最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●失聴

2010-01-15 10:23:30 | 日記
●平均寿命まで、あと15年(少し暗い話)

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今年、私は満63歳になる。
男性の平均寿命は、78歳前後ということだから、
その78歳まで、あと15年。

「平均寿命」という言葉に併せて、
最近では、「健康寿命」という言葉を使う。
「健康でいられる年齢」という意味である。
ふつう(平均寿命)-10年で、計算する。
それでいくと、健康寿命は、68歳。
そのばあい私の健康寿命は、あと5年。
78歳になったとたん、ポクリと死ねるという
わけではない。
68歳以後は、いろいろな病気との闘いという
ことになる。

ましてや80歳を過ぎて、健康でいられるなどとは、
考えていない。
どこかのホームで寝たきりという状態になるかもしれない。

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●密度

 (時間)は同じとしても、与えられた時間をどう生きるか。
それで、時間の長さは変わる。
要は、密度の問題。
仮に平均的な人より、2倍の密度の人生を送れば、残りの15年を、30年にすることができる。
反対に、2分の1の人生を送れば、残りの15年は、7年半になってしまう。
が、実際には、加齢とともに、脳のCPU(中央演算装置)の働きは、鈍くなる。
どんなにがんばったところで、若いときのようなわけにはいかない。
20代のころの10年と、60代になってからの10年は、明らかにちがう。
中身がちがう。
密度がちがう。
脳にも周波数のようなものがある。
脳の中心部にある視床下部の先端から出る信号も、そのひとつ。
その周波数そのものが、少なくなる。

 このことは、幼児や子どもと接していると、わかる。
彼らのもつ周波数は、私たちの世代がもつ周波数とは、明らかにちがう。
テンポやリズムがちがう。

 つまり「長生きをする」というのは、時間の問題ではない。
密度の問題ということ。

●忘れて消える情報

 このところ少し心境に変化がみられるようになった。
たとえばDVDを観ていても、「つまらない」と感じたとたん、同時に「時間を無駄にした」と思うようになった。
楽しむといっても、そのあと、「だから、それがどうしたの?」という部分がないときには、それを楽しむことができない。
やはり「時間を無駄にした」と思ってしまう。

 たとえば今夜も、1時間ほど、BS放送を観た。
そこはまさに情報の世界。
洪水のように、ドドーッ、ドドーッと、情報が飛び込んでくる。
たまたまNHKでは、ニュージーランドの山脈を、紹介していた。
美しい山々だった。
しかしそのあと、すぐ私は、こう思ってしまった。
「だから、それがどうしたの?」と。

 むしろガイドへ払う、ガイド料が、日本円で1万5000円~2万円というテロップに、驚いた。
1名分の料金である。
10名も連れていけば、15万円~20万円ということになる。

 明らかに円安である。
日本の(円)の価値が、さがりすぎている。
現在(1・13日)、1ニュージーランドドルは、68円前後。
「1ドルは、半分の34円でもいい」と。

 ・・・とまあ、そんな美しい景色を見ながら、そんなことを考えてしまった。

●還元

 再び、健康論。

 この健康論には、もうひとつ重大な問題が隠されている。
「だから、どうなの?」という問題である。
つまり健康というのは、いわば、(道具)のようなもの。
たとえて言うなら、パソコン。
いくら高性能のパソコンをもっていたとしても、使い方を知らないのであれば、宝の持ち腐れ。

 恩師の池田英雄先生(鵠沼在住)は、いつもこう言っている。
「若い人たちに還元すること」と。
「老後の命や健康は、若い人たちに還元するために使うべき」と。
すばらしい言葉である。

 もし残された人生を、自分のためだけに使うのであれば、・・・これは私が今、実感しつつあることだが、空しいだけ。
この年齢になると、遊べば遊ぶほど、そのあとに空しさが襲ってくる。
その空しさを紛らわせるために、同じように空しさを味わっている人たちと、慰めあう。
酒を飲む。
うさ晴らしをする。
愚痴を言い合う。
そんな人生になってしまう。

