最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●反抗期の子供

2009-11-20 10:57:30 | 日記
【反抗期の子ども】

●思春期前夜

++++++++++++++++++

目の前に、2人の小学生がいる。
2人とも、小学4年生。
伸びやかに育っている。
言いたい放題のことを言い、
したい放題のことをしている。
恵まれた子どもたちである。
頭はよい。
作業も早い。

子どもは、小学3年生ごろを境にして、
思春期前夜へと入る。

今日はワークブックの日。
2人も、黙々と、自分のワークブックに
取り組んでいる。
私はこうしてパソコンを相手に、パチパチと
文章を書いている。

このところ新型インフルエンザの流行で、
ほかの子どもたちは、外出禁止。
そのため、今日の生徒は2人だけ。

が、この時期の子どもは、どこかピリピリして
いる。
それだけ精神が緊張していることを示す。

(緊張)と(弛緩)。
それがこの時期の子どもの、精神状態の特徴
ということになる。

++++++++++++++++++

●揺り戻し

この時期の子どもは、あるときは(おとな)に
なり、また別のときは(幼児)になる。
精神的に不安定になる。
私はこの幼児ぽくなる現象を、勝手に、「揺り戻し現象」
とか、「揺り戻し」とか、呼んでいる。

(先日、書店で、ある「子育て本」を読んでいたら、
同じことが書いてあったのには、驚いた。
こうした揺り戻しについて書いたのは、私が最初で、
また私以外に、それについて書いた人を、私は知らない。
著者はどこかのドクターだったが、そのドクターは、
どこでそういう情報を手に入れたのだろう?
余計なことだが……。)

この時期にさしかかるころ、その揺り戻しの振幅が大きくなる。
たとえば、幼児的な扱いをすると不機嫌になる。
が、そうかと思っていると、反対に、自から幼稚ぽくなったりする、など。
が、幼児でもない。
ふとしたきっかけで、生意気な態度をとったりする。
ふてくされたり、キレたりする。
あるときは、幼児に、またあるときはおとなに……。
その振幅の幅が、大きくなる。

が、年齢とともに、やがて振幅は小さくなる。
幼児ぽくなることが少なくなり、やがて思春期へと入っていく。
(独特のあのピリピリとした緊張感は、そのまま残るが……。)

親の側からすると、幼児に扱ってよいのか、
あるいはおとなとして接したらよいのか、わかりにくくなる。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

●幼児とおとなのはざまで……

 2人の小学生には、その揺り戻しが顕著に現れている。
「典型的な症状だ」と、先ほども、ふと思った。
その特徴を箇条書きにしてみる。

(幼児の部分)(緊張感が弛緩しているとき)
○ プロレスごっこや鬼ごっこをしてやると、ネコの子のようにじゃれたり、
笑って喜んだりする。
○ 機嫌がいいときには、幼稚っぽいしぐさとともに、おとなに甘えたり、
体をすり寄せてきたりする。

(おとなの部分)(心が緊張状態にあるとき)
○ 何かのことで注意したり、まちがいを指摘したりすると、露骨にそれを
嫌い、不機嫌な態度に変わる。
○ おとなとして扱うことを求め、(子どもぽい)遊びなどをすることについて、
敏感に反応し、拒絶したりする。

 が、全体としてみると、1時間の間だけでも、つねに(緊張)と(弛緩)を
繰り返しているのがわかる。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定になるから、「情緒不安」というのではない。
精神の緊張状態がとれないから、「情緒不安」という。
精神が緊張している状態へ、不安感や心配ごとが入ると、それを解消
しようとして、精神状態は、一気に、不安定になる。
不機嫌になったり、反対に、カッと怒り出したりする。

つまり「情緒不安」というのは、あくまでもその結果でしかない。
また緊張した状態が、「ピリピリした状態」ということになる。

 そのことは、それだけ触覚が、四方八方に伸びていることを示す。
何を見ても気になる。
こまかいところを見る。
ささいなことを気にする。
そのため、それまで気がつかなかったことについても、気がつくようになる。
そのターゲットになるのが、父親であり、母親ということになる。
学校では、教師ということになる。

●血統空想

 ところであのフロイトは、「血統空想」という言葉を使った。
自分の母親を疑う子どもはいないが、父親を疑う子どもは多い。
「ぼくの(私の)本当の父親は、別にいるはず」と。

 それまでは絶対と思っていた父親や母親が、絶対でないことに気づく。
完ぺきでないことに気づく。
幼児のある時期には、子どもは、「この世のすべてのものは、親によって
作られたもの」と思い込む。
それが思春期前夜に入ると、その幻想が、急速に崩れ始める。

 そこで子どもは、自分がもっている父親像は母親像の修正にとりかかる。

●無謬性

 「親だから、こうであるべき」「こうあってほしい」という(期待)。
つまり親に無謬性(むびゅうせい:一点のミスも欠点もないこと)を求める。
が、その一方で、親が本来的にもつ欠陥にも、気づき始める。
それはそのまま、(怒り)となって子どもを襲う。

子どもは、(期待)と(怒り)の間で、混乱する。

 ある女性(60歳)は、自分の母親(90歳)が、車の中で小便を漏らした
だけで、混乱状態になってしまったという。
それでその母を、強く叱ったという。
その女性にしてみれば、「母親というのは、そういうことをしないもの」と
思い込んでいたようだ。
つまり(小便を漏らす)という行為そのものが、自分が抱く母親像と矛盾して
しまった。
それが(混乱)という精神状態につながった。

 このタイプの女性はかなりマザコンタイプの人の話と考えてよい。
自分の中の混乱を、怒りとして、母親にぶつけていただけということになる。
つまり似たような現象が、思春期前夜の子どもに起こる。

●血統空想

 フロイトが説いた「血統空想」も、似たような現象と考えてよい。
子どもは、完ぺきな父親を期待する。
しかし現実の父親は、その完ぺきさとは、ほど遠い。
頼りがいがなく、だらしない。
不完全さばかりが、気になる。

 そこで子どもは葛藤する。
「父親というのは、完ぺきであるべき」という思いと、現実の父親の受容との
はざまで、もがく。
それがときとして、「ひょっとしたら、あの父親は、ぼくの(私の)本当の
父親ではないかもしれない」という思いにつながる。
それが「血統空想」ということになる。

