最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●小沢疑獄vsユングの「シャドウ論」(1)

2010-01-18 08:45:17 | 日記
●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

●小沢疑獄vsユングの「シャドウ論」

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大筋を言えば、こうだ。

(1)どこから出たお金か知らないが、小沢氏は、
4億円で、秘書に土地を買わせた。
(2)うち5000万円については、その2日前、
どこかの土建業者から、裏金(=ワイロ)として
小沢氏が受け取ったものらしい。(ここが重要。)
(3)その大金の出所を隠すため(?)、そのあと
小沢氏は、銀行から4億円を借りた。
(あくまでも、「そのあと」である。)
つまり銀行から小沢氏が個人名義で借りたお金で、
土地を買ったことにしようとした。
(4)秘書らは、あれこれ日付をごまかすための、
小細工を重ねた。
(5)陸山会は、4億円を小沢氏に返却し、結局、
小沢氏は4億円を取り戻した(?)。

これに対して小沢幹事長は、「検察と全面対決!」と、
息巻いた。
民主党議員たちは、「ウォー」と大声をあげて、
それに呼応した(某県・民主党大会にて)。

問題は、小沢氏がもっていた4億円。
そのお金は、どこから出てきたのか?
また銀行から借りた4億円は、どこへ消えたのか?

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●毎日新聞

 毎日新聞(1-17)は、つぎのように伝える。

『・・・これまでの特捜部の調べによると、陸山会の当時の事務担当者で小沢氏の私設秘書だった石川議員は04年10月上旬、小沢氏から現金4億円を受領。東京都世田谷区の土地を約3億5200万円で購入したが、同年の収支報告書に記載しなかった。当時の会計責任者で小沢氏の公設第1秘書、大久保隆規容疑者(48)と、石川議員の後任の元私設秘書、池田光智容疑者(32)は、07年4月に小沢氏に4億円を返却しながら記載しなかったとされる。

 最初の4億円が渡された直後、陸山会は関係政治団体などから集めた4億円で定期預金を組み、これを担保に小沢氏名義で金融機関から融資を受け、小沢氏からの借入金として収支報告書に記載するなど複雑な会計処理を行っている。石川議員は「小沢氏の手持ち資金を隠すためだった」などと供述。特捜部は複雑な会計処理や虚偽記載への認識について、小沢氏に問いただしたい意向だ』と。

●「手持ち資金を隠すためだった」

 4億円という大金は、どこからどのようにして出てきたのか?
表向きは、「複雑な会計処理や虚偽記載への認識について、小沢氏に問いただしたい意向」となっているが、検察側の目的は、ズバリ、収賄罪での立件。
またそこまで行かないと、国民も納得しないだろう。

 が、小沢氏があがけばあがくほど、小沢氏は墓穴を掘るだけ。
小沢氏の一連の行為、態度は見苦しいというより、醜悪ですらある。
すでに石川議員は、「小沢氏の手持ち資金を隠すためだった」などと供述している。
まともなお金だったら、隠す必要など、ない。

●消えた4億円

 で、もう一度、金の流れについて、おさらいをしておきたい。

 当初、陸山会は、小沢氏から渡された4億円(これを4億円Aとする)で、土地を買った。
そのあと、小沢氏は、4億円(これを4億円Bとする)を銀行から融資を受けている。
陸山会は、「07年4月に、陸山会は、小澤氏に4億円(これを4億円Cとする)を返却している」(毎日新聞)。

 小沢氏が自分の資金で、自分の土地を買ったというのであれば、何も問題はない。
が、陸山会は、小沢氏から4億円Aを渡され、それで土地を買った。
そのあと小沢氏は、小沢氏名義で、銀行から4億円Bを借りた。
で、最終的に、陸山会は、4億円Cを小沢氏に返却している。
小沢氏は、その4億円Cを、銀行に返す。
となると、銀行から借りた4億円Bは、どこに、どのように消えたのか、ということになる。

 ・・・とまあ、こんな回りくどい言い方は、やめよう。
4億円Bは、マネーロンダリンされた形で、小沢氏の懐(ふところ)に戻った。
今回の事件が発覚していなければ、何かのことで、「4億円はどこから?」と聞かれたら、小沢氏は、あの笑みを浮かべて、こう答えたであろう。
「銀行から借りたもの」と。
つまりこれが今回の、一連の小沢疑獄の構造ということになる。

●シャドウ論

 そこで登場するのが、「シャドウ論」(ユング)。
「なぜ、シャドウ論?」と驚く人も多いかと思う。
が、もし私がここで、「小沢疑獄の構造ということになる」というだけで、ペンをおいてしまったら、ただの政治評論になってしまう。
が、これだけではおもしろくない。
別の角度から、つまり私の専門分野から、掘り下げて、この問題を考えてみたい。
それが、「シャドウ論」。

 が、この「シャドウ論」については、たびたび書いてきた。
つまり自民党政権というよりは、戦後の金権政治の中で、それを批判しつづけてきたはずの現民主党政権ですら、そのシャドウ(影)を引き継いでしまった。