●余談

 ところで今朝、起きたときに、こう考えた。
ここまで書いたことと、まったく関係ない。
ないが、一度は、書いておきたい。

 よく歳を取ると、もの忘れがひどくなる、という。
しかしこの考え方は、正しくない。

 (記憶)というのは、(記銘=脳に記憶を刻む)→(保持=脳の中に保つ)→(想起=思い出す)という、3つのプロセスを経て、(記憶)となる。

 老人になると、第一に記銘力が弱くなる。
・・・というより、その努力をしなくなる。
ちょっとだけ聞いて、それで覚えたような気になる。
これがいけない。
本当に記銘したければ、何度も復唱する。
数分、あついは1、2時間たったあと、もう一度、復唱する。
自分の脳みそを過信してはいけない。

 保持力については、その脳細胞が死滅しないかぎり、若い人たちとは、それほど、変わらない。

 問題は想起力。

 記憶のメカニズムは複雑で、それぞれの記憶は、そのつど、てんでばらばらな部位に記憶される。
言うなれば、本が散乱した書庫のようなもの。
歳を取ると、それがますますひどくなる。
けっして、想起力そのものが、弱くなるわけではない。

 たとえば1年前にどんな映画を観たかを忘れてしまっていても、同じ映画の一部を観ただけで、その映画を思い出したりする。
何かのきっかけがあれば、思い出す。
つまり「想起力」というのは、「想起法」の問題ということになる。

 たとえば子どもの名前を覚えるときは、私は、その子どもの名前と、友人の名前と結びつけたりする。
近所の知り合いの人の名前でもよい。
また忘れたときは、心の中で、「ア・・・、イ・・・、ウ・・・」と順に探していく。

 こうして考えていくと、「老人になると、もの忘れがひどくなる」と、記憶をひとまとめにして考えるのは、正しくないということになる。

 が、ひとつだけ、気になることがある。

 たとえばこうして書斎の中で、パソコンに向かって文字を叩いている。
叩いていると、居間でしなければならない仕事が、3つとか4つ、頭の中に浮かんでくる。
「あれと、あれは、しなければいけない」「あれは、カバンの中にあるから、あとで書斎にもってこよう」とか、など。

 ところが実際、居間へおりていくと、1つや2つは、覚えているが、残りは忘れてしまう。
そして再び、書斎に戻ったとき、「しまった、あれを忘れてた!」となる。

 こういう現象を、どう理解したらよいのか。
「拡散思考」という言葉があるのかどうかは、知らないが、その拡散思考力は、たしかに低下する。
ひとつのことを考えていると、そのことだけで頭の中がいっぱいになってしまう。
そのため、ほかのことを忘れてしまう。

 このことも子どもたちと比較してみると、よくわかる。

 子どもたちは、何かひとつのことをしながらも、いつもそのつど、別のことを考えている。
結局はそれが脳の柔軟性ということになる。
その柔軟性が、なくなる。

●寿命

 話を戻す。

 「がんで余命は、1年」と言われれば、ショック。
しかし「平均寿命まで、あと15年」と言われれば、そういったショックはない。
「ひょっとしたら、あと20年は生きられるかもしれない」という望みがある。

 が、まったくショックがないかと言われると、そうでもない。
このところ温泉につかっていても、その老人の年齢が、よく気になる。
「あの人は、何歳くらいだろうか」
「自分もやがて、ああなるのか」と。

 こればかりは、DNAの問題だから、どうしようもない。
仮に今、健康でも、私たちは確実に老人になる。
ヨボヨボになる。
避けようがない。

 で、私は最近、よくこう考える。
「これからの15年間が勝負だな」と。
つまり緊張感。
その緊張感が、日増しに強くなってきた。

 だからこう思う。
「しまった!」と。

 つまらないことで時間を無駄にしたようなとき、だ。
・・・話は、最初に戻ったので、このエッセーは、ここまで。
みなさん、おはようございます。

2010年1月15日(金曜日)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 老人の心理 記憶力 池田英雄 還元 平均寿命 
健康寿命)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●失聴

