最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●誠司

2009-11-01 21:13:30 | 日記
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最前線の子育て論byはやし浩司表紙(1) posted by (C)BWのはやし

●教育の自由化

2009-11-01 19:53:38 | 日記
【教育の現場では、今……】

+++++++++++++++++++

教育というのは、手をかけようと思えば、
いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、
いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、
プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。

教育のこわいところは、この一点にある。

+++++++++++++++++++++

●教育は重労働

 私はいつも、こう書く。
「教育は、重労働である」と。
それは教えたものでないと、わからない。
いや、あなただって、それをわかっているはず。
たった1人や2人の子どもの子育てで、あなたは四苦八苦している。
それを30人近くも1人の教師に押しつけて、「しっかり、面倒をみろ!」は、ない。

 今、現在、園にせよ、学校にせよ、教師たちは雑務、雑務の連続で、
本来の教育そのものができない状態にある。
ある女性教師は、私にこう話してくれた。
「授業中だけが、休める場所です」と。

 「私は教科指導をしていますが、生活指導の先生なんかは、毎日徹夜です」と。
たとえば子どもが家出したとする。
そういうとき親がまっさきに電話をかけるのは、警察ではなく、学校の教師。
そのたびに、教師は、駆り出される。
だから「徹夜になる」と。

 この問題は、教員の数をふやせば解決するとか、給料をあげれば解決する
という問題ではない。
さらに最近では、外国人の子どもの問題もある。
それについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

が、私の経験でも、授業のリズムに乗れない子どもが、10人の中に
1人でもいると、リズムそのものが破壊されてしまう。
2人いたら、授業はめちゃめちゃ。
しかし現実には、5人に1人は外国人という小学校もある(K市K小学校)。

●雑音、騒音、騒動

 私たちは園や学校の教師をして、聖職者であると、安易に位置づけしすぎて
いるのではないか。
どの教師も、「私たちだって、ふつうの人間」と叫びたがっている。
が、そういう声を、親たちは、知って知らぬフリをしながら、押しつぶしてしまう。
そして無理難題をふっかけては、教師を窮地に追い込む。

 はっきり言おう。
親の欲望には、際限がない。
進学学校にしても、何とかB中学に入れそうになると、今度は、「A中学へ」となる。
A中学へ入れそうになると、今度は、「S中学へ」となる。
もっと生々しい話もある。

 明らかに緘黙症の子ども(小2男児)であるにもかかわらず、毎週のように
教師に電話をかけ、「どうすれば、うちの子は、もっとハキハキするでしょうか」
と相談していた母親がいた。

 明らかに親の過干渉と過関心で萎縮してしまった子ども(小5男児)もいた。
で、ある日、母親から相談したいという電話が入った。
会って話してみると、その母親は、こう言ったという。

「小4までの担任の教え方が悪くて、うちの子はああなってしまった。
あの教師は、教師として不適格だ。
やめさせてほしい」と。

 こうした雑音、騒音、それに騒動は、まさに日常茶飯事。
それに巻き込まれて、授業がマヒしている教室となると、いまどき珍しくも
なんともない。
けっしておおげさなことを書いているのではない。
学校全体が、マヒ状態のところもある。

 ある小学校では、教師がデジタルカメラで、女児(小5)の着替え姿を
撮った、撮らないで、大騒ぎになってしまった。
親どうしが、言った、言わないで、裁判になってしまったケースもある。
さらにささいな言動や、軽い体罰が理由で、任期半ばで、余儀なく転校
させられていく教師となると、いくらでもいる。

●子どもたちが犠牲者

 今、教育のシステムそのものが、疲弊している。
今のままでよいとは、だれも思っていない。
が、最終的に、その最大の犠牲者はとなると、結局は、子どもたちということになる。

 教育というのは、10年後、20年後を見据えてする。
言い換えると、その結果が出てくるのは、10年後、20年後ということになる。
30年後でもかまわない。

 民主党の管直人氏は、こう言い切った。
「(官僚たちは)知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで
大ばかだ」と。
10月31日、民主党都連の会合での講演で、である。

 官僚でも、ある年代の人たちは、受験勉強だけで官僚になった。……なれた。
クラブ活動も、人づきあいもしない。
何もしない。
そういう子どもが、受験勉強だけをうまくくぐり抜けて、官僚になった。
現在が、その(結果)と言えなくもない。

 つまりここで子どもたちを、未来の日本を見据えながら、しっかりと教育
しておかないと、そのツケは、10年後、20年後、さらには30年後に、
子どもたち自身が払うことになる。

 もう少しわかりやすい例で言えば、「ゆとり教育」がある。
今では、このあたりの中学生でも、本気で勉強している子どもとなると、40%も
いない(ある中学校の校長談)。

残りの60%は、高校進学についても、「部活でがんばって、推薦で入る」とか、
「勉強で苦労したくないから、進学高校には行きたくない」などと言っている。
すべてが「ゆとり教育」が原因とは思わないが、そうでないとは、もっと思わない。
「ゆとり教育」のおかげで、子どもたちのネジが緩んでしまった。
この10年で、そうなってしまった。

●教育の自由化

 話を戻す。

 今、重要なことは、学校の教育システムを変えること。
教師は教育だけに、(できるだけという条件をつけてもよいが)、専念できる
ような環境を、用意する。
教師を、(できるだけ)、雑務から解放する。

 子どもの教育は、親の自己責任でする。
「何もかも学校で……」という発想は、捨てる。
それが教育の自由化の最終目標ということになる。
「自由」とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味である。
そのために、欧米のように、課外のクラブ制度を導入するのもよい。