 このことは生徒としての子どもを見ていても、わかる。
「教えてやろうか」と声をかけると、「いらない!」と言って、それに反発する。
が、その一方で、親には、「あの林(=私)は、教え方がへた」とか言って、
不満を述べたりする。
簡単な問題だから、私が「自分で考えてごらん」と言っても、怒り出す。
ふてくされる。
が、教えてやろうと身を乗り出すと、「ウッセー!」と言って、怒り出す。
目の前の2人の子どもたちも、そうだ。

 私の中に完ぺきさを求めつつ、完ぺきでない私を知ることで、混乱する。
それに反発する。
「反抗期」というのは、それをいう。

そうした子どもの心理が、手に取るように私にはよくわかる。

●親を拒否する子どもたち
 
 言うなればこの時期は、つづく思春期と合わせて、嵐のようなもの。
子どもの立場で考えてみよう。

それまでは親の言うことに従っていれば、それですんだ。
親が、自分の進むべき道を示してくれた。

 が、その親がアテにならなくなる。
親の職業を、客観的に評価するようになる。
そのため、ますます親がアテにならなくなる。

 幼児のころは、「おとなになったら、パパ(ママ)のような人になりたい」
と思っていた子どもでも、この時期になると、「いやだ」と言い出す。
中学生でも、「将来、父親(母親)のようになりたくない」と考えている子どもは、
60%~80%はいる※1。
いろいろな調査結果でも、同じような数字が並ぶ。

●自己の同一性

 この思春期前夜の「混乱」を通して、子どもは、自分のあるべき(顔)を模索する。
そしてそれがやがて、自己の同一性の確立へと、つながっていく。
「私はこうあるべきだ」というのが、(自己概念)。
が、現実の自分がそこにいる。
その現実の自分を、(現実自己)という。

 これら両者が一致した状態を、「自己の同一性」(アイデンティティ)という。
子どもというより、思春期における青少年にとって、最大の関門といえば、
自己の同一性の確立ということになる※2。

 それが確立できれば、それでよし。
そうでなければ、混乱した状態は長くつづく。
30歳を過ぎても、「私さがし」をしている青年は、いくらでもいる。

●動じない

 話を戻す。

 2人の子どもは、相変わらず、黙々と自分に与えられた作業をこなしている。
どこかピリピリしている。
が、そこは暖かい無視。
私の度量を試すような行動も、みられる。
わざと怒らせようとする。
しかし私は動じない。

 生意気な態度。
ぞんざいな言葉。
投げやりな姿勢。
ふてくされた顔。
しかしその間に見せる、あどけない表情。
それがこの時期の子どもの特徴ということになる。

 重要なことは、けっして子どものパースに巻き込まれてはいけないということ。
この時期の子どもは、ギリギリのところまでする。
ギリギリのところまでしながら、その一線を越えることはない。
叱ったり、怒ったりしたら、こちらの負け。
言うべきことは言いながら、あとは暖かい無視で子どもを包む。
 
 嵐はいつまでもつづくわけではない。
やがて収まる。
そのころには、この子どもたちも、立派な青年になっているはず。
2人の子どもの横顔を見ながら、そんなことを考えた。

●補記

 反抗期に反抗期特有の症状を示さないまま、思春期を過ぎた子どもほど、
あとあといろいろな心の問題を起こすことがわかっている。
とくに親が権威主義的で、威圧的だと、子どもは反抗らしい反抗もしないまま、
思春期を過ぎる。
それから生まれる不平、不満、不完全燃焼感は、心の別室に抑圧され、時期をみて、
爆発する。
「こんなオレにしたのは、テメエだろオ!」と。

 「抑圧感」が大きければ大きいほど、爆発力も大きくなる。
(あるいはそのまま一生、爆発することもなく、なよなよした人生を送る子どもも
少なくない。)

 ちょうど昆虫がそのつど殻を脱皮して、成長するように、人間の子どももまた、
そのつど成長の殻を脱皮しながら、成長する。
殻を脱ぐときには脱ぐ。
脱がせるときは、脱がせる。

 そういうことも頭に入れて、子どもは、一歩退いたところから見守る。
それが「暖かい無視」ということになる。

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(注※1)子どもたちの父親像

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は、55%もいる。
「父親のようになりたくない」と思っている中高校生は、79%もいる
(「青少年白書」平成10年)。

(注※2)エリクソンの心理発達段階論

エリクソンは、心理社会発達段階について、幼児期から少年期までを、つぎのように
区分した。

(1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築)
(3) 幼児期後期(自主性の構築)
(4) 児童期(勤勉性の構築)
(5) 青年期(同一性の確立)
(参考:大村政男「心理学」ナツメ社)

+++++++++++++++++

以下、09年4月に書いた原稿より……

+++++++++++++++++

●子どもの心理発達段階

それぞれの時期に、それぞれの心理社会の構築に失敗すると、
たとえば子どもは、信頼関係の構築に失敗したり(乳児期)、
善悪の判断にうとくなったりする(幼児期前期)。
さらに自主性の構築に失敗すれば、服従的になったり、依存的に
なったりする(幼児期後期)。

実際、これらの心理的発達は4歳前後までに完成されていて、
逆に言うと、4歳前後までの育児が、いかに重要なものであるかが、
これによってわかる。

たとえば「信頼関係」にしても、この時期に構築された信頼関係が
「基本的信頼関係」となって、その後の子ども(=人間)の生き様、
考え方に、大きな影響を与える。
わかりやすく言えば、基本的信頼関係の構築がしっかりできた子ども
(=人間)は、だれに対しても心の開ける子ども(=人間)になり、
そうでなければそうでない。
しかも一度、この時期に信頼関係の構築に失敗すると、その後の修復が、
たいへん難しい。
実際には、不可能と言ってもよい。

自律性や自主性についても、同じようなことが言える。

●無知

しかし世の中には、無知な人も多い。
私が「人間の心の大半は、乳幼児期に形成されます」と言ったときのこと。
その男性(40歳くらい)は、はき捨てるように、こう反論した。
「そんなバカなことがありますか。人間はおとなになってから成長するものです」と。

