第2回アーレント『責任と判断』を読む会が、いわき市四倉・宮川家新居で開催されました。
宮川ご夫妻には新築祝いを口実に、読書会開催をお引き受けいただけましたこと、心より感謝です。
わざわざアーレントを読むという目的だけで7名も四倉に集まったというのは、ほとんど奇跡ではないでしょうか。
さて、読書会は前回読んだ箇所を振り帰るところから始めました。
ソクラテスが『ゴルギアス』で語った「自分が悪をなすよりも、悪をなされる方がましである」という命題は、アーレントにとってほとんど唯一の道徳命題といってもいいほど重要なものです。
本書を読むにあたっては、この命題の意味を考え続けることになるでしょう。
さらに、メアリー・マッカーシーの「誰かがあなたに銃を向けて〈お前の友人を殺せ、さもなくばお前を殺すぞ〉と言ったとすると、その人はあなたを誘っているのです。それだけです」とい言葉の引用は、アーレントらしい厳しさが見て取れました。
「脅迫されている」のではなく「誘われている」だけ。
これは法的責任ではなく、あくまで道徳責任を問題にしていることに注意しなければなりません。
アーレントの問題提起は「判断」の萎縮という点です。
『イェルサレムのアイヒマン』を出版した際に巻き起こった、いわゆるアイヒマン論争では「その場にいなかったものに判決を下すことはできない」という主張が繰り出されました。
たしかに、現場にいなかったものがアウシュヴィッツという途方もない犯罪について論じることに居心地の悪さを感じないわけにはいかないでしょう。
アーレント自身もそれを認めます。
が、しかし、それでは過去の出来事をさばくことはでいないではないか。
「わたしたちが裁く能力を行使するときにそもそも〈後知恵〉を使わずに裁かないことはできるのだろうか」。
自分たちの負い目から判断を拒絶するものたちへの厳しい批判がそこには込められています。
もう一点。
ホーホフートの『神の代理人』論争で取り沙汰された、ユダヤ人大量虐殺に沈黙したピウス12世の問題があります。
すなわち、この不作為に対する批判に多くのキリスト教徒の反発したことの問題をどう考えるか、ということです。
これらのことを確認したうえで、それを引き継ぐ議論が読書会においてなされました。
「道徳の自明性」
「汝殺すなかれ」が疑問の余地なく通じていた時代は終わった。
「汝殺すべし」が第三帝国の法となったその日から、道徳は自明であることは終わりを告げた。
「ならぬものはならぬものです」。
まるで、会津藩校日新館の教えを想い起しますが、道徳命題が問答無用の自明性はアウシュヴィッツの後には野蛮にすぎないものです(ちょっとアドルノをもじった)。
いや、だからこそ新しい規範や価値観を作り上げることで乗り越えるべきではないか。
もっともな意見です。
でも、アーレントはそもそも「厳密に道徳的で制御することのできる教訓」に懐疑的です。
なぜか。
戦後日本に照らしてみれば、天皇中心主義が8月15日以後、一昼夜にして民主主義に価値がひっくり返りました。
その時の道徳的混乱は様々な証言で確認できますが、ふるい道徳価値はあたらしい道徳価値に挿げ替えれば済むという話ではないことは容易に分かるでしょう。
アウシュヴィッツという剥き出しの怪物性は、全ての道徳的なカテゴリーを超越し、法的基準を破壊しました。
それは、罰することも許すこともできないという意味で、それまでの伝統的な道徳基準や教えが無効化されたという驚くべき出来事だったわけです。
そして、そのことは新たな道徳規範を構築したりするのとは別の仕方で道徳を考え直さなければならない、という「恐怖」と「恐れ」をともなったアーレとの問題提起を読み込む必要があるでしょう。
「「協調」の道徳的な問題」
道徳の問題が発生したのは、「強制的同一化」の現象が発生してからのことです。
この「強制的同一化」は原文(英語)によると”coodinaition"です。
初出の訳語では「協調」と訳されていましたが、むしろ訳者はそこに「自発性」よりも「強制的」な同一化という意味での協調の意味合いを込めたということでしょう。
こうした原文と複数の訳語を比較して読み込むことの重要性に気づかされるのも読書会の効用ですね。
この箇所で衝撃的なのは
要するに私たちを困惑させたのは、敵の行動ではなく、こうした状況をもたらすために何もしなかった友人たちのふるまいだったのです」という一文でしょう。
友人たちが見てみぬふりをした。
そのことの衝撃。
その人たちは本当に友人たちだったのか、というのはこの際どうでもよい問題です。
ユダヤ人大量虐殺は公然の出来事でしたが、これに「個人的な責任」ではなく「個人的な判断力がほとんどの人において崩壊したこと」を考えなければ理解できないということです。
このドイツにおける道徳の崩壊に対応するためには、道徳に関する知的に概念的な準備が必要だということではありません。
そんなものはもはや通用しない時代に突入してしまった。
むしろ、ここからアーレントが提起するのは「私たちの経験を包摂しうる一般的な規則も、カテゴリーもなし」にそもそも判断は可能なのか、という問題です。
「判断のアポリア」
「手すりなき思考」というアーレントの言葉はすでに人口に膾炙しているが、それまでの習慣的な基準を崩壊させる前例のない出来事、予測不可能な出来事に人間の判断力はいかにして働くのか
アーレントはこの「判断力」に「神秘的な性格very mysterious nature of human judgment」を与えています。
神秘的?
