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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

慶應四年戊辰三月『太政官日誌 第六』

2023年04月16日 | 高札

幕末、徳川幕府にかわり、新政府が実権を握りました。そして、新政府の重要な政策などは太政官名で発給され、太政官日誌に掲載されました。太政官日誌は、新政府が発行した日誌形式の機関紙で、現在の官報に相当します。慶応四(1868)年二月から明治一〇(1874)年一月まで刊行されました。

今回の品は、慶應四年三月発行の太政官日誌、第六号です。新政府にとって、最も重要な国内政策、五榜の掲示が記載された号です。また、この第六号太政官日誌は、五榜の掲示の外に、慶応四年一月に行われた天皇による賊軍征伐や大阪行幸についても記載しています。

15.7㎝x22.8㎝、14頁。慶応4年3月。

和紙に木版刷り、紙紐で留めてあります。

諸国之高札、是迄之分、一切取除ケいたし、別紙之条々改而掲示披 仰付候、自然風雨之ため、字章等塗滅候節は、速に調替可申事
但、定三札ハ、永年掲示被 仰付候、覚札之儀ハ時々之御布令ニ付、追而取除ケ之 御沙汰可有之、尚御布令之儀有之候節ハ覚札を以、掲示可被 仰付候ニ付、速ニ相掲ケ、偏境ニ至るまで 朝廷御沙汰筋之儀、拝承候様可被相心得候事、追而 王政御一新後、掲示ニ相成候分は、定三札之後江当分掲示致置可申事
  三月

  第一札
   定
一、人たるもの五倫之道を正しくすべき事
一、鰥寡孤独廃疾のものを憫むべき事
一、人を殺し、家を焼き、財を盗む等之悪業あるまじく事
 慶応四年三月 太政官

  第二札
   定
何事によらす、よろしからざる事に、大勢申合候を、ととうととなへ、ととうして、志いてねがひ事くわだつるを、ごうそといひ、あるひハ申合せ、居町居村をたちのき候を、てうさんと申す、堅く御法度たり、若右類之儀これあらば、早々其筋の役所へ申出べし、御ほふひ下さるべく事
   慶応四年三月 太政官

  第三札
   定
きりしたん邪宗門之儀ハ、固く御制禁たり、若不審なるもの有之は、其筋の役所江申出べし、御ほふび下さるべく事

  慶応四年三月 太政官

  第四礼
   覚
今般 王政御一新ニ付 朝廷之御条理ヲ追ヒ、外国御交際之儀、被 仰出、諸事於 朝廷直チニ御取扱被為成、万国之公法ヲ以、条約御履行被為 在候ニ付而者、全国之人民
叡旨ヲ奉戴シ、心得違無之様被仰付候、自今以後、猥リニ外国人ヲ殺害シ、或者不心得之所業等イタシ候モノハ 朝命ニ悸リ御国難ヲ醸成シ候而巳ナラス一旦御交際被 仰出候各国ニ対シ皇国之御威信茂不相立次第、甚以不屈至極之儀ニ付其罪之軽重ニ随ヒ、士列之モノト雖モ、削士籍至当之典刑ニ被処候条、銘々奉朝命、猥リニ暴行之所業無之様被 仰出候事
      三月  太政官

   第五札
    覚
王政御一新ニ付而者、速ニ天下御平定、万民安堵ニ至リ、諸民其所ヲ得候様 御煩慮被為 在候ニ付、此折柄、天下浮浪之者有之候様ニテハ不相済候、自然今日之形勢ヲ窺ヒ、猥リニ士民トモ本国ヲ脱走イタシ候儀、竪ク被差留候、万一脱国之者有之、不埒之所業イタシ候節ハ主宰之者落度タルへク候、尤此御時節ニ付、無上下 皇国之御為、又ハ主家之為筋等存込、建言イタシ候者ハ、言路ヲ開キ、公正之心ヲ以、其旨趣ヲ尽サセ、依願太政宮代エモ可申出被 仰出候事、
但今後総テ士奉公人ハ不及申、農商奉公人ニ至ルマテ相抱候節ハ出処篤ト相糺シ可申、自然脱走之者相抱へ、不埒出来御厄害ニ立至リ候節者其主人之落度タルへク候事
       三月 太政官

