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第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」

2023-09-10 | 〈3.11〉系

第17回エチカ福島
テーマ:「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」
ゲスト:川島秀一さん
開催日時:2023年10月8日(日) 14:00~17:00
会場:新地町公民館(新地町谷地小屋字樋掛田40-1, TEL 0244-62-2085)


 去る8月24日、「ALPS処理水」の海洋放出が実施されました。海を生活世界としてきた人々の尊厳と、話し合いでものごとを進める民主主義を根底から破壊したこの政治決定には、やり場のない怒りと無力感を覚えずにはいられません。
 しかし、こうした思いの表明に対しては、即座に「科学的な理解が不十分だ」、「風評被害を煽る」という非難を向ける風潮が社会に蔓延しています。その背景には「計画通りの放出であれば、人や環境に与える影響は無視できるほどごくわずか」としたIAEA報告の権威を盾に、それに疑問を投げかける言説を一顧だにしない行政や大手メディアの姿勢があることは言うまでもありません。こうした「科学」の名のもとに、「ALPS処理水」海洋放出に対する「反対」や「不安」の表明を抑圧する空気に息苦しさを覚える人も少なくはないでしょう。
 そもそも、私たちは生活を営む上で、どれだけ「科学」的な要素を判断材料に取り入れているでしょうか。むしろ、人間の生において「科学」的なるものは、ごく一部の領野を占めるにすぎません。われわれの生活知は「科学」的な知識に覆いつくされているわけではありません。むしろ、「科学」という制度を前提に生かされるとき、私たちは躍動的な生を萎縮させる全体主義的な圧制を感じ取ります。そうだとすれば、いま必要なことは、「ALPS処理水」の海洋放出問題を科学論争に収斂させることではなく、それとは別に私たちの生活知や生の尊厳を形づくっているものを一つひとつ吟味することではないでしょうか。
 水俣病患者であり裁判闘争の闘士であった漁師の緒方正人さんは、水俣病事件の問いの核心は「命の尊さ、命のつらなる世界に一緒に生きていこうという呼びかけ」にあると言います。では、その「命」とは何か。緒方さんは「命」を考える上で、3つの重要な事実を挙げます。一つ目は水俣事件が始まって四十数年来、漁師たちの家では毒が少しは残っているかもしれない魚を毎日食べるのをやめなかったこと、二つ目は母親たちが胎児性水俣病の子どもが生まれても、その子と向き合いながら、次々と子どもを産み続けてきたこと、三つ目は水俣病被害者たちからはだれ一人殺していないということ、です。なぜこういうことができたのか。その理由について緒方さんは次のように述べています。

 魚を毎日たくさん獲って、それで自分たちが生き長らえる。魚によって養われ、海によって養われている。一年に二、三遍は鶏も絞めて食って、あるいは何年かに一遍は山兎でも捕まえて食っている。そういう、生き物を殺して食べて生きている。生かされているという暮らしの中で、殺生の罪深さを知っていたんじゃないかと思います。このことがなによりも加害者たちと違うところです。(『チッソは私であった』,葦書房,2001年)

 水銀が入っているかもしれない魚を食べ続ける。胎児性水俣病の可能性がある子を生み続ける。一見すると、「科学」的には非合理的な選択に見えるかもしれません。しかし、そこには、「命」のやり取りを生業とせざるを得ない「殺生の罪深さ」を知る漁民たちの一貫した生活知の論理と倫理が備わっていることが確認されます。そこには、けっして「科学」の議論に収斂されない生の奥深さが備わっています。そして、この議論こそは福島の「ALPS処理水」の海洋放出の問題にも当てはまることではないでしょうか。
 第17回となるエチカ福島では、新地町の漁師にして民俗学研究者である川島秀一さんをお招きし、海に生きるものにとっての生についてお話を伺いながら、「ALPS処理水」の海洋放出が始まったこの現実をどのように考えるべきか、その手がかりを参加者の皆さんで話し合います。ふるってご参加ください。