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1月13日、朝。
目が覚めたら、音が聞こえなくなっていた。
もともと左耳は、32、3歳ごろ、聴力を
失っている。
そのときは焼けるようなはげしい痛みがあった。
たまたま年末で、すぐ行ける医院もなかった。
それで氷で患部を冷やしてすませた。
その痛みが取れたとき、聴力は消えていた。

が、今回は、右耳。
自分の声が小さく、海の底から聞こえてくるような
感じ。
キンキンと高い音だけが聞こえる。
まわりをすませても、いつもなら聞こえるはずの
風の音も聞こえない。
窓の外では、栗の木の葉が、はげしくゆれていた。

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●不安感

 起きるとすぐ、ワイフに話しかけた。
ワイフは、洗面所で化粧をしていた。
「耳が聞こえない」と言うと、何やら言った。
「よく聞こえない」と言うと、今度は大きな声で、「どうしたの?」と。

私「わからない。昨夜、1時ごろまでは何ともなかった」
ワ「どんなふうに聞こえないの?」
私「ほとんどだ・・・」と。

 「おかしい?」という思いが一巡すると、今度は不安感が私を襲った。

●失聴

 ワイフと話している間に、耳が聞こえなくなっているのを、確信した。
口は動くが、部分的な高い音以外は、聞こえない。
私はいつものように、ウォーキングマシンの上で、10分ほど運動をこなした。
いつものような足音も、モーターの音も、聞こえなかった。

 ときおりワイフが何やら話しかけてくるが、それも聞こえない。
耳の中が、ボンと詰まったような感じ。
朝起きたとき、軽いめまいがあったのも気になる。
三半規管がやられると、そうなる。
中耳なら、まだ治療法はある。
三半規管だと、深刻。

 ワイフは「耳鼻科へ行ったら」と声をかけてくれた。

●耳鼻科

 耳鼻科には、不信感が強い。
ちょうど30年前になるが、今でいう偏頭痛で、頭を割られそうになったことがある。
当時はまだ偏頭痛の診断法も、治療法も確立されていなかった。
それもあって、医師は、子どものころの慢性中耳炎だけをみて、悪性腫瘍と誤解したらしい。
あとでわかったことだが、私の左耳の奥には、真珠腫と呼ばれるかたまりがあった。

 医師は、「左耳が聞こえなくなったのは、それが原因」と断定した。(・・・らしい。)

 が、そのつぎの日、別の病院で診断してもらうと、今度は反対に、「風邪でしょう」ということになった。
たまたま近くで、大学の先輩が勤務医をしていた。
その人の紹介ということもあって、その病院では、3時間あまりかけて診察してくれた。
で、風邪薬をもらって飲むと、2日後には、頭痛も消えていた。
が、左耳の聴力は以後、もどっていない。
おそらくあのとき、耳と脳をつなぐ神経が焼き切れてしまったためではないか。

 しかしそれが今でもトラウマになっている。
耳鼻科に対する不信感も、そのとき生まれた。
もっとも今から30年近くも前のこと。
当時はまだ、医療水準も、その程度だったのかもしれない。

●W医院

 かかりつけの内科医院へ行くと、医師は話を聞くやいなや、「耳鼻咽喉科へ行きなさい」と言った。
「突発性難聴だったら、早く治療を始めたほうがいい」と。

 私はそのまま、知り合いのW耳鼻咽喉科へ向かった。
私のHPでは、世話になっている。
W耳鼻咽喉科には、私のマガジンの申込用紙を置いてもらっている。
たがいに無料で、宣伝しあっている。