 「シャドウ論」について、以前書いた原稿を、添付する。
これを読めば、人間の心が本来的にもつ欠陥が、理解してもらえると思う。
内容的に、かなり遠回りになるが、そこは許してほしい。

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【シャドウ論】

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●仮面(ペルソナ)

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ペルソナ(仮面)そのものを、職業にしている人たちがいる。
いわゆる「俳優」という人たちが、それである。

で、あくまでも一説だが、あの渥美清という俳優は、本当は気難し屋で、
人と会うのをあまり好まなかったという(某週刊誌)。
自宅のある場所すら、人には教えなかったという(同誌)。
が、その渥美清が、あの『寅さん』を演じていた。
寅さんを演じていた渥美清は、ペルソナ(仮面)をかぶっていたことになる。

といっても、ペルソナ(仮面)が悪いというのではない。
私たちは、例外なく、みな、仮面をかぶって生きている。
私もそうだし、あなたもそうだ。

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●みな、かぶっている

たとえばショッピングセンターで、深々と頭をさげる女子店員を見て、
「人間的にすばらしい人」と思う人は、まずいない。
顔には美しい笑みを浮かべている。
何か苦情を言ったりしても、おだやかな口調で、「すみません。ただ今、
お調べいたします」などと答えたりする。
彼女たちは、営業用のペルソナ(仮面)をかぶって、それをしている。
同じように、教師だって、医師だって、みな、ペルソナ(仮面)を
かぶっている。

最近では、さらにそれが進化(?)した。
インターネットの登場である。

今、あなたは、私が書いたこの文章を読んでいる。
で、あなたはそれを読みながら、「はやし浩司」のイメージを頭の中で
作りあげている。
心理学の世界では、これを「結晶」と呼んでいる。
そのあなたが作りあげているイメージは、どんなものだろうか。

私にはわからない。
それに結晶といっても、その中身は、みなちがう。
ある人は、「林って、理屈っぽい、気難しい男だな」と思うかもしれない。
また別のある人は、「わかりやすい、単純な男だな」と思うかもしれない。
文章を読む人の、そのときの気分によっても、左右される。

映画なら、まだそこに「像」を見ながら、相手のイメージを頭の中で
作りあげることができる。
しかし文章だけだと、それがさらに極端化する。
それがこわい。

●相手の見えない世界

以前にも書いたが、たとえばメールで、「お前はバカだなあ」と書いたとする。
書いた人は、半ば冗談のつもりで、つまり軽い気持ちでそう書いた。
しかし受け取る側は、そうではない。
そのときの気分で、読む。
たとえば何かのことで、その人の心が緊張状態にあったとする。
だから、それを読んで激怒する。
「何だ、バカとは!」となる。

もっとも小説家といわれる人たちは、こうした結晶を逆手に利用しながら、
読者の心を誘導する。
よい例が、スリラー小説ということになる。
恋愛小説でもよい。

たとえば「A子は、みながうらやむほどの、色白の美人であった」と書いてあったとする。
それぞれの人は、それぞれの美人を空想する。
その美人の姿は、それぞれの人によって、みなちがう。

●現実

が、ここで重要なことは、ペルソナ(仮面)は、ペルソナ(仮面)として、
(現実)とは、しっかりと切り離すこと。

たとえば学生時代、私にとっては、「ベン・ハー」イコール、
「チャールトン・ヘストン」であり、「チャールトン・ヘストン」イコール、
「ベン・ハー」であった。
私には区別がつかなかった。

しかしこうした現象は、何も私だけに起きた特殊なものではない。
映画ドラマの中の主人公を、(現実の人)と思いこんでしまう現象は、
よく見られる。
しかも若い人たちだけではない。
40歳前後の女性ですら、それが区別できなくて、韓国の俳優を追いかけたり
する。

が、相手を見るときはもちろんのこと、自分自身に対してもである。
ペルソナ(仮面)と(現実)は切り離す。
とくに、自分がかぶっているペルソナ(仮面)には、警戒したほうがよい。
この操作を誤ると、自分で自分がわからなくなってしまう。
欧米では、牧師に、そのタイプの人が多いと言われている。
みなの前で、神の言葉を語っているうちに、自分自身が(現実)から遊離してしまい、
自分のことを(神)と思いこんでしまう。

が、それだけではすまない。

●小沢疑獄vsユングの「シャドウ論」(2)

2010-01-18 08:44:53 | 日記


●シャドウ

このとき同時に、自分の中にある(邪悪な部分)を、心の中に別室に閉じこめて
しまう。
閉じこめながら、自分を善人と思いこんでしまう。
こうした現象を、あのユングは「シャドウ(影)」という言葉を使って説明した。
このシャドウが、別のところで、別人格となって、その人を裏から操る。
大教会の神々しいほどまでの牧師が、その裏で、少年や少女を相手に、性犯罪を
繰り返していたという例は、欧米では、たいへん多い。

