最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●1月10日

2010-01-10 18:57:21 | 日記
●パソコン恐怖

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昨夜遅く、こんなトラブルがあった。
そろそろ寝るか・・・と思いながら、
何気なくエクスプローラーを開いてみた。
ギョッ!
何と、私のパソコンが・・・!
どこかのだれかのパソコンと、
ネットワークで接続されているでは
ないか!

ギョギョギョッ!

しかもネットワークとCドライブの
内容が、ミラー(相互連動)になっている。
Cドライブの内容が、そっくりそのまま、
どこかのパソコンとつながっている(?)!

あわてて原因さがし。

ヒタヒタとした恐怖感。
ツンとした緊張感。
高まる動悸。
ドキドキ、ハラハラ・・・。

メーカーに相談しても、「OSの
故障ではないですか?」
「リカバリーしてみてください」と。

ゾーッ!

で、真夜中過ぎになって、やっと原因がわかった。

最近買ったプリンターである。
エプソンの902A。
最新型。
このプリンターが無線LANを通して、
勝手に、私のパソコンに接続していた。

・・・ということで、今は、パソコンも快調。
静か。
「もういじらないぞ!」と心に誓う。

そう、パソコンという機械は、それなりに
順調に動いているときは、へたにいじってはいけない。
素人の知ったかぶりが、いちばん、恐ろしい。
私のような素人がへたにいじると、たいていおかしくなる。

が、寝るとき、ワイフがこう言った。
「どうして、そんなことが楽しいの?」と。
で、私はこう答えた。

「サッカーの試合と同じだよ。
ハラハラするところが、楽しい」と。

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●ご注意

 こんなメールが、届いた。
送信者として、「YOUTUBE」の名前。
件名には、「あなたが制作したxxxxの、広告料をお受け取りください」とある。

xxxxは、私が作ったビデオの中でも、アクセス数が15万件近くになっている。
ふと「15万件近くにもなると、広告料が入るのか?」と思った。
が、YOUTUBEが、広告料を支払ってくれるなどという話は、聞いたことがない。
(YOUTUBE社は現在、赤字だそうだ。
そのため2010年の3月ごろから、本格的に広告料収入を始めるという。
そういう話なら、雑誌で読んで知っていた。)
で、そのまま削除。

 インターネットをしていると、こうしたメールが、つぎつぎと飛び込んでくる。
言い換えると、それなりの知識がないと、この世界は、たいへん、危険!
おいしい話は、100%、疑ってかかるべし。

みなさんも、どうかくれごれもご注意ください。


●老後の不安

 おととい、「介護と若者たちの意識」というテーマで、原稿を書いた。
それについて、愛知県の読者の方より、「うちも同じような問題をかかえています」という内容の、コメントが寄せられた。

『私も子離れできていないようです。
子供達は私からすっかり離れていると言うのに。
子供のためと言いながら、実は、私の見栄や、メンツ自己満足に過ぎないことを、私もたくさんしています。

家のローンもまだ残っており、この先二人分の学費を考えると、私たちの老後の資金などあるはずがありません。
子供をあてにするわけにはいきませんので、老後を考えるとぞっとします。
今を生きるのに精一杯です。

私も同じ問題をかかえています。
が、先生の文を読み、気持ちも幾分軽くなり、併せて先生のアドバイスを参考に、私自身の生き方について、老後も見据えながら、よく考えてみようと思っています。

今日は、中学校時代のクラス会があります。
以前、同じメンバーでクラス会があった時は、長女の高校受験の時で、「夕方から塾で、車で送ってもらいたいから、5時までに帰ってきてね!」と、威圧的に長女に言われ、何十年ぶりかで会った旧友と二次会にも行けず、急いで家に帰りました。それが当たり前かのような態度の娘に愕然としたのを覚えております。

そして、今回は長男の大学受験です。「私の夕飯はどうするの?!」と不機嫌な顔で聞いてきます。普段なら「あるもので済ますからいいよ」と言う長男ですが、私が、昨日は職場の新年会、今日はクラス会と出歩いているのが、気に入らない様子です。

とんだドラ娘、ドラ息子たちに育ててしまいました。
子供のためによかれと思い、不自由のないようにと育てたつもりですが、結果、子供のためにはなっていなかったようです。
やはり、私の自己満足に過ぎなかったのですね。