ほとんどの人は、そう考えている。
それが世間の常識にもなっている。
しかしその男性は、近所でも評判のケチだった。
それに「ためこみ屋」で、部屋という部屋には、モノがぎっしりと詰まっていた。
フロイト説に従えば、2~4歳期の「肛門期」に、何らかの問題があったとみる。

が、恐らくその男性は、「私は私」「自分で考えてそのように行動している」と
思い込んでいるのだろう。
が、実際には、乳幼児期の亡霊に振り回されているにすぎない。
つまりそれに気づくかどうかは、「知識」による。
その知識のない人は、「そんなバカなことがありますか」と言ってはき捨てる。

●心の開けない子ども

さらにこんな例もある。

ある男性は、子どものころから、「愛想のいい子ども」と評されていた。
「明るく、朗らかな子ども」と。
しかしそれは仮面。
その男性は、集団の中にいると、それだけで息が詰まってしまった。
で、家に帰ると、その反動から、疲労感がどっと襲った。

こういうタイプの人は、多い。
集団の中に入ると、かぶらなくてもよい仮面をかぶってしまい、別の
人間を演じてしまう。
自分自身を、すなおな形でさらけ出すことができない。
さらけ出すことに、恐怖感すら覚える。
(実際には、さらけ出さないから、恐怖感を覚えることはないが……。)
いわゆる基本的信頼関係の構築に失敗した人は、そうなる。
心の開けない人になる。

が、その原因はといえば、乳児期における母子関係の不全にある。
信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の上に、
成り立つ。
「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味。
「私は何をしても許される」という安心感。
親の側からすれば、「子どもが何をしても許す」という包容力。
この両者があいまって、その間に信頼関係が構築される。

●自律性と自主性

子どもの自律性や自主性をはばむ最大の要因はといえば、親の過干渉と過関心が
あげられる。
「自律」というのは、「自らを律する」という意味である。
たとえば、この自律性の構築に失敗すると、子どもは、いわゆる常識はずれな
言動をしやすくなる。

言ってよいことと悪いことに判断ができない。
してよいことと、悪いことの判断ができない、など。

近所の男性(おとな)に向かって、「おじちゃんの鼻の穴は大きいね」と
言った年長児(男児)がいた。
友だちの誕生日に、バッタの死骸を詰めた箱を送った小学生(小3・男児)が
いた。
そういう言動をしながらも、それを「おもしろいこと」という範囲で片づけて
しまう。

また、自主性の構築に失敗すると、服従的になったり、依存的になったりする。
ひとりで遊ぶことができない。
あるいはひとりにしておくと、「退屈」「つまらない」という言葉を連発する。
これに対して、自主性のある子どもは、ひとりで遊ばせても、身の回りから
つぎつぎと新しい遊びを発見したり、発明したりする。

●児童期と青年期

児童期には、勤勉性の確立、さらに青年期には、同一性の確立へと進んでいく
(エリクソン)。

勤勉性と同一性の確立については、エリクソンは、別個のものと考えているようだが、
実際には、両者の間には、連続性がある。
子どもは自分のしたいことを発見し、それを夢中になって繰り返す。
それを勤勉性といい、その(したいこと)と、(していること)を一致させながら、
自我の同一性を確立する。

自我の同一性の確立している子どもは、強い。
どっしりとした落ち着きがある。
誘惑に対しても、強い抵抗力を示す。
が、そうでない子どもは、いわゆる「宙ぶらりん」の状態になる。
心理的にも、たいへん不安定となる。
その結果として、つまりその代償的行動として、さまざまな特異な行動をとる
ことが知られている。

たとえば(1)攻撃型(突っ張る、暴力、非行)、(2)同情型(わざと弱々しい
自分を演じて、みなの同情をひく)、(3)依存型(だれかに依存する)、(4)服従型
(集団の中で子分として地位を確立する、非行補助)など。
もちろんここにも書いたように、誘惑にも弱くなる。
「タバコを吸ってみないか?」と声をかけられると、「うん」と言って、それに従って
しまう。
断ることによって仲間はずれにされるよりは、そのほうがよいと考えてしまう。

こうした傾向は、青年期までに一度身につくと、それ以後、修正されたり、訂正されたり
ということは、まず、ない。
その知識がないなら、なおさらで、その状態は、それこそ死ぬまでつづく。

●幼児と老人

私は母の介護をするようになってはじめて、老人の世界を知った。
が、それまでまったくの無知というわけではなかった。
私自身も祖父母と同居家庭で、生まれ育っている。
しかし老人を、「老人」としてまとめて見ることができるようになったのは、
やはり母の介護をするようになってからである。

センターへ見舞いに行くたびに、あの特殊な世界を、別の目で冷静に観察
することができた。
これは私にとって、大きな収穫だった。
つまりそれまでは、幼児の世界をいつも、過ぎ去りし昔の一部として、
「上」から見ていた。
また私にとっての「幼児」は、青年期を迎えると同時に、終わった。

しかし今度は、「老人」を「下」から見るようになった。
そして自分というものを、その老人につなげることによって、そこに自分の
未来像を見ることができるようになった。
と、同時に、「幼児」から「老人」まで、一本の線でつなぐことができるようになった。

その結果だが、結局は、老人といっても、幼児期の延長線上にある。
さらに言えば、まさに『三つ子の魂、百まで』。
それを知ることができた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 エリクソンの心理発達段階論 (1) 乳児期(信頼関係の構築)
(2) 幼児期前期(自律性の構築) (3) 幼児期後期(自主性の構築) (4) 児童
期(勤勉性の構築)(5) 青年期(同一性の確立))

●さあ、考えよう

2009-11-20 08:45:35 | 日記





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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 11月 20日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


●子どもの識字能力テスト

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文字を読めない子どもがいる。
読んでも、文の内容を理解することができない。
文を文法的に分解できない。
そのため文が構造としてもつ意味を、論理的に
頭の中で組み立てることができない。

程度の差もあるが、全体の5%(20人に1人)は
いると言われている。

このタイプの子どもで悲劇的なのは、その子ども自身
がもつ問題もさることながら、まわりの人たちが
それに気づかず、その子どもに、無理をすること。
それがあるかぎり、その子どもはその苦痛と、ひとりで
闘わなければならない。