が、さらに恐ろしいことが起きる。

このシャドウは、ときとして、そっくりそのまま子どもに伝わることがある。
心理学の教科書に出てくる例として、あの映画『復讐するは、我にあり』がある。
それについては以前にも書いたので、このあとに、そのとき書いた原稿を添付
しておく。

こういう例は極端な例であるとしても、親子の間でも、こうした現象はよく
観察される。

●シャドウを受けつぐ子ども

ある母親は、世間では「仏様」と呼ばれていた。
しかし2人の息子は、高校時代、ともに犯罪行為を犯し、退学。
周囲の人たちは、「どうしてあんないい母親なのに、息子さんたちは……?」と
言っていた。
が、こうした現象も、シャドウ論をあてはめてみると、説明がつく。
母親は、邪悪な部分、たとえば嫉妬、ねたみ、恨み、不満などを、心の中の別室に
閉じことによって、善人を演じていただけである。

そのシャドウを、いつも近くで見ていた息子たちが、受けついでしまった。

では、どうするか。

私たちはいつもペルソナ(仮面)をかぶっている。
それはそれでしかたのないこと。
ショッピングセンターの女子店員が、客に向って、「オイ、テメエ、そこの客、
泥靴なんかで、この店に来るなよ!」と叫べば、その女子店員は、そのまま解雇。
職を失うことになる。

この私だって、そうだ。

で、大切なことは、それをペルソナ(仮面)と、はっきりと自覚すること。
そして脱ぐときは、脱ぐ。
脱いで、自分に戻る。
ありのままの自分に戻る。
それをしないでいると、それこそ人格そのものが、バラバラになってしまう。
これはたいへん危険なことと考えてよい。

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シャドウについて書いた原稿を
添付します。

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【シャドウ論】

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仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

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●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。
するとやがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分
で、自分は善人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも
私は善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体
に演技ぽい。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。
それがシャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、
まあ、それに近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身
近にいる人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の
醜いところをそっくりそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、お
だやかで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜
い欲望が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好
きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、
そのシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができ
た。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単
位の話ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねた
まれると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみ
ならず、自分の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っ
ていました。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚
く、その人をののしっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなか
ったかと思います。母には、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの一
面を、そっくりそのまま受け継いでしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシ
ャドウのもつ、本当のおそろしさである。

●小沢疑獄vsユングの「シャドウ論」(3)

2010-01-18 08:44:26 | 日記


●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらな
いこと。といっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての
仮面。店員としての仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰っ
て家族を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、
それだけではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受
けつがれてしまう。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

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●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、
夫としての仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴
られても、にこやかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。
これを「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよ
い。ねたみ、うらみ、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、
ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事
件を起こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないこ
とがわかる。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンシ
ョンに住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育に
も熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言った
とする。「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰
よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思
って、そう言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウが
つきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断
している人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところ
がある。「あの人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですって
ねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、その
まま学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場
町であったがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断す
る基準が、出身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きつい
でしまう。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れよ
うとしている」と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる
基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』で
ある。佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みご
とな演技をしている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさるこ
とながら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、
榎津鎮雄との、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれ
とるけん」と言う。そんなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た
人なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印
象を与える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握ら
せる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不
倫関係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、
そっくりそのまま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげ
る原動力になった。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、そ
の仮面を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけ
ならまだしも、そのシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言え
る。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのま
まの自分を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、
まし。もっと言えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子
どもにとっては、好ましいということになる。

(はやし浩司 ペルソナ 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て は
やし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 結晶 はやし浩司 復讐するは我にあり シャド
ウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●最後に・・・

 民主主義が、もっともすぐれた政治制度であることは、疑いようがない。
ほかに代わる政治制度もない。
しかしその民主主義にも、欠陥がある。
欠陥だらけと言っても、過言ではない。

 大切なことは、その欠陥をていねいに、ひとつずつつぶしていくこと。
今回の小沢疑惑事件にしても、そうだ。
また欠陥を補うために、さらなる制度で保管していくこと。
たとえばそれを調べ上げる、検察側の公権力を強化する、など。
が、何よりも重要なのは、私たち自身が、賢くなること。

 「政治」といっても、民主主義が完成に近づけば近づくほど、結局はそれを支える「民」の集合体でしかない。
愚劣な民からは、愚劣な民主主義しか、生まれない。
醜悪な民からは、醜悪な民主主義しか、生まれない。
シャドウはシャドウを生み、それがどんどんと引き継がれていく。
政治は、あくまでもその結果でしかない。

 小沢疑獄事件・・・この問題だけは、「私たちはバカだった」だけでは、ぜったいにすませてはならない。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec. 09+++++++++はやし浩司

●電子マガジン(1-18日号)より

2010-01-18 06:45:29 | 日記
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.        =∞=  // 
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 18日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
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どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
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メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!

