東大阪にある教会がしている障害者の作業所に
娘を連れて 夫と三人で見学にいった。
以前に「クリスチャン新聞」に掲載されたことのある作業所だ。
障害者もスタッフも殆ど全員がクリスチャンである以外
写真や情報だけでは,
そこここにある障害者作業所と変わりないと思われたので
私達の行っている教会のO牧師に
「Sチャンに合うような気がする。見学にいってみたら?」
と言われていたが ずっと渋っていた・・・。
しかし、又、先日家族の祈り会「フアミリー」で言われ
益々気分を害していた私だった。
「行かせたかないわ!どこでも一緒やんか!!
同じことを又繰り返せと言うのか!!」
私の心は暴言を吐き続けていた。
一度7年ぐらい前に、作業所に3年程通っていたが
日が経つにつれ、
ひどいひどい興奮状態になる発作が頻繁に出るようになり
居づらくなって退所した経験があるのだ。
私は、辛い経験を引きずる癖がひどく、
いわゆる「フラッシュバック」といわれるもので
それは、自分では性格的なもの・・・と判断していた。
しかし、先日の「フアミリー」で牧師に
それは「恐れ」がもたらす「不自由な心の縛り」と結論づけられ
『キリストは
自由を得させる為に、私たちを解放してくださいました。』
の聖書のみことばを示してくださった。(ガラテヤ5:1)
最早、私はキリストの流された血の故に自由になっているはずなのに
それに気がつかず、
判断力が この世の何かに鈍らされていたこと
そして自分の不自由さが
家族も、特に娘を縛っていたことに、ハッと気づいたのである。
気づくことが 第一歩なのであることにも気づいたのである。
「そうか!!恐れることなど何も無い!!」
そうなると行動は早く 見学に行くことになったのである。
百聞は一見にしかず...のとおり、
「作業所工房ナザレ」に入った途端に
車椅子に乗った方々の明るい、爽やかな熱いご挨拶に
何ともいえない開放感を感じ、嬉しい驚きが瞬時に体を駆け巡った。
作業が終わり(昨日は午前中で終わりだった)
交代でなさっておられるのであろう感謝の祈りに心が沸き立つ感じがし、
三階に建て増されたバリヤフリーの礼拝堂を見させていただいた時
「神様はここを祝福しておられる」との確信がきて 涙がこぼれそうになり
床にひれふして主を讃美したくなった程であった。
(心で讃美をするに留めたけど(笑))
作業は午前中に終わっていたので、工程等みることはできなかったけど
全て解った・・・そんな気がした。
娘が「いいよ!」と言ってくれるなら
是非、そこで自立に向かっての一歩を踏み出してもらいたい!と願った。
その道は はるか彼方かもしれないけど
そこに向かわせて下さるのは、主ご自身である。
主は忘れておられるのではない、聞いておられないのではない
主は、生きて働いてくださっておられるのだ。ハレルヤ
そのお方が私たち人類と創造主なるお方との間に立ってくださり
全ての人類の背きの罪を身代わりに負ってくださって
十字架で死んで下さる為に
この汚れきった地に生まれてくださった日、クリスマスが来る。
グローリー、グローリー ハレルヤ~~アーメン