私も、ここまで来ないと気づかないおろかな母で、悲しいです。
それに気がつきました』と。

【はやし浩司より、読者の方へ】

 あなただけではない。
みな、そうです。
が、子育ての最中というのは、それがわからない。
「私だけは、だいじょうぶ」
「私だけは、ちがう」と。
中には、「私は、私の親とはちがう」
「私は私の親のような親にはならない」と思っている人もいます。
みな幻想をもち、その幻想にしがみついている。
で、結局は、同じ道を歩む・・・。

 おもしろいですね。
そしていつか、それが幻想だったことに気づく。
自分も同じ道を歩んでいることを知る。
子育てというのは、そういうものです。

 で、大切なことは、できるだけ早い時期に、それに気づくということです。
そして親は親で、ひとりの人間として、自分の生きる道をさがす。
生きがいを求める。

 率直に言います。
子育てなど、人生の目標にしてはだめですよ。
生きがいにしてもだめですよ。
そんなことをしても、子どもにはかえって負担になるだけです。
子どもに嫌われるだけです。

 だからやるべきことはやる。
親としての責任は、果たす。
しかしそこまで。
あとは、自分の人生を、人類みなのために、還元していく。
(この「還元」という言葉は、恩師のIK先生(藤沢市在住)が、よく使っている言葉です。)

 子どもに嫌われても、バカにされても、気にしない。
私たちは私たちで、自分の道を進めばよいのです。

 でも、あなたは今、それに気がついた。
よかったですね。
私もうれしいです。

 でもね、不思議なもので、その殻(から)を脱いだとき、つまりそれに気づいたとき、それが(子育ての結論)ではないということです。
よく「失敗しました」と言う人がいます。
しかし子育てに失敗は、ありません。
そこがいつも、スタートラインです。
そこからいつも、新しい人間関係が始まります。
つまりあなたは失敗など、していない。
これから新しい世界が、始まるのです。
上下意識のある古い親子関係から、一対一の、対等の人間関係へ、とです。

 子どものほうから顔をそらし、あなたはあなたで、前に向かって進めばよいのです。
いっしょに、がんばりましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++Jan.2010+++++++++はやし浩司

●怒り(補足)

2010-01-10 10:22:13 | 日記
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(怒り)について考えているとき、
以前、尾崎豊の「卒業」について書いた
原稿を思い出しました。

それをそのまま転載します。
(中日新聞掲載済み)

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【若者たちが社会に反抗するとき】

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中でこう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えていた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコースがあり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれを、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をもてばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほんの一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえることができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張しているだけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできやしなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつけられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、その前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで二〇〇万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、二〇〇万枚を超えた(CBSソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)
●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず1人の中学生(中2女子)がこう言った。「ない」と。「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「どうせ実現しないから」と。

もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と聞くと、こう言った。「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だった。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15~17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、41・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(2001年4月)。タクシーにはメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転してくれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られないから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけならまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

●補足

 この中で私は、2人のタレントを批判した。
あの人とあの人である。
「・・・年俸が二億円もあるようなニュースキャスターが、『不況で生活がたいへんです』と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけているテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える」と。

 当時、こう書けば、みな、(あの人)が、だれであるかわかった。
で、この原稿を書いてから、10年。
彼らがいかに偽善者であったかは、この10年だけをみてもわかる。

たとえば難民救済活動をしていた、あの人。
その周辺部分、つまり連続性が、まるで浮かび上がってこない(?)。
その後、別の(あの人)に、活動をバトンタッチしてからは、いっさい、音沙汰なし!

 それほどまでに高徳なボランティア活動をしながら、したのは、(そのときだけ)。
最近でも、また別の(あの人)が同じようなことをしている。

 そこに至る過程の中で、たとえばホームレスの人たちのために、炊き出しをしたとか、貧しい子どもたちを家で預かったとか、そういう経緯があればよい。
それをいきなり、アフリカの難民救済運動?
一度、ラオスで、そういった活動をしている人に会ったことがある。
当時、50歳くらいの女性だった。
もの静かな女性で、腕を白い包帯で巻いていた。
活動しているときに、けがをし、日本へ一時帰国していた。
もちろん無名の女性である。
そしてその女性がそういう活動をするようになった背景には、10年単位の歴史がある。

 が、これらの(あの人)には、周辺部分もなかれば、連続性もない。
積み重ねもない。
つまりインチキ。
偽善。
もっと言えば、難民の人に対する冒涜!
集められた基金なるものは、どこにどう消えたことやら?