具体的には、小学2、3年になってから、算数の
文章題が読めないなどといった症状をともなって、
それとわかるようになる。

現在、識字能力障害をもつ子どもは、LD児(学習障害児)
として扱われることが多い。
しかし文章を読解できないということで、その影響は
ほかのすべての教科に影響を与える。

さらに、無理な学習、強制的な学習が日常化して
いるため、(文字嫌い)→(読み書きが苦手)→
(本嫌い)→(無理な学習、強制的な学習)→
(ますます文字嫌いになる)という悪循環がつづく。

そのため識字能力障害については、そういう子どもで
あると、できるだけ早い段階で発見し、適切な対処
が必要となる。

ただ残念なことに、現在、こと識字能力害者に
ついては、先にも書いたように、LD児として
取り上げられることが多く、またその範囲での
指導しかなされていない。

識字能力障害者対する適切な指導法は、まだ確立
されていない、

そこでまず診断法の確立ということになる。
筆者は、小学2年生(満8・0歳児)
を対象にした、テスト法を考案してみた。

+++++++++++++++++++++++

【識字能力障害・判別テスト法】(小学2年生(満8・0歳児)用)

【テスト方法】

●(重要)「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」と強く指示する。
無音であっても、口をモゴモゴさせる、口を開くなどの動作が見られたら、
強くそれを制止する。
「声を出さなければ、読解できない」と子どもが言っても、無視するか、
改めて、「口をしっかりと閉じて読んで、答えてください」とだけを繰り返す。
  
★読解判断力

【問】

 おとといのよる、ぼくの お父さんが、「あした、みなで 海へ 行こう」と言いました。
お母さんも いっしょに行くと言いました。 それで みなで したくをして、つぎの日、
海へ行きました。 今日は 8月10日です。 海へ 行ったのは、なん月なん日ですか。

【答え】 (  月  日)

★論理判断力

【問】

 Aのスイッチを、おすと、Xのライトが、つきます。 Bのスイッチを おすと、Y
のライトがつきます。 しかしCのライトを おすと、Xのライトが ついているときは、
Xのライトは、きえます。はんたいに、Yのライトが きえているときは Yのライトが
つきます。 いま、わたしは、(A)→(B)→(C)の じゅんに スイッチを おしま
した。 いま、ついている ライトは、どれですか。

【答え】 (  )のライト

★文章理解力

【問】わたしは おかあさんと おかあさんの ともだちと 3人で ちかくの みせで
くだものと やさいを かいましたが、 かえりに おかあさんの ともだちの こども
に あったので、 おかあさんが そのこどもに かったばかりの バナナを 1ぽん
あげました。 こどもに バナナを あげたのは だれですか。

【答え】(          )

★計数問題

【問】お父さんは、りんごを3こ、みかんを2こもっています。お母さんは、みかんを1
こと、ももを3こもっています。わたしはももを2こ、りんごを3こもっています。みん
ながもっている くだものを あわせると、いちばん おおいのは、なにですか。

【答え】(          )


(注)調査結果は、後日、公表する予定。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 子どもの識字能力 識字障害 読解力 文を読めない子供 識字
能力テスト 子供の障害)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

【書くことの意義】

●文章論 

文字が発明された。
文字がつながり、文章となり、意思の伝達方法となった。
そのとき、人は、石器時代に終わりを告げた。
当時ですら、ある程度の言葉があり、声の届く範囲内では、それなりの意思の伝達はなさ
れたであろう。
しかし文字の発明により、その範囲は恐ろしく広がった。
空間的な広がりだけではない。
過去から未来へと、時間的にも広がった。
が、それだけではない。

 論理的な思考は、文章を書くことによってのみ、可能である。
文と文をつなげるもの。
それが「論理」ということになる。
これについても、文章でなくても、論理的な思考は、ある程度は可能かもしれない。
しかしあくまでも、「ある程度」。

 このことは、自分で文章を書いてみると、よくわかる。
文章を書くということは、思考の連続。
(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

 が、そのとき、ひとつ大きな条件がある。
「人に読んでもらう」という条件である。
もちろん日記風に、プライベートな文章を書くということもある。
このばあいは、「人に読んでもらう」という目的はない。
が、それでも、文章にしたとたん、いつかはだれかに読まれることもあるだろうという思
いをぬぐい去ることはできない。
いつもどこかで、他人の目を意識する。

●読者の目

 が、ほとんどの文章は、「人に読んでもらう」ために書く。
たとえば今、私がここに書いている文章にしても、人に読んでもらうために書く。
そうである以上、一応、文章を書くについては、いくつかの作法がある。
その作法の部分で、これまた(考えながら書く)→(書きながら考える)。
この操作を絶え間なく、繰り返す。

●読んでもらう

 若いころ、ある雑誌社の編集長が、こう教えてくれた。
「文章というのは、まず、読んでもらわなければならない。
自分が書きたいことは、ぐいとがまんして、相手が読みたいことを書く。
『あなたは、すばらしい。あなたは、いい人だ』とね。
そしてその一部で、『こういう意見もありますよ』といって、自分の意見を入れる。
一部でも、入れられれば、御の字」と。

 これは雑誌社の編集長の言葉である。
雑誌という本のもつ性質上、そうかもしれない。
雑誌というのは、読者に買ってもらわねばならない。
だからそこに書く文章も、それに応じて、読者が読みたい文章でなければならない。
読んだ人が、気持ちよくならなければならない。
楽しまねばならない。
が、こうした場で、私が書く文章について言えば、そこまで読者に媚(こび)る必要はな
い。
私は私。
しかし、あのときあの編集長が教えてくれた言葉は、今でも、私が文章を書くときの柱に
なっている。
まず読んでもらわなければならない。

 そのためには、当然、読みやすい文章でなければならない。
読んで、読んだ人が、役に立つ文章でなければならない。
書くほうにしても、意味のない、ただの駄文など、時間つぶしにもならない。
つまり、時間の無駄。
そこでやはり、先の言葉に戻る。
(考えながら書く)→(書きながら考える)と。

●書くことの意味

 考えることの重要性については、今さら、改めて書くまでもない。
人は文字の発明によって、石器時代から抜け出ることができた。
が、つぎに考えることによって、それぞれの個人が、ひとり立ちすることができるように
なった。
『考えるから、私は私』ということになる。