【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【雑談】

●WINDOW7

 居間のコタツの上には、2台のパソコンが置いてある。
16インチのノートパソコンと、10インチのミニパソコン。
ともにTOSHIBA製。
その16インチのノートパソコンを、今、ビスタから、WINDOW7に、アップグレイドし
ている。
その間に、10インチのミニパソコンを使って、この文章を書いている。
すでに1時間ほど、たった。
けっこう、時間がかかる……。

 現在は、「Window ファイルのコピー中」と表示され、(43%)終了という数字が見え
る。
もっと簡単にできると思っていた。
が、雑誌などを読むと、全体で、3~4時間もかかるそうだ。
(これはビスタをアップグレイドしたばあい。
新規にインストールしたばあいは、もっと速くできるとのこと。
そのばあいは、ビスタに残っていたデータが、すべて削除されてしまうとのこと。)

 今、やっと(69%)になった。

 アップグレード・キットは、1か月ほど前に手に入れた。
が、そのままにしておいた。
どうも自信がもてなかった。
それでこの1か月の間、何冊か雑誌を買ってきて、先にそれを読んだ。
勉強した。
前知識もなく、あわてて作業をすると、たいてい失敗する。
で、どうして今日になったか?
どうして今日、アップグレイドする気になったか?

 ハハハ。

 高性能のデスクトップパソコンが、12月22日に届く。
(i7)の64ビットマシンと言えば、わかる人にはわかる。
メモリーは、8GB。
今日は、その前哨戦。
まずこのノートパソコンで、使い勝手を試してみる。

 ……今、「ファイルのコピー」が終わり、今は、「プログラムの収集中」となった。
このあと、まだ「Windows ファイルの展開」「更新プリグラムのインストール」「プログ
ラムの転送」とつづく。

 私は、ただ画面を見ているだけ。
が、それが結構、楽しい。

●パソコンのない世界

 今では、逆に(パソコンのない世界)が想像できない。
パソコンがなかったら、私という個人だけをみても、仕事が止まってしまう。
それに今では、2~3万円を超える買い物は、たいていネットを使って、している。
息子たちのやり取りも、パソコン。
株や債権の売買も、パソコン。
それだけではない。
(ものを書く)という仕事も、パソコンでしている。
お金儲けが目的ではないから、「仕事」と書くのも、へんだが……。

 だから同年齢の人で、「私はパソコンをしていません」などと言う人に出会ったりすると、
「ハア……?」と思ってしまう。
「この人は、どうやって生活しているのだろう」と、思うこともある。

 つまりこうして、(パソコンをしている人)と、(パソコンをしていない人)の間に格差
が生まれる。
「情報格差」という格差である。
が、そういう人にかぎって、こう言う。
「あんなもの(=パソコン)なくても、一向に困りませんよ」と。

●庭の雛

 そのパソコンのすばらしさをあげたら、キリがない。
が、何がすばらしいかといって、世界中の最先端の情報を、地方の、しかも家庭の中で手
に入れることができるようになったこと。
それにまさるすばらしさは、ない。
画面の向こうは、巨大な図書館。
若いころはと言えば、何かの情報を手に入れるためには、図書館へ行かねばならなかった。
静岡市にある県立図書館へ通ったこともある。

 このことは、逆に、私が書く情報については、即、そのまま世界に向けて発信できるこ
とを意味する。
つまり情報に、(地方性)がなくなった。
私について言えば、(地方コンプレックス)がなくなった。
東京の第一線級の評論家が手に入れるものと同じ情報を、私も手に入れることができる。
(個人的なコネを経て得る情報は別だが……。)

 ……たった今、山鳩の雛を、庭の端に埋めてきた。
先ほどから何かあると思っていたが、よく見たら、山鳩の雛の死骸だった。
おとなの握りこぶしほどの大きさに成長していた。
たぶん栗の木から落ちてきたのだろう。
くちばしのところから、うっすらと赤い血が流れていた。
元気で育てば、大空を飛ぶことができたのに……。

 WINDOW7のアップグレイドは、まだつづいている。

●時間がもったいない

 現在は、「ファイルの展開中」(21%)。
その(21%)で、動きが止まったような状態になっている。
その右に、小さなドットが現れては消えたりしている。
動いていることは動いている。
こういうときは、ただひたすら、じっと待つ。

……静かな朝だ。
庭の木の葉も、動きを止めている。

見ると犬のハナは、先ほどまで山鳩の雛が死んでいたあたりを、懸命に鼻でかいでいる。
ものわかりのよい犬で、「鳩は友だちだ」と数回教えたら、それからは、鳩には近づかなく
なった。
鳩が庭で餌を食べていたりすると、わざわざ遠回りをして、鳩を避ける。

 まだ(21%)……。

 こんなことをしていたら、時間がもったいない。
ここで書くのを一休止して、午後からの仕事の準備に取りかかる。
時刻は、午前10時20分。
薄曇りの、のどかな朝。

●WINDOWメール

 昼少し前、ワイフが、テニスクラブから帰ってきた。
その少し前、私は、庭の枯れ木を集め、それを燃やした。
「まだしているの?」とワイフが聞いた。
「まだ……。あと少しかな」と、私。