 つまりこれが私が言う(怒り)である。
この(怒り)を忘れたら、それこそ、この世界は、闇!
・・・と思いつつ、こうして文章を叩いている。

●怒りについて

2010-01-10 09:21:18 | 日記
●BLOGタイトル最前線の子育て論byはやし浩司

●怒りについて

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仏教では、人間の心は水のようなものと説く。
濁った水になることもあれば、色のついた
水になることもある。
火でわかせば、沸騰することもある。
しかし何よりも大切なのは、澄んだ、濁りのない水。
色のついた水では、真理は見えない。
沸騰した水では、正しく判断することはできない。

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●清らかな心

 3大煩悩に、「貪、瞋、痴」がある。
はげしい怒りのことを、「瞋(しん、じん)」という。

『貪(どん)』というのは、「貪(むさぼ)ること」をいう。
『瞋(しん)』というのは、「激しく怒(いか)ること」をいう。
『痴(ち)』というのは、「無知なこと」をいう。

そのほかにもいろいろあるが、私たちの肉体は、これらの
煩悩に満ち溢れている。
これらの煩悩が、自分の内にある『菩提心』(すべての人々を愛すること)
が目覚めるのを邪魔する。
世親(300~400年ごろの人、パキスタン、ペシャワール
あたりの人とされる※)が、そう説いている。

だから世親は、菩提心を呼び起こすためには、心(精神)を、
一度、肉体から切り離さなければならないと説いた(『浄土三部経』)。

 とくに気をつけたいのが、「貪、瞋、痴」の「瞋」。
「沸騰」というのは、その「怒り」を意味する。
心が煮えたぎったような状態をいう。

●怒り

 (怒り)といっても、(1)感情的な怒りと、(2)非感情的な怒りがある。
感情的な怒りというのは、どこかの暴力団員が、大声でわめき散らしている姿を想像すればよい。
「瞋」とは、それをいう。
それについては異論はない。

 それに対して、非感情的な怒りがある。
拉致被害者のYTさんを思い浮かべてみればよい。
娘のMGさんは、あの金xxの指令によって、K国に拉致されている。
そのため休むことなく、全国を回って、拉致被害者の救済活動をつづけている。
その姿がテレビで報道されるたびに、私たちは、やりようのない、つまりガラス板を爪の先でこするような(怒り)を覚える。
これを「非感情的な怒り」と表現してよいかどうかは、知らない。
そう表現すること自体、YTさんに失礼なことかもしれない。

 が、そうした怒りがあるからこそ、私たちはこうして抗議の念をこめて、K国を糾弾する。
金xxを糾弾する。
(名前を「金xx」と表記しているのも、そのため。)

つまり怒りを忘れたら、私たちは、真・善・美の追求すら、ままならなくなる。
(怒り)が、すべて煩悩というわけではない。

●知らぬが仏

 話は変わるが、『知らぬが仏』という諺もある。
何ごとも、「我、関せず」と、距離を置けば、仏のように静かな境地でいられる。
しかし考えてみれば、これほど、無責任な生き方はない。
またそういった無責任な生き方をしている人を、「仏」とは言わない。

 ただしこれには重要な条件がある。
知るにしても、関するにしても、宇宙的、地球的、人間的、生物的・・・。
そういった規模で、知ったり、関したりする。

 身近な痴話話(ちわばなし)は、知らなくてもよい。
関しなくてもよい。
たとえば以前、こんなことを言った知人がいた。
「ぼくは、毎朝、新聞のお悔やみ欄には、かならず目を通している」と。

 私自身は、めったに見たことがない。
見るとしても、ワイフに誘われて、月に、1、2度程度。
どこでだれが死のうと、私には関係ない。
興味もない。
どうせ「つぎは、私」。

●道理

 もっとも感情的な(怒り)をコントロールするのは、むずかしい。
むずかしいというより、(怒り)は常に、何らかの感情的な反応をともなう。
(怒り)と感情は、表裏一体。