 しかしドクターとゆっくり話すのは、今回が、はじめて。
が、そんな心の余裕はなかった。

 ていねいに話を聞いてくれたあと、ドクターは、6種類の薬を処方してくれた。
「突発性難聴の薬も入っています」と。

●不安

 本当の不安が、私を襲ったのは、医院を出たあとのことだった。
「仕事はどうしよう」と考えたとたん、奈落の底にたたき落とされたようなショックを覚えた。
「子どもたちの声が聞こえなければ、子どもの指導もできない」と。

 ワイフはそういう私の横にいて、「1週間、休みましょうか」とか、「補聴器をつければ何とかなるわよ」とか、言った。
そのつど、「そんな簡単な問題でもないのだがなあ」と思ったが、それは言わなかった。
反論する気力もなかった。

●健康

 健康というのは、いつもそうだが、それを失ってみて、そのありがたさがわかる。
それまでは、わからない。
そこにあるのが、当たり前。
私もそのときまで、耳のことは考えていなかった。
左耳が聞こえないから・・・ということで、右耳は大切にしてきた。
しかし今度は、前兆症状は、まったくなかった。

 ドクターに、「突発性難聴には、前駆症状がありますか」と聞くと、ドクターは、「自覚症状がないまま難聴になる人が多いです」と教えてくれた。
「左耳のときは、焼けるように痛かったです」と言うと、「そのときは風邪か何かで、そうなったのでしょう」と。

●症状

 「75歳まで現役でがんばるぞ!」と宣言した矢先のこと。
出鼻をくじかれたような感じだった。
「こんな調子なら、65歳どころか、ぼくの仕事も今月まで」と。

 仕事の段取りが、クルクルと頭の中で回転した。
回転するだけで、まとまらない。
さみしかった。
つらかった。
家に帰って、横になった。
少し眠れば、症状もやわらぐと思った。
しかし朝のときと、それほど、変わらなかった。
耳鳴りだけが、ジンジンと響いた。
それ以外は、無音の世界だった。

●水がたまる

 「そう言えば・・・」ということで、一度、こんなことがあったのを思い出した。
20年近く前のこと。
そのときも何かしら、耳がふさがったような感じがした。
そこで佐鳴湖の近くの医院へ行くと、すぐ鼓膜切開をしてくれた。
中にたまった水を吸い出してくれた。
とたん、症状が軽くなった。

 「それかもしれない」と思った。
だから午後、再び医院へ向かった。
仕事はすべてキャンセルした。

 ドクターは、「そういう薬も入っていますから、まず炎症を抑えることです。水も少しはあるかもしれませんが、炎症が収まれば、水もなくなります」と。

●8000種類以上

 病気というのは、ある日、突然、やってくる。
しかもまったく予期せぬところから、やってくる。
一度、家庭医学書を見て、驚いたことがある。
800ページ近い医学書だったが、病名だけで、その10倍以上。
簡単に計算しても、8000種類。
言うなれば、8000本のポールをよけながら、車を運転するようなもの。
毎日、ひとつずつ病気を経験しても、20年以上かかる。
「8000種類」というのは、そういう数字である。

 生きていることも奇跡だが、病気でないということも、これまた奇跡。
8001本の中から、1本だけの当たりくじを引くようなもの。

●加齢とともに

 もっとも加齢とともに、こうした病気は多くなっていく。
みなが、みな、ある日突然、ポックリと死ぬわけではない。
徐々に、徐々に、少しずつ、健康を害していく。
私もこの半年だけで、いろいろな病気を経験した。

 最近では、腰痛。
これは重い机を持ちあげたため。
原因はわかっていたが、そのつど、「このまま一生つづいたら、どうしよう」と心配した。
そのころ、同時に、EDになった。
「ぼくも、そろそろバイアグラの世話に・・・」と思った。
腰痛とEDは、どこかで関係しているらしい。
(これは私の素人判断。)
ほかに寝ていて頭を急に持ちあげたようなとき、後頭部の神経が束になって、ギクッと痛いときがある、などなど。
そんなわけで今年の年賀状には、こう書いた。
「今のところ、かろうじて健康ですが・・・」と。