 パソコンは、最後の仕上げをしているといった感じだった。
「WINDOW7にすると、速くなるの?」
「速くはならないが、軽快になるそうだ」
「フ~ン」と。

 ワイフはそのままキッチンに向かった。
向かったまま、「何を食べる?」と聞いた。
「何でもいい」と答えた。

 説明書が写真入りで、ていねいだったこともある。
アップロードは、無事済んだ。
あとは「WINDOWメール」を、ダウンロードすればよい。
WINDOW7には、Outlook Express(メールソフト)が、入っていない。
そのかわり、WINDOWメールというのを、自分でダウンロードして使うようになる。
その作業が少し、めんどう。

「どうして最初から、入ってないのかしら?」
「そうだな……。いろいろなメールソフトが出回っているからかな」
「でも、パソコンに触れるのがはじめてという人には、そんな作業は無理よね」
「そうだな……」と。
 
●アップグレイド、完了!

 こうして今日、ビスタからWINDOW7へのアップグレイドは、無事終了した。
かかった時間は、WINDOWメールの設定も含めて、ちょうど3時間。
パソコンを立ち上げると、琴の音で、コココ~ン、と。
それが私には、「ごくろうさん」と言っているように聞こえた。

 「これならWINDOW7とも、親しくなれそう」と感じた。


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【時間】

●動物的な勘(かん)

 今朝は、午前5時に起きた。
昨夜、床に就く前から、「明日は、5時に起きる」と心に決めていた。
どうしてもやりたいことが、あった。

 私のばあい、目覚まし時計は、不要。
その時刻になると、目が覚める。
うつ病の人も、そういうことが、できるという。
半眠半覚の状態だから、そういうことができるらしい。

が、私のばあいは、私の特殊能力。
(自分で、そう思っているだけだが……。)
眠っても、脳みその中の時計は、しっかりと働いている。
ほかに、方向感覚。
はじめて行ったような場所でも、道に迷うことは、めったにない。
つまりそれだけ、動物的な勘が優れているということ。
(自分で、そう思っているだけだが……。)

 そんなわけで、旅先でホテルや旅館に泊まっても、モーニングコールに
起こされたことは、一度もない。
モーニングコールが鳴る前に、目を覚まして、それを待つ。
方向感覚にしても、反対に、方向音痴の人が、私には理解できない。
私のワイフもその1人だが、今では私にすっかり頼りきっている。

●48枚、55分

 話がそれたが、起きるとすぐ、ウォーキングマシーンの上で、運動。
10分もすると、ジワーッと汗が出てくる。
今朝のように寒い朝は、この運動が、いちばん。
健康にもよい。
で、それが終わって、書斎へ入ったのが、5時20分ごろ。
正確には、5時23分。

 予定では、9時ごろまでに、若いころ指導・制作した教材を
UPLOADするつもりでいた。
全部で、48枚x4=192枚。

(1)一度、スキャナーで1枚ずつ、パソコンに取り込む。
(2)48枚ずつまとめて、FrikrにUPLOADする。
(3)それから今度は、1枚ずつHTMLを拾い出し、HPに張りつける。

 で、最初の48枚分の作業が終わるのに、ちょうど50分かかった。
スキャナーの性能があまりよくない。
加えて「My Picture」のそのFOLDERには、すでに2000枚近い
写真や本のページが、取り込んである。
多ければ多いほど、読み込みに時間がかかる。

 それで55分!

●5時間半

 昨夜、くだらないDVDを見てしまった。
途中で何度もやめようとしたが、ズルズルと見てしまった。
そのあと、「時間を無駄にした」と、後悔した。
3時間もあれば、若いころ、指導・制作した教材をUPLOADできる。
そう考えた。
だらしなく過ごすのも、3時間。
意味のあることをして過ごすのも、3時間。
 
 それでそのとき、「明日は、5時に起きる」と心に誓った。

 で、48枚x3=144枚までは、順調に作業が終わった。
が、残りの48枚というところで、ドジ!
同じ教材を、ダブッて、スキャンしてしまった。
そしてそれをそのまま、FrickrにUploadしてしまった。
枚数を数えながら作業をしなかった、私が悪かった。

 こうなると、HPに載せるとき、1枚ずつ、ほかのとダブっていないかを
確かめなければならない。
ダブっているのを、1枚ずつ削除する。
それはまるで何かのゲームをしているかのような感覚だった。
「まちがいさがし」でもしているような気分だった。
96枚の絵の中から、ダブッた48枚をさがして、削除しなければならない。

……というような愚かな作業を繰り返して、結局、すべての作業が終わったのが、
午前11時。
かかった時間は、5時間半!
(途中で、30~40分ほど、朝食をはさんだが……。)
 やり終えたとき、甘い陶酔感をともなった、心地よい満足感を覚えた。

 で、その作業の途中、私は何度も、こう考えた。
「時間が、ほしい」と。
というのも、私は、こうした繰り返しがつづく、単純作業が苦手。
探しものも、苦手。
ついでに言うと、魚釣りも苦手。
水の中に潜っていって、モリで突くのは好きだが、魚釣りは苦手。
性に合わない。