 

一、東山道官軍先鋒、既ニ戦争ニ及ヒ賊軍敗走ノ旨ニハ候得共東海道亦如何共難計趣言上有之、旁以海軍出帆被差急御出輦被遊候条、各其分相心得、出格勉励可有之旨御沙汰候事
三月十五日

一、御親征日限御延引之処、来廿一日御発途、石清水社御参詣、同所御一泊、廿二日守口御一泊、廿三日御着坂其後海軍整備叡覧可被為在之旨被仰出候事
三月十五日
但シ太政宮代被移候儀者先被止候事

 

この太政官日誌第六号は、新政府の特徴が凝縮された歴史資料です。

5枚の高札については、次回以降、現物に即して紹介していきます。また、太政官日誌第六号の五榜の掲示以外の記述(天皇による賊軍征伐や大阪行幸)についても、その意味を読み取っていきたいと思います。


五箇条の御誓文と五榜の掲示

2023年04月14日 | 高札

今回からは、幕末、明治期の高札に移ります。

徳川幕府を倒した新政府は、国の新しい政策を、慶応4年3月に相次いで発表しました。それが、五箇条の御誓文と五榜の掲示です。
五箇条の御誓文は、天皇の詔として、一方、五榜の掲示は、5枚の高札として発布されました。現在、私たちが目にする高札の多くは、この五榜の掲示です。江戸時代の高札に較べて、比較的時代が若いのと掲示された期間が短かったため、高札の劣化は少なく、文字も鮮明に残っていることが多いからです。

まずは、教科書に載っている事柄のおさらいです。 

 新政府にとって、五箇条の御誓文と五榜の掲示はセットでした。
 五箇条の御誓文は、慶応4(1868)年3月14日に布告された新政府の政治方針です。
一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ 
この開明的な方針は、一般の人々ではなく、大名や公家など諸侯に対して示されました。
そして、五箇条の誓文が公布された翌日、慶応4年(1868)3月15日、新政府は旧幕府の高札の撤去を命じ、代わって五種の太政官高札を高札場に掲示せよとの布告を発しました。


五箇条の御誓文が、国内上層部や外国向けて発信した表の看板であったのに対して、五榜の掲示は、新政府が民衆に対して最初に示した国内政策でした。
第1札 五倫道徳の遵守(高札№7)
第2札 徒党強訴逃散の禁止(高札№8)
第3札 切支丹邪宗門の厳禁(高札№9、10)
第4札 万国公法の履行(高札№11)
第5 札郷村脱走の禁止(高札№12)
第一札から第三札は定め書き(定三札)で、永年の掲示とし、第四札、第五札は、覚書で、一時的な公示(覚札)です。

五榜の掲示は、新政府が出した初めての民衆政策でしたが、その内容は新しいものではありません。5枚の高札の内、第四札で、万国法を守り、外国人に危害を加えないことを述べてはいますが、他の4枚の高札は、江戸時代と類似のものであったのです。第一札では、儒教における五つの基本的な人間関係である五倫を正しくすることや殺人・放火・盗みなどの禁止、第二札は徒党強訴逃散禁止など集団の力を利用して事を起すことの禁止、第三札切支丹邪宗門の厳禁、第五札郷村脱走の禁止(浮浪の禁止)など、五箇条の御誓文とは対照的に、江戸時代の民衆政策を踏襲していたのです。しかも、報奨金を与える密告制度まで引き継いでいました。

このうち、第三札、切支丹邪宗門の厳禁に対しては、諸外国から強い反発が起こりました。そこで、公布後わずか50日ほどで、新政府は第三札の表現を変え、「切支丹邪宗門の禁止」の語句を、「切支丹の禁止」と「邪宗門の禁止」の二つに分け、非難をかわそうとしたのです。しかし、その後も、諸外国からの抗議は続き、印刷技術の発達ともあいまって、明治6年(1873)2月24日、高札制度そのものが廃止されました。

