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「日本語は礼の言葉である」

2007-05-15 22:21:42 | 日本について
日本に来る前に、日本語に敬語があることはすでに知っていた。

(略)

しかし、日本に来て実際に勉強してみると、日本語における敬語とは、
中国流の「敬語」のレベルをはるかに超えた、
壮大なる言葉の体系であることが分かった。

中国語の場合、たとえば、相手の両親のことを指す時に「令尊・令堂」などと
尊称を使えばそれで事足りるが、こうした中国流の「修辞的敬語」とは違って、
日本語の敬語は尊敬や謙譲の意を表すために、
文法までも規則正しく変えていかなければならないという、
一つの組織化された「文法的敬語」の体系なのである。


たとえば、相手の両親に対して「令尊・令堂」と尊称を使うと、
当然「令尊・令堂は元気なのか」のようなぞんざいな聞き方は出来ない。
「令尊・令堂はお元気ですか」「お元気でいらっしゃいますか」と
言わなければならないのである。

(略)

言ってみれば、相手に対する敬意の一つを表すために、修辞から文法まで、
言葉使いの全体に、細かい心配りを払わなければならないのが、
まさに日本語なのである。日本語に敬語がある、というよりも、
日本語そのものが、すなわち敬語なのだ。


(略)

近代言語学の祖であるソシェールの考えによれば、
一つの「言語集団」としての民族の持つ「言語感覚」というものは、
まさにこの「言語集団の集団精神」の表れであるという。
だとすれば「礼の心」というものは、まさに礼語としての
「言語感覚」を見につけている日本民族の「集団精神」の一部となったはずである。


「私は『毛主席の小戦士』だった」石平 著
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何かの本で、その言葉が「ある」と言うことは、
その概念がその国に「ある」ということだそうです。
日本人として暮らしていると、その日本語の中に含まれる「礼の心」というものは
それほど意識してはいませんが(敬意の気持ちはモチロンありますよ)
言葉の体系として「ある」のですから、「日本語」という母国語を持つことに
誇らしく気恥ずかしくもありますね。

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