 もし考えなければ、人は人の範囲の中で、とどまってしまう。
その範囲で、生まれ、死ぬことになる。
ちょうど北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメであるように、人は人。
一見すると、みな個性的に見える。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしているように見える。
しかしその範囲を超えることはできない。
つまりその範囲を超えるために、私たちは考える。

 その道具として、文字があり、文章がある。

●相対的次元

 このことは、反対に、考えない人を見ればわかる。
あるいは文章を書かない人を見ればわかる。
……といっても、その(ちがい)は相対的なもので、上には上がいるし、反対に、下には
下がいる。

 人はより深く考えることができるようになって、はじめて、それまでの自分が、つまら
ない人間であったことを知る。
しかしそこでその人の立場が、固定するわけではない。
さらに深く考えることができるようになると、さらにそれまでの自分が、つまらない人間
であったことを知る。
この繰り返し。

 文章についても、そうである。
つまりこうして人は、そのつどものを書き、ものを考えながら、より高い次元へと到達し
ていく。

●思考の敵

 ところで、考えることには、いくつかの(敵)がある。

その第一が、思考のループ。
その第二が、思考の欠落。

 思考のループというのは、10年、あるいは20年一律のごとく、同じことを考え、同
じ言葉を繰り返すことをいう。

先日も、ある男性(66歳)と話していたら、何を勘違いしたのか、私にこう言った。
「あんたも男だろがア!」と。
久々に、聞いた言葉である。
「……だからそれがどうしたの?」と言いそうになったが、やめた。
私が相手にしなければならないような人ではない。
 
 で、そのあと、こう思った。
「この人は、この40年以上、思考が停止している」と。
今どき、こんな論理をふりかざす人は、少ない。

 また「思考の欠落」というのは、思考力はもちろんのこと、せっかく考えることで得た
知識にしても、日がたつと、脳みその中から欠落してしまうことをいう。
ちょうどモノが欠けるように、ポロッと欠落してしまう。
さらに恐ろしいことに、それが加齢とともに、はげしくなる。
加速する。
たった1か月前のことですら、忘れてしまうということも珍しくない。

●気がつかないまま……

 思考のループにせよ、思考の欠落にせよ、なお悪いことに、そういう状態にありながら
も、それに気づかないということがある。
たとえば何も書かず、何も考えず、ついでに何も読まず、ボーッと、1か月を過ごしたと
する。
 
 その1か月の間、思考はループ状態のまま、同じところをクルクルと回っている。
回っているだけならまだしも、思考の欠落によって、その半径が、どんどんと小さくなっ
ていく。
 が、当の本人が、それに気づくことはない。
「私は私」と思っている。
あるいは、「今の私は、1か月前の私と同じ」と思っている。
しかし実際には、思考は欠落している。

●マイナスの一次曲線

 私はこのことを、ある特別擁護老人ホームに出入りしたときに知った。
要介護度4とか5になってくると、(当時は5段階だった)、大半の老人は認知症を併発し、
家族とですら、満足な会話ができなくなる。
一日中、大声で、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいる女性もいた。

 が、そうした老人たちにしても、ある日、突然、そうなるのではない。
ある時期から、徐々に、少しずつ、時間をかけてそうなる。
もしその変化を、マイナスの一時曲線で表示できるとするなら、それはひょっとしたら、
満50歳くらいから始まるのではないか。

 このころから、知力、気力、思考力などが、下り坂に向かい始める。
その間に、思考はループ状態になり、思考の欠落が、つぎつぎと始まる。
話し方がぶっきらぼうになったり、かったるくなったりする人もいる。
気がついたときには、脳みそは半減し、さらに4分の1になる(?)。

●恐怖

 考えることの重要性は、何度も書いてきた。
が、(考える)ための方法は、ひとつではない。
ほかにもある。
しかし論理的にものを考えていくとなると、(書くこと)以外に、方法はない。
……と断言するのは、危険なことかもしれないが、私は、そのほかの方法を知らない。

 たとえば先週、私は4~5日の間だったが、スランプ状態に陥ってしまった。
頭の中がモヤモヤとするだけで、何も書けなくなってしまった。
その前に何も考えることができなくなってしまった。
そのときのこと。
私は本当に、自分が、バカになってしまったように感じた。
「いよいよ認知症が始まったか」とさえ思った。
何かこまかい問題が起きても、それを頭の中で整理することすらできなくなってしまった。
同じことをクルクルと、何度も考えているだけで、前に進まない。

 とたん、あの特別擁護老人ホームで見た老人たちの姿が、頭の中に思い浮かんできた。
私にとっては、それは恐怖以外の何ものでもなかった。

●終わりに……
 
 こんな文章を書きながらも、その一方で、論理的な矛盾はないか。
文章に一貫性はあるか。
さらに読者の人に読んでもらって、それに耐えうる文章であるか。
そんなことに、気を配る。
つっこみは甘くないか。
文章に無理はないか。
他人を不愉快にするようなことはないか。
さらに私の書きたいこと、つまり読者のみなさんに伝えたいことが、的確に書けているか。
そんなことを、心配する。

 ……つまりこうした一連の操作が、(考える)ということになる。
(考えながら書く)→(書きながら考える)を繰り返す。
それがタイトルにあげたように、【書くことの意義】ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 書くことの意義 思考のループ 思考の欠落 文章と思考)

●武士道(1)

2009-11-20 08:42:57 | 日記
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●武士道(1)

+++++++++++++++++++++++

けっして、死を美化してはいけない。
生を美化することはあっても、死を美化してはいけない。
私たちは、まず、生きることを考える。
生きて生きて、生き抜く。
死はその結果としてやってくるかもしれないが、
そのときは、そのとき。
死の向こうには、何もない。
そこは太虚の世界。
だから、死を美化してはいけない。

武士道を一言で言えば、その底流にあるのは、
死の美学ということになる。
武士の象徴が、「刀」にあるとするなら、その
刀は、人を殺すためのもの。
この原点を踏み外して、武士を論じてはならない。
武士道を論じてはならない。

新渡戸稲造は、「武士道」の中で、あの赤穂浪士を、
最大限の言葉を使って、称賛している(「武士道の世界」
イースト・プレス)。

「義士と呼ばれるこの正直な率直な男子たちの徳は、
宝石のように光り輝き、人々のもっとも高く、褒め
讃えたものだったのである」と。

+++++++++++++++++++++

●真の勇者(?)