●どう生きるか
 
 同じ時間でも、使い方によっては、長くもなる。
短くもなる。
言い換えると、時間の使い方によって、人生は長くもなるし、短くもなる。
昨夜の私のように、「くだらない」と思いつつ、くだらないDVDを見つづけるのも
人生。
このばあいは、時間を無駄にしたことになる。

が、同じ時間を有効に使えば、人生の密度を、ぐんと濃くすることもできる。
そうでなければ、そうでない。
今朝の私は、有効に使ったとは言いがたいが、それでも満足感を覚えることができた。
昨夜の後悔を、(敵)ととらえるなら、その仇討ちをしたような気分。

 で、改めて私はこう思う。
「生きるというのは、時間の使い方の問題」と。 
長い、短いというのは、結果論。
大切なのは、中身。
どう生きるか、それが大切、と。

 あえて批判したくはないが、先の作業をつづけているとき、ふと、こうも思った。
「今ごろ、パチンコ屋でパチンコをしている人もいるだろう。
自分では楽しんでいるつもりなのかもしれないが、その一方で、時間をドブへ捨てて
いるようなもの」と。

 こう書くのは、たいへん失礼なことというのは、重々、承知している。
パチンコすることによって、気分転換を図っている人も多い。
夕食後、一家団欒で、テレビのバラエティ番組を見ている人もそうだ。
しかし(時間)というのは、金の砂時計のようなもの。
若いときは、私もそれほど強く意識しなかったが、しかしこの年齢になると、それが
よくわかる。
金の砂時計。
お金にたとえるのも、どうかと思うが、1グラム3400円(09年12月)の、金の
砂時計。
(時間)には、それ以上の価値がある。
その価値に気づいたら、時間の過ごし方、人生のとらえ方も、少しは変わってくるはず。

 ともかくも、与えられた……というより、残された時間は、あまりにも短い。
明日、死の宣告がなされても、うろたえないように、今日までの分を、完全に燃焼させて
おく。

 ……とは言っても、それができたと思ったことは、一度もない。
毎朝、「今日こそは!」と思って、その日を始める。
しかし寝るときになると、「やっぱりだめだった」となる。
が、今朝は、少し違った。
完全燃焼とまではいかなかったが、軽い達成感を覚えた。
そのせいか、午後は、ずっと気分がよかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Dec.09+++++++++はやし浩司

●12月9日(映画『イングロリアス・バスターズ』)(Inglourious Basterds)

 昨夜は仕事が終わってから、ワイフと、ブラッド・ピット主演の『イングロリアス・バスターズ』という映画を観てきた。
意味のない、ただの殺戮(さつりく)映画。
このところブラッド・ピット主演の映画には、がっかりさせられることが多い。
星は、2つか3つの、★★。

 スポーツ感覚で人を殺すのも、どうかと思う。
やり方も残忍。
殺した相手の、頭の皮をはぐというのも、どうかと思う。
つまりその程度の映画。
殺す側の主人公のほうよりも、殺される側のドイツ兵のほうに、同情してしまった。
つまり映画としては、駄作。
観終わったあとの気分も悪かった。

 で、今朝は、映画館で食べたポップコーンや、スルメが、まだ胃の中に残っていて、ど
うも気分がよくない。
軽い頭痛もある。
やはり深夜劇場というのは、体にあまりよくない。

 ……と、まあ、この程度の批評なら、だれにでもできる。
そこでもう一歩、話を進めてみる。

(2)

2010-01-18 06:45:11 | 日記


●パラドックス

 最後のところで、映画館ごと、ヒットラー以下、ナチスの幹部たちを、まとめて焼き殺
すというシーンが出てくる。
その劇場でヒットラーが観ていた映画は、戦争映画。
ひとりの勇敢なドイツ兵が、つぎつぎとアメリカ兵を撃ち殺すという映画。
わかるかな、このパラドックス?
戦争映画を笑って観ている人を、笑いながら殺す。
そういう戦争映画を、私たちは笑いながら観ている。

 つまりアメリカ兵をつぎつぎと撃ち殺す映画を、笑いながら観ているヒットラー以下、
ナチスの幹部たち。
が、その映画館は放火され、爆破される。
ドアにはすべて施錠してある。
逃げ場はない。
まさに大量虐殺。
それを笑いながら観ている、私たち観客。

 つまりヒットラーと私たち観客は、どこもちがわない!
まったく相対立する立場にいるようには見えるが、中身は同じ。
考えてみれば、もともと戦争というのは、そういうもの。
アフガン戦争を例にあげるまでもない。

●正義

 アルカイダはアルカイダの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
アメリカはアメリカの論理で、自分たちの正義のために戦っている。
もともと「正義」というのは、そういうもの。
立場が変われば、正義は不正義になり、不正義は正義になる。
自分たちの都合で、いかようにも変化する。

ついでに言えば、正義と不正義がごちゃ混ぜになったとき、戦争は、泥沼化する。
(あるいはその逆でも、よいが……。
泥沼化すればするほど、正義と不正義は、ごちゃ混ぜになる。)