 五榜の掲示は、太政官名で発給されました。太政官とは、慶応四(1868)年3月に設置され、明治18(1885)年12月に内閣制度が創設されるまで、一七年間存続した最高行政官庁のことです。特定の官職や個人をさす言葉ではありません。新政府は、王政復古をとなえ、かつての律令制度にならい、太政官制度を復活させたのです。太政官制の下、五榜の掲示など各種法令発布や太政官札の発行など、あらゆる行政分野において、多数の施策が行われました。
 なお、明治と改元されたのは、慶応4年9月8日です。したがって、これ以降、太政官は、明治政府を指すことになります。

次回は、五榜の掲示が布告された、慶応四年戊辰三月発行の太政官日誌を紹介します。

 

 

 


宗門人別改状

2023年04月08日 | 高札

先回のブログで、正徳大高札『切支丹札』を紹介しました。
高札から見えてくるのは、密告制度を基本とした飴と鞭の政策です。不届者の通報(密告)を奨励し、その情報の内容によって、報賞金を与えたのです。
正徳大高札の中の切支丹札(高札No.1)をはじめとして、火付札、贋金銀銭取締札(高札No.2)、徒党強訴逃散禁止札(高札No.14)などです。
このうち、最も有名なキリシタン取り締まりを、先回の切支丹札(高札No.1)から再度見てみます。

「き里志たん宗門ハ累年御禁制たり、自然不審成ものこれあらハ、申出へし、御不うひとして、はて連んの訴人、銀五百枚、い累まんの訴人、銀三百枚、立かへ里者の訴人、同断、同宿并宗門の訴人、銀百枚、右の通下さるへし、たとひ同宿宗門の内たりといふとも、申出る品により銀五百枚下さるへし、かくし置他所よりあらはるゝにおゐては、其所の名主并五人組迄一類は罪科行れるべく候也  正徳元年五月日 奉行」

「キリシタンは厳禁である。不審な者がいたら通報せよ。褒美として、バテレンなら銀五百枚、イルマン銀三百枚、信者なら銀百枚を与える」と、密告に対して大判振る舞いです。
さらに、「通報者が信者であっても、その情報によっては銀五百枚を与える」とあり、内部からの密告も奨励しています。
その一方で、「キリシタンを匿い、それが外から発覚した場合には、名主や五人組も同罪となる」と脅しています。まさに、飴と鞭の政策ですね。

この密告制度が、どれ程有効であったかは明らかではありません。時代の交換レートにもよりますが、銀五百枚は、150~300両に相当する大金です。このような途方もない報奨金がしばしば支払われたとはとても考えられません。徳川幕府の意図は、むしろ、高札によって、幕府の権威を誇示することにあったと言えるでしょう。

切支丹札でキリシタン禁止を強くうちだした幕府ですが、実際の取り締りに関しては、日本中に組織した五人組制度を利用し、毎年、宗門人別改めによって、人々を調べ、キリシタンでないことを証明させました。宗門人別改めが、人々を監視し、取り締まる役目を果たしていたのです。
五人組とは、近隣5人(5戸)を単位とする統治の末端組織です。幕府は、江戸前期に五人組制度を整備し、全国的に組織しました。そして、キリシタンの取締りを主眼として、五人組に連帯責任をおわせる相互監視体制をつくりあげたのです。連帯責任の範囲は、その後、年貢の完納や法令遵守などにまで広がりました。

では、宗門人別改とはどのようなものだったのか、故玩館の資料で見てみます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・省略(個別人名有)・・・・・・