新渡戸稲造は、真の勇者について、こうも書いている。
「戦いに臨んで討ち死にすることは、難しいことではない。
それはどのような野人でもできることである。
しかし生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬることこそ、真の勇者なのである」(同
書、P18)と。

 私は一度は、新渡戸稲造の「武士道」を一度は読破しなければならないと、思ってきた。
しかしその機会はなかった。
(20年ほど前、一度、目を通した記憶はあるが……。)
断片的な知識はたくさんもっている。
しかしそれらは、断片的なものでしかない。

 で、今度、コンビニで、イースト・プレス発刊の「武士道の世界」という本を買ってみ
た。
サブタイトルに、「誇るべき日本の原点」とあることからもわかるように、この本は、武士
道を礼賛する内容の本である。
そういう本を使って、私なりに武士道のもつ矛盾を指摘するのは気が引ける。
しかし礼賛する本であるがゆえに、私の脳みそに与える刺激も大きい。
1ページ読むごとに、脳の中で、バチバチと神経細胞が火花を飛ばすのを感じた。
が、この本ほど、「死」「自害」「討ち死に」「戦」という言葉が並ぶのも、そうは多くない。

 「武士道の真髄」(P181)というところを紹介する。
「真髄」とあることからもわかるように、武士道の根幹を説明したものである。

+++++++++++++++++++

『武士道といふは、死ぬ事と見付けたり(葉隠)。

 このあまりにも衝撃的で有名な言葉は、山本常朝が口述し、田代陣基が筆記、編纂した
『葉隠』の冒頭に記された、武士道の真髄を表すものだ。
 主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の武士であるという
心得を説いている。
 「武士は生と死、どちらかを選ぶ場合、必ず死を選ばなければならない」のである。
 「生き恥をさらす」と言われるように、この時代の武士道精神においては、戦に勝てな
いときは、死ぬことで忠義を果たさなければならないと考えられていた。
 しかしこの言葉には、さらに深い意味がこめられている。
生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、その武士は本分を全
うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教えだと言えるだろう』
と。

++++++++++++++++

●命を捧げる

 この部分を読んだとき、まっさきに頭に浮かんだのが、K国の金xx。
あの独裁者。
金xxが読んだら、涙を流して喜ぶにちがいない。
あの国では、幼稚園の子どもですら、「金xx将軍様を、命をかけて守ります」と連呼して
いる。
おとなたちは、「死守」という言葉を使っている。

 それはさておき、「主君のためならいつでも自分の命を捧げることができるのが、本当の
武士である」という部分だけでも、バカげている。
もしあなたがまともな思考力をもっている人なら、あなたもそう感ずるだろう。

 主義や理想、正義や真理のためなら、命をかけることはある。
しかし「命をかける」イコール、「命を捧げる」ではない。
いわんや、相手が、人間である、「主君」?
こういう思想を、私の世界では、「隷属思想」という。

●主君の主君は?

 学生のころ、友人と、こんな議論をしたことがある。

 「主君に主君がいたら、そのばあいは、どちらに命を捧げるのか」と。

 つまりあなたの仕える主君が、あなたの住む領地を治める領主だったとする。
当然、その領主には、彼が主君とあがめる、藩主がいる。
藩主の上には、将軍がいる。

 こういうばあい、あなたという家来は、藩主や将軍に命を捧げる必要はない。
何かを命じられても、それに従う必要もない。
あなたの主君は、あくまでも領主。
領主の命令だけを聞き、その領主のために、命を捧げる。

 もう少し話をわかりやすくするために、会社組織で考えてみよう。

 あなたが営業課の係長だったとする。
あなたの直接の上司は、営業課の課長。
そんなある日、営業課が入っている制作部の部長から、直接、あなたに命令が届いた。
つまり課長の頭を通り越して、あなたに命令が届いた。

 こういうケースのばあい、あなたはその部長の命令に従う義務があるのか。
それともないのか。

 会社によって組織の運営方法が異なるので、「従わなければならない」という会社もあれ
ば、「従わなくてもいい」という会社もある。
しかしこと武士の世界では、主君というのは、先のケースでは、あくまでも領主というこ
とになる。
藩主や、将軍の命令に従う必要はない。
命を捧げる必要もない。

 これが学生時代に、私たちが知った結論である。
そのヒントを与えてくれたのが、ヤクザの世界である。
当時、(今でもそうだが……)、ヤクザの世界には、武士道の精神が、そのまま残っていた。
ヤクザの世界では、直接上にいる兄貴分が、武士の世界でいう主君ということになる。

●主従関係

 もっとも、封建時代の昔ならいざ知らず、「主君に命を捧げる」という発想は、今は、な
い。
主従関係も、西洋の契約説によって決まる。
わかりやすく言えば、「金の切れ目が縁の切れ目」。
給料がもらえなくなったら、そこで主従関係は、消滅する。

 人それぞれだが、私なら、断る。
どう考えても、主君のために命を捧げるという発想そのものが、バカげている。
つまりこんなところにも、武士道が説く、(死の美学)が見え隠れする。

 繰り返すが、死を美化してはいけない。
その延長線上に、戦争がある。
その一歩手前に、特攻隊があり、自爆テロがある。
私たちは死ぬために生きているのではない。
生きるために生きている。

 この本の著者は、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間に、自由な自然体に到達し、
その武士は本分を全うするために生き抜くことができるという、悟りの境地を示した教え
だと言えるだろう」と書いている。

 それにしても、「生に対する執着心や恐怖を手放した瞬間……悟りの境地に達する」と
は?
いつの間にか、仏教の教えが、そのまま武士道の精神にすり替えられてしまっている?

●武士の作法

 戦国時代はともかくも、以後、日本は300年という長い年月の間、太平天国の時代を
迎える。
その間に、武士道も、当初の戦闘を目的としたものから、権威づけのための作法の「道」
として変質する。
作法に始まって、作法に終わる。
それが武士道の柱と考えてよい。
いくつかを拾ってみる。

(1)鞘(さや)当て……武士の世界で、刀と刀の鞘が当たることは、何にもまして「無
礼極まりないこと」だったそうだ。
だから武士どうしは、廊下を歩くときも、左側通行が作法と決められていた。

(2)手はぶら下げて歩く……いつでも刀を抜けるように、手荷物も持たないし、傘もさ
さない。

(3)妻は後ろを歩かせる……妻と並んで歩くなど、軟弱者の証。
   襲撃から守るという意味もある。(以上、同書)。 

 こうした作法が、ズラズラと、それこそ無数にある。
武士の刀をまたいだだけで、切捨て御免になった人も多いという。
また女性は、武士の刀に、直接手を触れることさえできなかったという。
しかしなぜ、「刀」なのか?