●不安の中身

 「仕事をどうするか」という不安。
が、仕事が、問題ではない。
仕事にまつわる(生きがい)。
その(生きがい)をどうするか。
もし今の私の前から、子どもたちの姿が消えたら、思考は停止状態になってしまう。
そういう点では、「教育」というのは、ほかの世界とは、ちがう。
そこに子どもがいての「教育」。
子どもがいての「教師」。
よい例が、退職した教師たち。

 ほとんどの教師たちは、退職すると同時に、みな、異口同音にこう言う。
「教育なんて、もうこりごり」と。
たいていの人は、そのまま、教育の世界から、遠ざかってしまう。

 実は私もその1人かもしれない。
今は現役で、何とか(子どもたちの世界)にしがみついている。
が、もし子どもたちの姿が私の前から消えたら、私もこう言い出すだろう。
「教育なんて、もうこりごり」と。
が、このあとが、問題。
「こりごり」と言って去るのは、簡単。
しかしそのまま心にポッカリと穴があいてしまう。
その穴が、こわい。

●不安の連鎖

 さらに若いときとちがって、絶壁に追いやられたような恐怖感も覚える。
後がない!
若いときなら、仮に数か月、病気で休んでも、取り返しがつく。
未来に、行き止まりはない。
しかし歳を取ると、そこにDNAの問題がからんでくる。
どんなにがんばっても、(老い)と闘うことはできない。
いつも一方的な、負け戦(いくさ)。
それから生まれる閉塞感は、何ともしがたい。

 それに私は今まで、「元気で働ける」ということを前提に、自分の老後を組み立ててきた。
こうした病気になるということは、その前提が崩れることを意味する。

●究極の選択?

 もし難聴から、・・・すでに難聴ぎみだが・・・、聾唖者になってしまったら・・・。
2年ほど前のことだが、過労から、緑内障を引き起こし、右目の視野を50~60%、失ってしまった友人がいた。
その友人に私の耳のことを話すと、友人は、こう言った。
「まだ目ならいいけど、耳だと、たいへんだなあ」と。
そのとき私はちょうど反対のことを考えていた。
「耳ならいいけど、目だと、たいへんだなあ」と。

 どちらがよいとか悪いとかいう問題ではない。
両方とも健康なのが、よいに決まっている。
しかしこれだけは言える。

 まだ半分だけも残っているなら、幸せ、と。
もし両目、あるいは両耳の機能を同時に失ってしまったら・・・。
そのときは、もう、目だとか、耳だとかは言っておられない。

●涙

 夕方、ひとりで布団の中で横になっていると、ポロリと涙がこぼれた。
幻想でも何でもよい。
それにしがみついて生きている間は、まだ幸福なほう。
その幻想さえもつぶされてしまったら、人は、どうやって生きていけばよいのか。

というのも、幻想であるかないかということは、あくまでもその人、個人の問題。
「金儲けこそが、私を幸福にする」というにであれば、その人は金儲けだけをすればよい。
他人がそれに対して、とやかく言う必要はない。

 同じように、私は「思考こそが、私を幸福にする」と考えている。
別の人は、そういう私を見て、笑うかもしれない。
「考えてばかりいると、気が変になりますよ」と忠告してくれる人は、多い。
しかし今の私には、それが楽しい。
生きがいにもなっている。

●変化

 夜になって少し変化が見られた。
「慣れたせいかもしれない」と思った。
自分の声が少しずつ、戻ってきた。
あの水面下でキンキンするような声は、消えていた。
が、聴力はそのままだった。

 その夜は、布団乾燥機をつけたまま、また枕元には、電気ストーブをつけたまま、眠った。
睡眠導入剤をのんだこともあり、朝までぐっすりと眠った。

●朝

 目をあけると、カーテンの向こうから白い朝の日差しが見えた。
庭の木々がシルエットとなって、そこに映っていた。
耳をすました。
カサカサ、サーッ、と。
聞こえた。
つづいて自分で話してみた。
「テスティング、ワン、ツー、スリー」と。