つまり戦争には、加害者も被害者もない。
戦争にかかわりあった人すべてが、加害者であり、同時に、被害者。
「戦争」がもつ愚劣さは、この一点に集約される。

 で、ナチスにはげしい敵意を抱くユダヤの人たちには、おもしろい映画かもしれない。
笑って観る人も多いかと思う。
しかし私たち日本人にも、その(おもしろさ)をわかれと迫られても、それは困る。
ドイツ人に対して、あそこまでの敵意はない。
映画を観ていて気分が悪くなったのは、そのため。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 正義 不正義 戦争論)

【ボケ防止論】

●映画

 その映画(『イングロリアス・バスターズ』)を観ながら、こんなことを考えた。

 「今、観ている映画にしても、いつまで記憶に残るだろうか」と。

現在、月に4~5本は、劇場で映画を観ている。
「ボケ防止にはよいのではないか」と、勝手にそう考え、そうしている。
(実際にボケ防止としての効果があるかどうかということについては、わからない。)

 先週は、『カールじいさんと空飛ぶ家』というのを観た。
が、その前に観た映画については、題名どころか、内容すら思い出せない。

 「……何だったかなア……?」と。

 ……今、やっと思い出したが、その前に観た映画は、『2012』だった。
つまりこうして記憶というのは、つぎつぎと頭の中に入ると同時に、同じくつぎつぎと頭
の中から消えていく。
が、映画だから、まだよい。
毎回、ストーリーが、大きく違う。
あとになって、「2012はどんな映画だった?」と聞かれたら、ある程度は、その内容に
ついての話をすることができる。

 が、これがたとえば野球中継のようなテレビ番組だったら、どうだろうか。
サッカーの試合でもよい。

●脳みその穴

 「変化」といっても、ある一定の枠(わく)の中に、閉じ込められてしまう。
とくに印象に残っている試合は別として、日々の食事のように、記憶にさえ残らない。
観て楽しんで、それでおしまい。
覚えて忘れて、それでおしまい。
それを繰り返す。

ボケがひどくなると、食べたことすら、忘れてしまうという。
同じように、野球中継を観たことすら、忘れてしまう?

 若いころは小さな穴かもしれない。
しかし加齢とともに、その穴は、どんどんと大きくなっていく。
「穴」というのは、脳みその底の穴をいう。
その穴から、知識や知恵、経験や手続きが、どんどんと下へこぼれ落ちていく。

 毎週のように劇場へ足を運んで映画を観ていると、そのことが、実感としてよくわかる。
先にあげた『2012』にしても、かなり印象に強く残った映画である。
そんな映画でも、つぎに『カールじいさんと空飛ぶ家』を観、そのあと『イングロリアス・
バスターズ』を観るころには、忘れてしまう。

 考えてみれば、これは恐ろしいことである。
というのも、忘れたということに気づかないまま、忘れていく。
気がついたときには、ボケは、再起不能の状態のところまで進んでいる!

 だからというわけでもないが、「ボケ防止」といっても、映画程度では、ボケ防止になら
ないのではないか。
どこかの音楽会へ行くとか、演劇を観賞するとか。
美術館へ足を運ぶのもよい。
もちろん旅行でもよい。
つまり努力して、その(変化)の枠を大きくしないかぎり、何をしても、ボケ防止として
の効果はない(?)。

 繰り返しになったとたん、枠の中に閉じ込められてしまう(?)。

 いわんや、毎週野球中継を観る程度の変化では、効果はない(?)。
昨年、他界した私の実兄ですら、死ぬ1、2年前、こう言っていた。
「野球なんて、どれも同じ」と。
実兄は、うつ(鬱)から認知症に似た症状を、そのとき発症していた。

●みな、同じ

 要するに私たちの脳みそは、日々に、どんどんとボケているということ。
しかもタチの悪いことに、それに気づかないまま、ボケているということ。
「私はまとも」と思っている間にも、どんどんとボケていく。
脳のCPU(中央演算装置)からボケていくから、理屈の上では、それに気づくことはな
い。

 その点、肉体のばあいは、自分の顔や体を鏡に映すことによって、老化の度合いを知る
ことができる。
たるんだ胸や腹、それに尻。
それを見ながら、「ああ、私も年を取ったなア」と。

 しかし脳みそのばあいは、それがわからない。
聞くところによると、あの特別養護老人ホームにいる老人たちにしても、自分で自分のボ
ケを自覚している人は、まずいないという。
みんな自分では、「私は若いころと同じように、利口」と思っているらしい。

 このことは、子ども(幼児)についても言える。

 先日も、「3+4」の問題を、私が計算機を使って計算してみせたら、(もちろん演技で、
そうしたのだが)、真顔で私にこう言った子ども(年長・女児)がいた。

「先生、そんな問題もできないの!」と。

 特別養護老人ホームの老人たちを、笑ってはいけない。
子どもたちを、笑ってはいけない。
私たちと彼らは、どこも違わない。
まったく、同じ。

●では、どうするか?