●武士と刀

 武士の人口は、江戸時代においては、5%前後と言われている※。
しかしこの数字には、武士の家族も含まれているため、実際には、刀を差していた武士は、
全人口の1~2%以下だったと推計される。
残りの95%のほとんどが、農民であった。
その1~2%が、為政者として、好き勝手なことをした。
その好き勝手なことをする象徴として、「刀」があった。
武士が刀に執着する理由は、ここにある。

 私はこんな話を、直接、その女性から聞いている。

 私が住んでいる山荘のある村は、400年以上もの歴史のある、由緒ある村である。
その山荘の隣人に、10年ほど前、88歳で亡くなった女性がいる。
いわく、「明治時代に入ってからも、士族の人たちは、このあたりでは刀を差して歩いてい
た」と。

 「刀の鞘どうしがカチャカチャと当たる音が、遠くから聞こえてくると、みな、道路の
脇に寄って、正座し、頭をさげた」と。

 言うなれば、95%の日本人が、5%の武士を支えるために、犠牲になっていた。
そういう世界が、いかにおかしな世界であるかは、あなた自身を、その農民の立場に置い
てみればわかる※。
あなた自身の先祖も、その農民であったはず。
(私の先祖も、農民だった。)

 一生、土地にしばられ、職業選択の自由もなかった。
当時生きていた人たちもまた、私やあなたと同じ人間であった。
犬や猿とは、ちがう。
そういう人たちを原点に考えるなら、「何が武士道か?」ということになる。
さらに言えば、この武士道が、やがてあの戦陣訓へとつながっていく。
それについては、前にも書いた。

 もちろん歴史は歴史だから、それなりの評価は必要である。
しかしそれがもつ(ネガティブな側面)に目を閉じたまま、一方的に武士道なるものを礼
賛することは、危険なことでもある。
どうして武士道が、「誇るべき日本人の原点」(本のタイトル)なのか?

 今、武士道を、教育の柱にしようとする動きが活発になっている。
またその種の本が、100万部単位で売れている。
これを民主主義の後退と言わずして、何と言う?
忘れてならないのは、新渡戸稲造が活躍した時代と、同じ時期に、福沢諭吉がいたという
こと。
福沢諭吉らは、やがて明六社に合流し、日本の封建主義を清算しようとした。

 私は、福沢諭吉らのしたことのほうが、正道だと思のだが……。
それに「原点」とは何か?
何も原点にこだわる必要もない。
原点が正しいわけでもない。
大切なことは、おかしな復古主義にとらわれないこと。
私たちはいつも新しい原点を求めて、前に進む。

 ……と、少し頭が熱くなったので、この話は、ここまで。
なお本書(「武士道の世界」)は、つぎのように結んでいる。

 『おわりに……そんな現代であるからこそ、日本人としての精神的意識が必要なのであ
る。
不道徳な世相を嘆いていても何も始まらない。
世界に通じる精神体系・武士道を心に携え、今こそ日本人としてのアイデンティティを世
界に発信してほしい』と。

(※注1)明治6年1月調べ・・・旧武士数は平民の16分の1にして総数408,823戸、
1,852,445人であった。幕末においてもこの数字と大差なかったものと考えられる。人口構
成は概数的に6.25%である。(土屋喬雄「幕末武士の階級的本質」)

 どの藩も武士の数は軍事機密になっていた。したがって、今となってはその人口は、推
計する以外にない(筆者注)。

(※注2) 徒士といえども、家老に対しては下駄を脱がざるをえなかったのが実情で、
城下において百姓町人は、足軽以上に出会えばまず平伏・土下座など屈辱的敬礼を強いら
れた。どの階層に属するか、着衣や服装で判断できる社会の仕組みになっていた。(「社会
構造と現代社会HP」より)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 武士道 武士の作法 武士道精神)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【進歩論】

●2001年のカタログ

 どういうわけか(?)、テーブルの上に、2001年当時の、パソコンのカタログがある。
SONYのVAIOのカタログである。
当時、「買おう」と思って、どこかの店で手に入れたものだろう。

 型番は、「バイオノートFX」(PCG-FX77)。

 仕様を見ると、これが恐ろしく貧弱。
もちろんデザインも古い。

 メモリーは、たったの32KB。(現在は、ノートでも、2~4GBが標準。)
 ハードディスクは、たったの20GB。(200~400GB)
 OSのプロセッサーにしても、たったの750MHz!(1・6~3・0GHz)

 しかし当時としては、最新の、かつ最先端を走るパソコンだった(?)。
つまりこの8年間で、パソコンの世界は、格段に進歩した。

 で、そのカタログを見ながら、では「10年後はどうなっているのだろう?」と考える。
恐らくというより、確実に、現在のカタログを見ながら、同じように思うにちがいない。
進歩というのは、そういうもの。

 そこで進歩論。

●武士道(2)

2009-11-20 08:42:19 | 日記


●進歩論

 進歩は、つねに麻痺(まひ)を連れだって、やってくる。
進歩を感じても、それは一時的なものでしかない。
内容にもよるが、感動も一巡すると、やがてそれが当たり前になる。
進歩がわからなくなる。
こうして私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求めて、さまよい歩
く。

 つまり私たちにとって大切なのは、(進歩)そのものではなく、(進歩したという快感を
得ること)ということになる。
もちろんその背景には、企業どうしのはげしい闘いがある。
少しでも手を抜いたら、そのまま相手企業に、追い抜かれてしまう。
SONYにしても、もし2001年で進歩を止めてしまっていたら、今ごろは、完全に倒
産している。

しかしそれを外からながめている私たちは、少しちがった見方をする。
そうしたはげしい競争から生まれる新製品を、(進歩)ととらえ、それを楽しんでいる。
事実、ちょうど10年ほど前、10Gのハードディスクが生まれたとき、私たちは目を白
黒させて、驚いた。