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  23㎝x68㎝、江戸時代後期。

      差出申一札之事
一切死丹宗門御改ニ付、厚見郡岐阜矢嶋町
上切町人男女共ニ旦那之分、致吟味先年
茂手形指出シ候へ共、弥今度堅御改ニ付僉儀
仕疑敷者無之ニ付、五人組之帳面ニ面々旦那
寺之判形を取、差上申候。毎年一度宛御改之外
にも、常々無油断相改可申候。於町中ニ念仏
講題目講を致、ひそかに後生物語様仕
常々之宗旨ニ替り候宗門を取阿つかい
不審成者御座候者、早速御注進可申候。
之分判形仕候。若、右之門切死丹宗門之者
有之由、訴人御座候ハゝ右判形仕候寺々之
住寺越度ニ可被仰付候。只今迄之旦那
之内宗旨替り申者御座候歟又ハ常々之
執行怪鋪事御座候者、御改可申上候。
先年従 公儀被 仰出候
御法度書之面致拝見、委細承届
當町五人組之者共等ニ僉儀仕
書付差上申。 覚
 濃州厚見郡岐阜下矢嶋町上切
同町          〇〇 年五拾五
      ・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・省略(個別人名有)・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・
      ・・・・・・・・・・・・・・
                    □□母 年六拾八
  右女壱人宗旨ハ代々一向宗旦那寺
                  厚見郡明屋鋪
            蓮生寺印

               組頭  半右衛門印
                       新 助印
          五人一組     与左衛門印 
              加兵衛印
             忠六後家印
           与頭  清右衛門印
               久 六印
       六人一組    喜 七印
               八久衛印
               長 吉印
                 又 八印 
     岐阜 
        御奉行所      

良質の和紙に御家流で整然と書かれた宗門人別改状です。年月日が入っていません。最後に書き入れつつもりだったのか、或いは、草稿か? 印がきっちりと押されているので、提出する寸前の物ではないでしょうか。記された地名や寺は現在もあります。

この宗門人別改状は、岐阜下矢嶋町の宗門改めの記録です。宗門人別改めによって、各人は、何宗に属し、旦那寺はどこかを、毎年役所に報告しました。宗門人別改は、寺請制であったのです。この資料には、6家族、10人(男4、女6)の人たちそれぞれの宗旨と旦那寺が記されています。家族単位の記述ですが、家族成員それぞれの名前と年令、そして、所属する寺を個人別に記入し、その下に寺の印が押してあります。所属する寺は、住んでいる場所から、かなり離れた所(10㎞以上)にある場合があります。また、同じ家族であっても、異なる寺に属している場合がいくつかあります。特に、他地区から嫁いできた女性が、他の家族とは別の寺に属していることが多いです。なぜ、近くの寺に代わらなかったのかよくわかりません。一説には、豊臣秀吉以来、寺の勢力が増すのを権力側が嫌ったからだとも言われています。
 このようにして、毎年、旦那寺に、各人は仏教信者であり、切支丹でないことを証明させたのです。
この書状の宛先は岐阜奉行所です。末尾には、5人組、6人組の人名と印があります。もし、記載に誤りがある場合には、それぞれの組と旦那寺も、連帯責任を負いました。
隣人相互に監視をさせるこの制度によって、全国に細かい監視網が敷かれ、高札に書かれた切支丹禁止令を実効させたのです。キリシタンの摘発からはじまった宗門改めは、その後次第に、住民調査の色彩を強くおびるようになり、宗門人別改帳は、実質的に、江戸時代の戸籍簿となりました。

江戸幕府が倒れても、新政府はキリシタン禁制を踏襲したので、宗門改めは明治になってからも続きました。そして、明治6年2月、五榜の掲示が撤去され、キリシタン禁制が廃止されるとともに、五人組制度は終わりました。しかし、近隣住民を組織して、相互に監視し、治安維持に当たらせる方策は、第二次大戦中、隣組として戦争終結まで続いたのです。
なお、五人組は、必ずしも5人(5戸)ではなく、1組は3~7人(戸)の構成でした。今回の宗門人別改状でも、5人組と6人組の二つの組を調べています。