が、もしその間に一線を引くとしたら、(道理)ということになる。
(怒り)を覚えたら、どんどんと自分の中に、道理を掘り下げていく。
道理を掘り下げていくことで、(怒り)と感情を分離する。

 が、それで(怒り)が消えるわけではない。
中には、(許しがたい怒り)というのもある。
どう理性で割り切ろうとしても、割り切れない(怒り)というのもある。
自分の力では、乗り越えられない(怒り)というのもある。

が、その(怒り)すらも否定してしまうと、そのあとにやってくるのは、乾いた絶望感。
虚脱感。

●痴話話(ちわばなし)

  たとえば信頼していた人に裏切られたようなケースを、想像してみればよい。
夫(妻)でもよい。
親や兄弟でもよい。
息子や娘でもよい。

卑近な例として、夫(妻)に愛人ができ、その愛人と不倫関係をもったばあいを想像してみればよい。
そこはまさに、世親が説く、「瞋」の世界。
そのとき冷静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
道理の世界でもない。
また道理だけでは、乗り越えることはできない。
しかし、これこそが、私が言う「痴話話」ということになる。

●未来に向けた怒り

 そこで(怒り)をさらに掘り下げてみる。
するとその(怒り)にも、2種類あるのが、わかる。
(1) 過去に向けた(怒り)と、(2)未来に向けた(怒り)。

 「今は、常に過去の結果」と考えると、(怒り)は、常に過去に向かう。
夫(妻)に愛人ができ、不倫しているのがわかったとき、妻(夫)がどのように反応するか。
それが過去に向けた怒りということになる。
「私の人生は、何だったのよ!」「私の人生を返して!」と。
このばあいは、喪失感がからんでくるため、(怒り)は、どうしても感情的になりやすい。
どんなに悔やんでも過去を取り戻すことはできない。
だから感情的になる。・・・ならざるをえない。

 一方、未来に向かう(怒り)というのもある。
この地球が、やがて火星のようになった状態を想像してみればよい。
このばあいは、(怒り)は常に、道理をともなう。
道理として処理できるから、感情的になることはない。

 つまり(怒り)というのは、過去に向けたものであってはならないということ。
一方、それが、「瞋」であれ、未来に向けたものであれば、許される。
またその(怒り)こそが、私たちが今、なぜここにいて、生きているかという理由にもなる。

●では、どうするか?

 「今が過去の結論」と考えてはいけない。
・・・とっぴもない結論に思う人もいるかもしれない。
しかし(怒り)を分析していくと、そうなる。

 つまりなぜ私たちが(怒り)を覚えたとき、感情的になるかといえば、(思うようにならなかった過去)を引きずるからである。
が、「今」は、けっして過去の結論ではない。
「今」は、常に未来へのスタート点である。

 そういう視点で、身の回りを見ると、世界が一変する。
今、そこにあるものがなんであれ、それを受け入れてしまう。
そしてそこを原点に、未来に向かって、ものを考える。
とたん感情的な(怒り)、過去に向かった(怒り)が、消える。

 だから「今は過去の結論」と考えてはいけない、・・・ということになる。

●まとめ

 自分でもよくわからない。
わからないまま、この文章を書き始めてしまった。
そのためまとまりのない文章になってしまった。
が、こういうことは言える。

要するに「心」というのは、澄んだ、清らかなほうが、よいということ。
そのためにも、「貪、瞋、痴」は、心の大敵ということ。
それは世親が説いたとおり。

ただ(怒り)については、それを頭から否定してしまってはいけない。
ここにも書いたように、内容は、そのときどきによって、大きく変わる。
ときには、生きる原動力になることもある。

もちろん感情的な怒りや、過去に向かった怒りは、避ける。
心を腐らせる。
それを避けるためには、心は常に、未来に向かって大きく開く。
過去ではなく、未来に向かって、である。
(怒り)を覚えたときには、とくにそうである。
それこそ「私の知ったことか!」と叫んで、前に進めばよい。

 私がここで書きたかったことをまとめると、そういうことになる。
しばらく時期をおいて、再び、この問題につて考えなおしてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 世親 貪、瞋、痴 怒りについて、菩提心 心について)