 ボケについては、まず、自分を知る。
すべては、そこから始まる。
幸いにも私のばあいは、中学生や高校生にものを教えるという立場で、ある程度、自分を
知ることができる。

 昨日は、高校生にベクトルを教えた。
ある高校生が、いきなりこんな問題をもってきた。

「a(→)=(1、2)、b(→)=(1、ー1)、c(→)=(5、4)のとき、sa(→)+tb(→)=c(→)となった。
sとtの値を求めろ」と。

 きわめて初歩的な問題だが、実のところ、高校生にベクトルを教えるのは、10年~ぶ
り。
英語なら、予習なしでも、高校3年生まで教えられる。
が、数学は、そこまで得意ではない。

で、こういうとき私は、まず、「こんな簡単な問題は、私にできないはずはない!」と言
い聞かせながら、教え始める。
とたんカーッと、頭に血が上っていくのがわかる。
つまりそれが大切。
言うなれば、サビついた脳細胞を、そのつど血で洗う。

 が、もしこの段階で、「私にはできない」と逃げてしまったら、どうか?
頭は冷えたまま。
頭に血が上ることはない。
そのままベクトルを忘れてしまう。
が、これではいけない。

つまりそうした場を、日常的に、身のまわりに作りあげていく。
「頭に血が、カーッと登るような場」を、である。
それがボケ防止ということになる。

 けっして、同じことを繰り返すようになってはいけない。
それには映画も、野球中継もない。
繰り返すようになったとたん、ボケ防止としての意味を失う。

 常に新しいことに挑戦し、脳細胞に刺激を与えていく。
枠を広げる。
それが結局は、ボケ防止になる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 ボケ ボケ防止 ボケ防止論)


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●官民人材交流センター

+++++++++++++++++

官僚の天下りを規制しようという目的で誕生したのが、
「官民人材交流センター」。
これが官僚自身の手によって、骨抜きにされた上、
今、現在(09年12月)は、停止中。
鳩山政権は、センターの廃止の方針をすでに決めている。

なぜか?

+++++++++++++++++

●流れ

 当初、官民人材交流センターの発足に対して、官僚たちは、猛反発した。
が、どういうわけか、麻生政権になると、一転、実現に向けて積極的に動き出した。
妙に協力的になり、懇談会を立てつづけに開いた。
なぜか?

 人材センターを職員10人規模の、「形だけの」組織にすることにより、センターその
ものを形骸化するためである。
つまりセンターを、各省庁からあがってきた、書類を「ホッチキスで留めだけの機関」
にする。
そうすれば、官僚たちは、今まで通り、自由に天下りできる。
しかも「官民人材交流センター」という公的機関のお墨付き。
堂々と天下りできる。

●限度額の引き上げ

 そこでセンターを立ち上げる際の懇談会では、こう決まった。
「官僚の年収に見あう、年間1400~1600万円以上の事業を、国から随意契約で
請け負っている法人には、官僚を天下りさせない」と。
実際には、「1000万円程度なら、人件費をカバーできない」との意見が出された。

 こうすれば、天下り先の企業は、官僚を迎え入れるだけの(うまみ)を、なくす。
企業が、なぜ官僚たちを迎え入れるかといえば、持参金としてもってくる随意契約が、
ほしいから。
その随意契約が年収程度ということになれば、受け入れるだけの(うまみ)がなくなる。

 ところが、である。

 官民人材センターが、実際に発足してみると、その限度額が、官僚たちによって、
勝手に、1億円に引き上げられていた(中日新聞)。

●「懇談会」「会議」というインチキ

 官僚たちは、つぎのような手法を使って、自分たちに都合のよいように、利益を誘導
する。
この方法は、日常茶飯事的に、中央省庁のみならず、地方の県単位、市町村単位でも
使われている。
私たち庶民は、こうしたインチキには、じゅうぶん、注意したらよい。

(1)まず適当に、イエス・マンを中心とした、メンバーを選定する。
(2)選定には、基準はない。自分たちにとって都合のよい人間を選ぶ。
(3)「~~懇談会」「~~会議」もしくは、それに類する名称をつけて、会議を開く。
(4)会議の議題、目録、内容は、あらかじめ、役人側の方で用意する。
(5)議長には、それなりの有力者、実力者が選ばれる。会議の冒頭で、多数決という形
で選ばれる。
(6)世間で騒がれている問題についての会議ほど、メンバーを多くする。つまりこうす
ることによって、それぞれのメンバーの発言時間を少なくする。
(7)会議は、1回につき、2~3時間程度。必要な資料は、役人側の方で用意する。
(8)つまり会議は、あくまでも形式的。結論として出される答申の雛型まで、役人側
で用意することが多い。役人側で用意した答申の雛型(役人側は、「書記が会議の内
容をまとめた」と言うことが多い)を、修正、訂正、加筆しながら、会議のメンバ
ーは、答申として提出する。
(9)その答申をもとに、役人たちは、あとは、やりたい放題。

 そのため答申として提出される文書の内容は、総括的、かつあいまいなものほど、よい。
今回の「官民人材センター」にしても、そうである。