遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』

2023年05月16日 | 高札

やっと、五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』まで来ました。

47㎝x106㎝、厚 2.3㎝。重 5.9㎏。明治元年。(故玩館高札No.12)

第4札と同じく、文章が長いので、大きな高札です。駒形ですが、屋根はありません。吊り金具はなく、裏木補強もなされていません。

   覚 

王政御一新ニ付而ハ速ニ
天下御平定萬民安堵ニ
至リ、諸民其處を得候様
御煩慮被為 在候ニ付、此折柄
天下浮浪之者有之候様ニ而ハ
不相済、自然今日之形勢ヲ窺
猥らに士民共本国を脱走致
候儀堅被差留候、萬一脱国之
者有之不埓之所業致候節ハ
主宰之者落度太留ヘく候
尤此御時節ニ付無上下
皇国之御為又ハ主家之為筋
等存込建言致候者ハ、言路を
開き公正之心を以其旨趣を
盡させ、依願太政官代江茂
可申出被 仰出候事 
  但今後総而士奉公人ハ不申及
 農商奉公人ニ至る迄相抱候
 節ハ出処篤登相糺可申自然
 脱走之者相抱不埓出来御厄
 害ニ立到リ候節ハ其主人之
 落度太留ヘく候事 

明治元年三月  太政官 

(裏面) 下組分
         下松倉村

(読み下し)

王政御一新につきては、速やかに
天下御平定萬民安堵に
至り、諸民其のところを得候様
御煩慮あらせられ候につき、此の折柄
天下浮浪の者これ有り候様にては
相済まず、自然、今日の形勢を窺い、
猥らに士民ども本国を脱走致し
候儀、堅く差し留められ候、万一脱国の
者これ有り不埒の所業致し候節は、
主宰の者落度たるへく候
尤も此の御時節につき上下無く、
皇国の御為又は主家の為、筋
等存じ込み建言致し候者は、言路を
開き公正の心を以って其の旨趣を
盡くさせ、依願太政官代へも
申し出すべく、仰せ出され候事 
 但し、今後総じて士奉公人は申すに及ばず、
 農商奉公人に至るまで相抱き候
 節は、出処篤と相糺し申すべし、自然、
 脱走の者相抱え不埓出来御厄
 害に立到り候節は、其の主人の
 落度たるヘく候事 

明治元年三月  太政官

(意訳)
覚 
王政御一新であるので、速やかに、天下は平定され、万民が安心して暮らせるようになった。そのことを、よくわきまえるよう思い煩っておられる。ついては、この時節、天下浮浪の者がうろつくようではならぬ。今日の形勢を窺い、士民達が勝手に本国(郷土)を脱走することは堅く禁じられている。万一、脱国を致す不埒者がいた場合は、主宰者の落ち度となるであろう。
  ただ、この御時節であるので、身分の上下に関係なく、皇国の為や主家の為などに建言を行う者は、その提言を採る道を開き、公正な立場で、その考えを聞き、郷土出国の願い出を、太政官(役所)へ、申し出ることができる。
  ただし、今後、武士の奉公人はもちろん、農民、商人の奉公人に至るまで、すべて雇用を行う時は、出身地をしっかりと調べよ。もし、脱郷者を雇い、とんでもない事態に至った場合には、雇用主の罪となろう。
   明治元年三月  太政官
      

今回の品で一番注目されるのは、高札の発給日が「明治元年三月」と書かれている事です。改元となり明治が始まるのは、9月8日です。ですから、明治元年に三月は存在しません。「慶応四年三月」と書くべきなのです。高札の書き手がウッカリしていたのですね(^^;  と同時に、この高札が、五榜の掲示が出されてから相当後に作られたことがわかります。

五榜の掲示第5札『郷村脱走禁止』は、江戸時代の規則を踏襲しています。集団で村を捨てる逃散については、すでに、五榜の掲示第2札『徒党強訴逃散禁止』で、禁止しています。第5札は、さらに、個人レベルでも村から逃げることを禁じているのです。
この第5札『郷村脱走禁止』は、五榜の掲示5枚の札のうち唯一、高札制度が廃止になる前に撤去されました(明治4年10月4日)。
五榜の掲示の変化や高札制度の廃止については、後のブログで書きます。

 

 


コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 手にあまる薔薇 | トップ | カニ殻の威力!?超連作でソ... »
最新の画像もっと見る

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (1948219suisen)
2023-05-16 15:45:51
この高札で、ほんのこの間まで庶民は引っ越しも自由にできなかったことが窺われますね。明治の前の慶応時代は現代と比べて遠いようで近いから身近に感じられます。
返信する
1948219suisenさんに (遅生)
2023-05-16 18:32:51
この時点では、徳川が新政府に置き換わっただけで、民衆政策はほぼおなじですから、土地への縛りが継続されたのですね。この場合の国は、それぞれの藩を指しています。それぞれの藩が独立採算制の小国で、地方分権が保証されていたとも言えます。明治政府は、それを、天皇中心の中央集権国家に作り変えていった訳です。
返信する
Unknown (1948219suisen)
2023-05-16 18:44:31
なるほど!

教えてくださり、ありがとうございました。
返信する
遅生さんへ (Dr.K)
2023-05-16 19:40:19
今では、居住・移転の自由はあたりまえのことですが、領民を土地に縛り付けておいたのでは、全く、徳川時代と同じでしたね。
新政権への過渡期には、このような政策もとられたのですね。
大きな意味を持つ高札なんですね!
返信する
Dr.Kさんへ (遅生)
2023-05-16 20:26:44
新政府も、さすがにこれでは富国強兵にならないと、薄々は感じていたと思います。それで、「定札」ではなく、「覚札」にしたのだと思います。で、その後、この札は撤去となります。廃藩置県と相いれなかったのです。しかし、布告に、撤去の理由は書かれておらず、ただ撤去するとあっただけです。こういうのをご都合主義と言うんでしょうね(^^;
返信する

コメントを投稿