害し、或は不心得の所業等致し候者は、朝命に悖り、御国難を醸成し候のみならす、一旦御交際御仰せい出され候各国に対し、皇国の御威信も相立たぬ次第、はなはだもって不届き至極の儀につき、其の罪の軽重に随い、士列の者といえども削士籍到当の典刑に処され候条、銘々奉り、猥りに暴行の所業これ無き様仰せい出され候事
  三月  太政官
右の通り、仰せい出され候條、其の意得るべきもの也
岐阜縣

(意訳)


この度、王政御一新となったからには、朝廷の御道筋に従い、外国と交際していくことと相成った。 朝廷は、直ちに、諸々の事柄を処理なされ、万国公法に従い条約を履行なされるので、全国の人民は、天子の御意向を謹んで奉り、心得違いの無いよう心得よ。 これからは、みだりに外国人を殺害したり、悪行をなした者は、朝命に背き、国に災難をもたらすこととなる。 一度、御交際を仰せ出された各国に対して、皇国の御威信も崩れることとなり、はなはだ不届き至極であるので、その罪の軽重により、士族の者であっても、士籍削除の刑に処せられる事を、銘々心得おき、みだりに暴行の所業をなさぬよう心得よ。
  三月  太政官
右の朝命の趣意をよくわきまえておくように。
岐阜県

この高札は、これまで紹介した「定札」と異なり「覚札」です。 恒久掲示ではなく、一時的な公示で、変更の可能性がある札です。

五榜の掲示そのものの発布者は太政官で慶応四年三月に公布されたものですが、今回の高札は岐阜県が第2発給主体となっています。ですから、「慶応四年三月」の表記ではありますが、明治4年11月、廃藩置県により岐阜県が発足した以降に作成された物であることがわかります。また、この高札は真新しく、ほとんど外部に掲示された形跡がありません。高札場に掲示されず、どこかに、ずっとしまわれていた物かもしれません。

この高札の掲示場所、更地村は、揖斐川の支流、根尾川筋にあった村で、故玩館から数㎞北に位置します。当時、この村は尾張藩領、もしくは大垣藩領でした。いずれも比較的早く新政府側に属した藩です。したがって、新政府側の通達がすぐに届いて、五榜の掲示の高札が比較的早期に作られたと想像されるのですが、実際は、明治4年11月以降であったのです。また逆に、先回のブログでみたように、改訂された切支丹禁止札ではなく、五榜の掲示が出された慶応四年三月当初の条文の「切支丹禁制高札」が、新政府に距離を置く所で見つかっています。

五榜の掲示の謎は深まるばかりです。