スピノザをこよなく愛する参加者はこの語の用い方に敏感に反応します。
神秘的?神様的?なんだよそれは?
人間の判断力をそんな超越的な能力に高めようというのか、という疑問でしょうか。
アーレントにとって「判断力」は書かれざる最後にして最大のテーマだったこともありますから、これは追々読書会の中で吟味していきましょう(と言ってこの場は逃げておく)。
それにしても、そもそも人間はなにも基準なしで判断することは可能なのでしょうか?
少しだけ立ち入った話をすれば、アーレントはカントの『判断力批判』、とりわけ美的判断力にその根拠を見出そうとしていました。
これはこれで別に議論が必要ですが、余談ながら、この感性をともなう判断力を正義に関する判断力に結びつけようとするところが
アカデミズムでは議論が紛糾するところでもあります。
「政治的な責任」
政治哲学者のアーレントが本書で道徳の問題を論じるところはたいへん興味深いところです。
アーレントは政治的責任と道徳的責任を区分します。
これは師匠のヤスパースの『罪責論』を踏まえていることは言うまでもないのですが、その根底には政治的責任と道徳的責任を混同するがゆえに「みんなに責任がある」という論理が導出され、結果的に本当に席になるものの責任を免罪してしまうことになることへの警戒が込められています。
父祖の罪は「政治的」な責任に対応すればよいだけで、個人的な罪悪感など感じる必要はない。
それはむしろ錯覚であり、しかもたちの悪い錯覚である。
これは、しばしば日本の戦争責任と戦後責任を混同することで、かつての大日本帝国の戦争責任を他国に批判されるまるで自分が責められているかのように受け取り、極端な反発をする現象を見ればよいでしょう。
もし、それが父祖と自分を同一視しているために罪責感や反発を感じるのであれば、それはやはり前近代的な共同体観を内面化している結果ではないでしょうか。
政治的責任とは、過去と現在、未来の時間的タガが外れていることを正すためおものであり、それは自己の罪悪感ではなく共同体の連続性のためにあるものなのです。
「歯車理論」の虚偽
組織の歯車に責任はあるのか?
戦争責任を問われた裁判で常に論争になる点です。
ユダヤ人を殺害することが法としてあり、官僚である私がそれに従ったことになぜ責任が問われるのか。
アイヒマンが終始訴えたことはこのことでした。
「だからと言って、誰も個人の責任を負わないということになるでしょうか」。
ここでの個人の責任とは何か?
職責という意味で、自分が関わった範囲の責任ということもあるでしょう。
たとえ、戦時中それが法律として正当化されていたとしても人道的罪という新しい罪概念は遡及的にその行為の罪を問います。
問題は個人の行為ということが一つ問われなければならないのが、裁判という場です。
しかし、人間は「歯車」であることを拒否できることもできる存在ではないか。
歯車として行為することは法律上の問題かもしれ合いが、その手前で善悪を判断し、それが誤っているのだと判断すれば、それを拒否する、降りることは可能であったはずだ。
それは歯車として行使する責任とは別の位相の責任を生じるでしょう。
では、その責任を問うのは誰なのか?
それが「私自身」なのではないか。
政治的責任は他者から問われる共同体の一員としての責任であるが、道徳的責任は他者から問われると同時に、その判断の逃避を自分自身から問われることの問題次元である。
そのことが本書の一貫したテーマとなってくるでしょう。
2時間30分をアーレントと格闘してもう脳みそはへとへとになったところで今回の読書会は終了。
そして、宮川夫妻の豪華な手料理がふるまわれ、新築祝いの饗宴へ突入していったのでした。
宮川夫妻、おいしい料理をありがとう!
次回は7月14日(土)16:00開始で、「裁判で裁かれるもの」(51頁)から読み始めます。
またお会いしましょう!(文:渡部 純)