 自分の声に戻っていた。
うれしかった。
ほっとした。
が、いつもなら聞こえるはずの、掛け時計のカチカチという音は聞こえない。
手に耳をあてて聞く。
かすかだが、聞こえた。

 昨日は、耳全体がポンとして感じだった。
が、今朝は、つばを飲み込むと、ゴクリと耳の奥で鳴った。

●今・・・

 今、ゴーンゴーンという、今までになかった耳鳴りを経験している。
おそらく耳の機能が、過剰に亢進しているせではないか。
現在、6種類の薬をのんでいるが、そのひとつに、「心臓の働きをよくして・・・」というのも含まれている。

 これも今の病気が治れば、消えるだろう。
あとは安静にしていればよい。

 ・・・ということで、改めて健康の大切さ、健康であることのむずかしさを知った。
同時に、こうも思った。
万が一のときのための準備も、怠ってはいけない、と。

 何があるかわからない。
それが「健康」ということになる。

 W耳鼻咽喉科の先生、ありがとうございました。
また昨年(09年)末、退職したという、MTさん、ありがとうございました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 ある朝突然 難聴 耳が聞こえない 突発性難聴 健康論)


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●最前線の子育て論byはやし浩司(1・15)

2010-01-15 06:57:01 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   10年 1月 15日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●ネット通販

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先日、小学3年生の子どもたちに、
こう話した。
「ネットで新しいパソコン、買ったよ」と。
そのときのこと。
すかさず子どもたちがこう聞いた。

「価格ドットコム?」「ヤフー・ショッピング?」と。

これには驚いた。
最近の子どもたちですら、その名前を
知っている。
価格ドットコム!
ヤフー・ショッピング!

一方、ネットを通しての販売高は、
デパートやショッピングセンターでの
販売高を超えた。
それも数年前の話。

+++++++++++++++++

●価格比較

 今朝、新聞に折り込み広告が入っていた。
近くの「K」電気店と、駅前の「B」電気店のものである。
ともに全国的なチェーン店を展開している。

朝食後、少し時間があったので、価格を比較してみた。
(こういうヒマなことをするのが、趣味。)
以下、「B」電気店の目玉商品。
(カッコ)内は、価格ドットコムでの、12月25日現在の価格。

emachine-eMD525-W25(ノートパソコン)・・・5万4800円→(4万8000円)
Sony-VGN-NW51FBH(ノートパソコン)・・・11万9800円→(9万0000円)
NEC-PCLL700VG(ノートパソコン・赤)・・・13万4800円→(10万2835円)

 もちろん価格だけで比較するのは、正しくない。
「B」店のばあい、チラシには、「最大で20%のポイント還元」とある。
また店が近いと、故障したときなど、店員に直接相談にのってもらえる。
不良品であれば、すぐ取り替えてもらえる。
しかし全体としてみると、小売店に、勝ち目はない。

たとえば私が今、ねらっているのが、ToshibaのMX/33KWH。
11・6インチのネットブック(白)。
これなどは、近くの「K」店では、現在、7万5000円前後で売っている。
が、価格ドットコムのほうでは、5万0442円。
ちがいは2万5000円。
この差は、大きい。
しかも「K」店には、ポイント制はない。

となると、買うとしたら、価格ドットコムのほうで、となる。

●弱肉強食 

 今、世の中は、大きく変わりつつある。
急速というより、恐ろしく大きく変わりつつある。
販売流通網にしてもズタズタに分断され、弱小の小売店は、街中から、どんどんと姿を消
しつつある。
(……すでに消してしまったところも、多い。)

 それがよいことなのか、悪いことなのか、考えたところで意味はない。
なるようにしか、ならない。
弱肉強食の世界。
食うか、食われるか……。
つまり弱小の小売店は中規模の販売店に、中規模の販売店は大規模の販売店に、さらに大
規模の販売店はその上をいく、全国規模の販売店に、つぎつぎと駆逐(くちく)されてい
く。