正徳大高札『切支丹札』

2023年04月06日 | 高札

今回の品は、江戸時代、高札の代表となった5種類の正徳の大高札のうちでも、江戸幕府が最も重視した切支丹禁制札です。どの高札場にも優先して掲げられました。

40㎝x69㎝、厚 1.4㎝。重 1.5㎏。江戸中期ー後期。

屋根の付いた駒形の高札です。吊り金具や補強の裏木はありません。

この品が、正徳元年(1711)に掲げられた物かどうかはわかりません。高札板は風雨にさらされて傷むし、火事にあい焼失もしました。したがって高札板の寿命はそれほど長くなく、新たな高札板に替えられたからです。その場合にも、発行年、「正徳元年五月日」をはじめ、文面は全く同じでした。

今回の品は風化がすすんで、文字が全く読めない状態です。しかし、横方向から強力なライトをあてると、陰影が増し、文字が浮かび上がりました。

                 定
き里志たん宗門ハ累年御禁制
たり、自然不審成ものこれあらハ、申
出へし、御不うひとして 
  はて連んの訴人    銀五百枚
  い累まんの訴人    銀三百枚
  立かへ里者の訴人    同 断
  同宿并宗門の訴人   銀百枚
右の通下さるへし、たとひ同宿
宗門の内たりといふとも、申出る
品により銀五百枚下さるへし、かく
し置他所よりあらはるゝにおゐては
其所の名主并五人組迄一類ともに
可被行罪科候也
    正徳元年五月日
                          奉行

                       定
  キリスト教は、これまでずっと禁止であり、これからも禁止である。もし不審な者がいたら通報せよ。ご褒美として、
    バテレンの通報者   銀五百枚
    イルマンの通報者        銀三百枚
    立ちかえり者の通報者 同 断
    同宿や信徒の通報者  銀百枚
右の通り、与えよう。たとえ同宿やキリスト教徒であっても、申し出る品により銀五百枚を与えよう。もし匿って、他の所から露見した場合には、その所の名主と五人組まで罪を負うことになろう。
   正徳元年五月日
                         奉行

バテレン:司祭
イルマン:修道士
立ちかえり者:仏教へ改宗後、再びキリスト教へ戻った者
同宿:日本語でイルマンを補佐し、布教を助ける人、伝道補佐人

老中:この時代(江戸時代初期頃まで)、まだ、〇〇奉行という職は無く、奉行は老中(年寄)をさす。

高札の典型、切支丹札の特徴は、密告制度です。キリシタン関係者を見つけ、通報すれば報奨金がもらえたのです。銀五百枚は、現在の貨幣価値で、2000万円ほどに相当するので、かなりの額の金です。どれくらいの通報があったかわかりませんが、社会に監視の網を張り巡らす効果は大きかったと思われます。

もう一つの特徴は、五人組に代表される連帯責任体制です。これは、近隣の五戸を一組とした単位組織で、日常の様々な事柄について、組内で連帯して責任を負うというものです。キリスト教禁止の徹底もその一つでした。そのための具体的な方策として、宗門人別改(しゅうもんにんべつあらため)が行われました。

宗門人別改状は、次回のブログで紹介します。       


正徳大高札の写し

2023年04月04日 | 高札

江戸時代には、数多くの御触書、御達書の類が出されました。これらは、老中、若年寄の会議で方針を定め、奥右筆筆頭が起草し、将軍の裁可を得て制定されました。そして、書き付けと称する写しがつくられ、各方面に配布されました。配布先は、御触書の目的、内容などによって決められました(『高札ー支配と自治の最前線』大阪人権博物館、1998年)。
幕府自身、数千通にものぼる御触書類を、江戸時代、4回にわたって、整理、分類し、記録に残しています。これらは、後に、御触書集成と名付けられました。高札として掲示され、一般の人々に広く知らされたのは、膨大な御触書の一部なのです。