●進歩依存症

 こうした(進歩したという快感)は、依存症に似ている。
たとえば買い物依存症というのがある。
買い物依存症になると、同じものでも、どんどんと買ってしまう。
そのものがほしいから、買うのではない。
(買うこと)から得る快感を、味わうために、買う。
快感を満足させるために、買う。

 が、しばらくすると、つまりその満足感が落ち着いてくると、またその快感を満足させ
たくなる。
脳の線条体に、そのための受容体ができあがると、依存症はさらに加速する。
そのメカニズムは、アルコール依存症、ニコチン依存症と同じと考えてよい。
陳列されているバッグを見ただけで、ググーッと、それがほしくなる。
家に同じものをもっていても、ほしくなる。

 私たちが(進歩)を楽しむ心も、それと同じ。
進歩した新製品を見ると、何とも言えない快感に襲われる。
もちろん、そのものをほしくなる。
しかしある程度時期が過ぎると、その熱も冷めてくる。
そしてそれが当たり前になる。
で、先にも書いたように、私たちは、(進歩)→(麻痺)を繰り返して、つぎなる進歩を求
めて、さまよい歩く。

●限りない欲望

 1000万円の金融資産をもっている人は、つぎに2000万円、ほしくなる。
1億円の金融資産をもっている人は、つぎに2億円、ほしくなる。
いくらあっても、満足するということはない。
(もちろんいくらほしくても、そこには限界はあるが……。)

 同じように、(進歩)にも、際限がない。
今度は、その進歩を楽しむ側(=私たちの側)で考えてみよう。

 10年前には、HPの更新をするだけでも、たいへんだった。
(あくまでも今から思い起こすと、たいへんだったということだが……。)
HPの容量にも限界があったし、FTP送信するだけでも、時間がかかった。
が、今は、その10倍以上の容量を、わずかな時間で送信できる。
新しいサービスも、つぎつぎと登場してきている。

 で、ときどきこう思う。
「進歩したからといって、それがどうなのか?」と。

 たとえば電子マガジンがある。
私は少し遅れてスタートしたが、そのサービスが始まったころには、もの珍しさも手伝っ
て、どんなマガジンを出しても、あっという間に、読者が1000人単位でついたという。
が、今では、毎月、数人ふえる程度。
それでもよいほうだそうだ。
つまり減らないだけ、よいほうだそうだ。

 つまりあまりにも進歩が速すぎて、電子マガジンが、ひとつのジャンルとして定着する
前に、つぎのが始まってしまう。
そのあとに始まった、ブログにしても、ブロフにしても、そうだ。
今、流行しているのは、ツィッターとか、フェイスブック。

 もう少し進歩をゆるめてくれないと、私たちは、ただそれに振り回されるだけで、終わ
ってしまう。
(私自身は、時代が終わったと言われても、かたくなに、電子マガジンの発行をつづけて
いるが……。)

 しかし全体としてみると、(進歩を恨む気持ち)よりも、(進歩を楽しみにする気持ち)
のほうが強い。
かくして、進歩は、これからもつづく。
繰り返しになるが、それは買い物依存症のようなもの。
世界中の人たちが、そうなっている。
私やあなたの力くらいでは、この(流れ)を止めることはできない。
それが、「進歩」ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW 進歩論 買い物依存症)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

【バッテリーの正しい使い方】

++++++++++++++++++

ロワ社から今度、パソコン用の
予備のバッテリーを購入した。
そのとき正しいバッテリーの使い方を、
メールで送ってきてくれた。

やっとわかったぞ!

……ということで、ここに掲載させて
もらう。

++++++++++++++++++

★★ロワ太郎のバッテリ使用習慣★★★
        
×)バッテリーが届いてから、そのまま放置
◎)バッテリーが到着後、すぐに満充電をし、普通の使用で残量
  が空になるまで使用、その後、再度満充電。
  この充放電の繰り返しを3回~5回する。

×)旅行や運動会などの使用機会がないので引き出しに長期間保管
◎)二週間に一度は取り出し、ご使用なさるのがベストです。
  1ヶ月以上使用しない場合はバッテリーの性能維持の為に、
  30~40%程度の充電残量状態で本体から取り外し、
  冷暗所に保管してください

×)オリジナル(純正品)を使い切ってから
  ロワのバッテリーを予備で使用
◎)オリジナルとロワのバッテリーをお持ちの場合は、交互で
  使用すること。バッテリーは長期間使用しないと、
  バッテリー内の化学反応がなくなる可能性があります。

×)バッテリーをカメラに入れたままで保管
◎)バッテリーを本体に取り付けておきますと、
  本体の電源が切れた状態でも少しずつ放電されます。
  この状態が長期間(数ヶ月以上)続くとバッテリーが
  過放電状態になり、性能が劣化する可能性があります。

×)車の中にそのまま置くこと
◎)炎天下の閉め切った車内など湿度の高い場所で
  バッテリーを保管しますと、劣化が進み、膨張などの
  危険があります。
  バッテリーは10~30℃の場所で保管して下さい。

×)旅行前夜、寝る前にベットのそばのコンセントに充電器を差し、
  不安定な場所で、寝ている間に充電
◎)周りに何もないところで、状況を確認しながら充電してください
万が一、ご使用方法の誤りによってバッテリの落下、温度の高い
場所での保存等で発熱、発火が起きた場合、火災になる恐れがあり
ます

×)商品の調子がおかしい?自分で修理加工してみる
◎)商品を分解、加工した場合、保証対象外となり、また危険が
  起きる可能性もございますので、まず弊社にご連絡ください

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 バッテリーの使い方 予備バッテリー)


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 はやし浩司のホームページ http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
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■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

【BW生・募集中!】

 (案内書の請求)

   http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page228.html

 (教室の案内)

    http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html

●小学生以上の方も、どうか、一度、お問い合わせください。

■□コマーシャル★★★★★★コマーシャル□■

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このマガジンがお役にたてそうな人が、あなたのまわりにいませんか?
よろしかったら、どうか、このマガジンのことを、お友だちの方に
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よろしくお願いします。              はやし浩司
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.みなさん、次号で、またお会いしましょう!
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