 追い払う方は楽しいかもしれない。
しかし追い払われるほうは、そうでない。
日々に、悶々と、重苦しい空気に包まれる。
けっして晴れることのない曇天。
だらだらと、それが何年も、何年もつづく。

(2)

2010-01-15 06:56:28 | 日記


●自転車店業界

 私の親の稼業は自転車店だった。
その自転車店で、その苦しみを、私は直接経験している。
今では、自転車店にしても、全国規模の販売店がいくつもある。
価格面においても、サービス面においても、小売店には勝ち目はない。
大規模店は、夜9時~10時まで営業している。
加えて年中無休。

 これに対して、卸しや(自転車店業界では、問屋のことを、「卸しや」と呼ぶ)単位で、
連合して対抗しようという動きもあるには、あった。
専門職化したり、特製の自転車を並べたりした。
外国の自転車の特約店を、チェーン店化したりもした。
「高級自転車は、自転車店で」という、ブランド化の動きもあった。
が、ここへきての不況。
プラス店主の高齢化。
「弱り目にたたり目」とは、こういう状態をいう。
今では、自転車店業界は、「斜陽」というより、「衰退」産業に位置づけられている。

 が、大型店が安泰かというと、そうでもない。
それがネット通販。
何と、自転車業界にまで、触手を伸ばしつつある。
価格ドットコムでも、楽天ショップでも、自転車を取りあつかい始めている。
今はまだ値段のはっきりしているメーカー品にかぎられているが、(というのも、自転車ほ
ど、値段のわからない商品はないので)、それも時間の問題。
やがて原産地表示、品質表示、材質表示などが、詳しく表示されるようになるだろう。
むしろ小売店のほうが、値段をごまかして売っているケースのほうが多い。
「ごまかす」という言い方がまずいことは、よく知っている。
しかし自転車ほど、卸値(おろしね)のわからない商品はない。

 で、あとは修理の問題ということになる。
アフターサービス。
が、現実には、自転車も消耗品の世界に入りつつある。
大手のAショップ(全国展開の自転車大型店)では、「2年半」と読んでいる。
つまり自転車の寿命は、2年半。
パンク程度の修理は残るかもしれないが、平均的な人は、2年半で、自転車を乗り換えて
いるという。
昔のように何度も修理しながら、乗りつづけるという時代は、終わった(?)。

●政治の問題 
 つまりここまでくると、個人の問題というよりは、政治の問題。
街の文化は、街の商店主たちが支えてきた。
その文化が、今、こうしてつぎつぎと灯を消そうとしている。
しかも一度消えたら最後、再生は、ほとんど不可能。
その一例として、自転車店業界をあげた。

 そこで街の文化。
「どうやったら、街の商店を守れるか」という発想ではなく、「どうやったら、街の文化を
残すことができるか」という発想で、この問題を考える。
個人の問題ではない。
地域の問題。
みんなの問題。
となると、もう政治しかない。    

 ……とは言いつつ、私も今年(09)から、ネット通販を通してものを買うことが多く
なった。
価格が4~5万円を超えるようなものは、まず近くの店で、現物と価格を調べる。
つぎに家に帰って、ネットで価格を調べる。
差額がそれほど大きくなければ、店で買う。
その差額がじゅうぶん魅力的なものであれば、ネット通販で買う。
心理的には、10~15%前後か。
それ以上の差額であれば、ネット通販で買う。

たいていその翌日には、玄関先前まで届けてくれる。
が、「どうすればいいだろう……」と思ったところで、思考停止。
どうしようもない。
今さら、この(流れ)を止めることは、だれにもできない。

 ……街を歩くたび、そしてさびれた商店を見るたび、私にはその店のおやじたちの悲鳴
が聞こえてくる。
そのおやじの悲鳴を聞きながら、暗くて重い気持ちで、悶々としている家族の気持ちが伝
わってくる。

 やはりこの問題は、なるようにしか、ならないのか。
私たちは今、その時代の流れの、まっただ中にいる。

 子どもたちとの会話はつづいた。

私「価格ドットコムって、何?」
子「価格ドットコムも、知らないの? ……後れてるウ」
私「だって、君は、インターネットをしていないのだろ?」
子「ママがしているよ」
私「ハア、ママがしているのかア……?」
子「そうだよ」と。

(3)

2010-01-15 06:56:05 | 日記


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「子どもをもつ必要はない」!?