 このようにして、江戸時代には、種々の高札が発行されました。それらは、大きく3種類に分類されます。高札場に掲示された幕府の主要政策を示した公儀高札、各藩が独自に定めた自分高札、そして、この2種類には入らないその他の高札類です。なお、新政府が出した高札は、天朝高札と呼ばれています。故玩館所蔵の高札類14枚の内訳は、公儀高札が5枚、天朝高札6枚、その他の物が3枚です。その他の物の内訳は、私的高札が1枚、発給主体が、町、業界の物が各1枚です。
公儀高札や天朝高札については、これまで多くの研究がなされてきました。特に、切支丹札や火付け札、贋金銀銭取締札、徒党禁止札などについては検討がすすみ、密告制度をはじめ、幕府や新政府の民衆政策はかなり明らかになっています。一方、他の高札類については、系統的な研究がほとんど行われていません。が、これらは当時の世相を反映しているものが多く、人々の暮らしを知る手がかりを与えてくれるのでいっそう重要です。

今回のブログでは、まず、江戸時代の高札の代表である、正徳の大高札を概観します。
徳川幕府は、村々に高札場を設け、法度や掟書を記した板札を掲げました。人々を律し、統治するため、その種類は多く、複雑で多岐にわたっていました。また、老中や将軍がかわるたびに新たな高札が掲げられ、その手間と経費も大きな負担でした。
そこで、種々の高札はやがて整理され、正徳元年(1711)に5枚の高札が出され、江戸時代の代表的なものとなりました。これらは、正徳の大高札とよばれています。忠孝札、毒薬札、切支丹札、火付札、駄賃札。これら五札が、徳川治世の基本となり、駄賃札の改定を除いて、幕末まで同じ文面で掲示されました。このうち、切支丹札が最も重視され、すべての高札場に掲示されました。   

故玩館には、正徳大高札5枚のうち、切支丹札の高札と5枚を写した木版物があります。

今回の品物は、正徳大高札の写し(木版)です。これによって、正徳大高札の全体を知ることができます。

14.9㎝x21.2㎝、13丁。江戸中期ー後期。

【切支丹札】

【駄賃札】

【忠孝札】

【毒薬札】

【火付札】

江戸時代、触書などの法令は、書き写すのが基本でした。もちろん、高札自身も、役人による墨書です。高札の文面は、村役によって書き写され、保管されました。
しかし、正徳の大高札などの基本的な高札は例外的に出版が行われました。儒教倫理や切支丹禁止、徒党強訴逃散禁止などの法令を、社会の隅々にまで行き渡らせようとして、特別な計らいがなされたのです。したがって、木版物は、ある意味、肉筆による写しよりも価値があります。
今回の品物は、江戸中後期に出版されたと思われる高札写しです。木版刷り13丁を、紙紐で簡単に綴じてあります。内容は、正徳の大高札など江戸中期の高札8種です。漢字にはすべて、かながふってあります。寺子屋の教材として用いたのでしょう。

忠孝札では、親子兄弟等は互いに慈しみ、一生懸命に働くなど、日常生活の規範が述べられるとともに、賭博、喧嘩などを戒め、盗賊悪党の通報を奨励しています。毒薬札は、毒薬、偽薬の売買禁止、贋金銀銭扱い禁止、価格操作の禁止などに加えて、徒党の禁止も命じています。切支丹札は、密告の奨励と厳罰によりキリシタン厳禁をうたっています。火付札は、火付人の通報と捕縛、火事場泥棒の厳罰などについて述べています。駄賃札は、人足の数、荷物の重さ、人馬の賃などを定めています。

 上の写真の5種類の高札を較べてみると、忠孝札、毒薬札は、その内容がかなり雑多であることに気づきます。大高札制定の過程は不明ですが、各種の禁令などを十分に整理統合しないまま、高札にしたのでしょう。それに対して、切支丹札、火付札、駄賃札は、簡潔に法令をまとめています。特に、切支丹札の高札としての完成度は高く、徒党禁止札など、その後の高札は、この切支丹札のスタイルに倣っている物が多くあります。

次回は、高札の代表ともいえる、切支丹札を紹介します。