+++++++++++++++++

「子どもをもつ必要はない」と考えて
いる人が、半数以上もいる。

このほど内閣府が発表した調査結果に
よれば、20代、30代の若い人を
中心に、「子どもをもつ必要はない」と
考えている人が、それぞれ63%(20代)、
59%(30代)もいることがわかった。

ならばそう考えている人に聞く。
あなたがたの老後のめんどうは、
いったい、だれがみるのか?
次世代のこの日本は、だれが担(にな)うのか?

……というヤボな質問はさておき、
子育ては、人間が本来的にもつ、権利である。
種族保存ということを考えるなら、
私たち1人ひとりが真剣に考えなければ
ならない、義務である。

が、それだけではない。
子育てをすることによって、人は、生きる目的、
意義、さらには喜びを、知る。

世の中には、子どもがほしくても、それが
できなくて、悲しい思いをしている人も多い。
そういう人たちの心も、少しは考えるなら、
安易に、「子どもをもつ必要はない」などとは、
考えないでほしい。

仮にそう考えたとしても、そういう(考え)とは、
自分の中で戦ってほしい。
いろいろと事情のある人もいるだろう。
それぞれの人には、それぞれの思いもあるだろう。
が、それはそれ。
まず、それと戦う。
戦った上で、「子どもはもつ必要はない」と
答えてほしい。

内閣府は、「生き方の多様化が進んでいる」と
コメントを寄せている。
とんでもない!
これは「多様化」の問題ではない。
「子どもをもたない」ことは、生き方の選択肢の
ひとつではない。
また選択肢のひとつと考えてはいけない。

そんなことはないと思うが、もし、あなたが、
「子育てをするのは、わずらわしい」とか、
「子育てをすれば、自分たちが楽しめる時間が減る」とか、
そんなふうに考えているとしたら、それは、まちがっている!

子育ては、たいへん!
つらい!
それはその通り!
しかしそれを乗り越えるところから、生きる喜びが
生まれる。
人生の深みも、そこから生まれる。

私たちは何のために生きているか。
何のために、ここにいるのか。
ものごとは、そこから考え直してみてほしい。

++++++++++++++++++

 2009年12月5日の時事通信は、つぎのような記事を配信している。

++++++++++以下、時事通信より++++++++++++

内閣府は5日、男女共同参画に関する世論調査の結果を発表した。それによると、結婚
しても必ずしも子どもを持つ必要はないと考える人は、2年前の前回調査に比べ6.0ポ
イント増の42.8%となり、1992年の調査開始以来最高となった。持つ必要があると
する人は同6.5ポイント減の52.9%だった。少子化の背景に、国民の家庭に対する意
識変化があることを示した結果と言え、内閣府の担当者は「生き方の多様化が進んでい
る」としている。

 調査は、10月1日から18日にかけて、全国の成人男女5000人を対象に個別面接
方式で実施。有効回収率は64.8%だった。

 子どもを持つ必要はないとした人は、男性が38.7%、女性が46.4%だった。年齢別で
は、20歳代が63.0%、30歳代が59.0%と高く、若い世代ほど、子どもを持つことに
こだわらない傾向が浮き彫りになった

++++++++++以上、時事通信より++++++++++++

●子どもに育てられる

 親が子どもを育てるのではない。
子どもが親を育てる。

 ……というような話は、講演会の場で、私が毎回話していることである。

私の本からの一作を、転載します。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司