しかしこれには、文科省は、簡単には応じないだろう。
天下り先として機能している外郭団体だけでも、1700団体以上もある。
その数は、各省庁の中でも、ダントツに多い。
そういう組織に、がんじがらめになっている。

 だからおかしなことに、戦後、文部省だけは、世界の流れに背を向けた。
文部省をのぞく全省庁が、欧米に目を向け、欧米に追いつけ、追い越せを目標にした。
が、文部省だけが教育の自由化に、背を向けた。
そのしわ寄せが、結局は、回りまわって、現場の教師のところにやってきた。
親たちの意識も、旧態依然のまま。
その結果が、現在の状況ということになる。

 で、最後に一言。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそ、どこかの学習塾のように、プリント学習だけですませようと
思えば、それもできる。
相手は、子ども、批判力もない。
判断力もない。
ないまま、(学ぶこと)から遠ざかってしまう。

 教育のこわいところは、この一点につきる。
やる気をなくした教師たちが、どういう教育をし、どう子どもを育てていくか。
想像するだけでも、ぞっとする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 民主党 管直人 教育問題 教育の自由化 やる気 教師のやる気 ゆとり教育 弊害)

(付記)今、現場では……(現状を知ってもらうために)

●教師のやる気

「教師のやる気を決めるのは、親だ」と、その校長は、明確に述べた。
近くのK小学校のO校長である。
「教師のやる気を奪うのも、親だ」とも。

 教師は、聖職者ではない。
私やあなたと同じ、ごくふつうの人間である。
ふつうの人間であるというのが、悪いというのではない。
もし「悪い」ということになると、私やあなたは、何か
ということになってしまう。

 しかし本当の問題は、もうひとつ、その先にある。
依存性の問題である。
どうして日本の親たちは、こうまで学校に依存するようになってしまったのか。
どうして学校の教師たちは、こうまで何もかも、背負うようになってしまったのか。
そこまでメスを入れないと、この問題は解決しない。

●親の依存性

 たとえば今日の朝、「逆・母子分離不安」について書いた。
母子分離不安というと、子ども側だけの問題と考えがち。
しかし実際には、母親側の母子分離不安というのもある。
その中で、毎日、園の外から自分の子どもをながめている母親の話を書いた。
園の教師たちが、「だいじょうぶです」「任せてください」と何度
言っても、その母親の耳には聞こえない。
2、3日は姿が見えないので、やれやれと思っていると、
また園へやってきて、今度は身を隠しながら、自分の子どもをながめている。

 この話は、近くのY保育園の園長から、直接、聞いた話である。
で、その園長はこう言った。
「みんな(=先生たち)は、知らぬ顔して、園児を指導していますが、
その母親の姿を見るたびに、みな、おびえるようになりました」と。

 たぶん(?)、その母親は、自分の行為が、園の教師たちに、なんら影響を
与えていないと思っている。
「自分は、園の外から、自分の子どもを見ているだけ」と。
しかし実際にはそうでない。
そうでないことは、ここに書いたとおりである。

●青い封筒!

 また別の幼稚園では、こんな話を聞いた。

 その幼稚園に1人、たいへん神経質な母親がいた。
神経質というより、「子どもがすべて」という母親だった。
その母親が、毎週のように、手紙で、あれこれ園に注文をつけてきた。
「ああしてほしい」「こうしてほしい」「ここがいけない」
「あそこが気に入らない」と。
それがいつも、青い封筒に入れられて来た。

 1回や2回なら、ともかくも、それが毎週となると、教師たちに思わぬ
影響を与える。
園長は、こう言った。
「そのうち、みな、青い封筒を見ただけで、震えるようになりました」と。

●親の押しつけ

 こうした話は、あちこちで聞く。
どの幼稚園にも、心を病んで、病院通いしている教師は、1人や2人は、
かならずいる。
長期休暇を取っている教師も、珍しくない。
またこういう話を書くと、「そんなことで!」と思う人もいるかもしれない。
「そんなことで、震えたりするのか!」と。

 しかし現実は、現実。
現実は、そんなもの。
親たちは、幼稚園であれ、小学校であれ、「先生というのは、そういうもの」
と勝手に思い込み、それを教師に押しつけてくる。
しかし冒頭に書いたように、教師といっても、私やあなたと同じ、ごく
ふつうの人間である。

 用もないのに親が園へやってきて、ジロジロと中をのぞいていたら、
この上なく、やりにくい。
毎週、毎週、手紙で苦情を言われても、この上なく、やりにくい。
その(やりにくさ)を、このタイプの親は、理解できない。

 さらに最近では、携帯電話を使って、教師に直接あれこれ言ってくる
母親も多いという。
その教師(女性、30歳未婚)は、こう言った。
「そのため毎日、返事を書くだけで、1~2時間は取られます」と。
(そのあと、その小学校では、携帯電話でのやりとりを禁止したそうだが……。)

 が、先にも書いたように、こうした問題の根は深い。
どうして教師は、できないことは、できないと言わないのか。
いやだったら、いやと言えないのか。
その一方で、親は、どうして教師に、そこまで期待するのか。

 教育のシステムを変えないかぎり、こうした問題も解決しない。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●教師の本音

2009-11-01 13:32:25 | 日記
●ずるい言い方

++++++++++++++++++++++

ずるい言い方をする人は、多い。
たとえば重要な話を、どうでもいいような話に
くるんで、話したりする。

++++++++++++++++++++++

●ある勧誘

たった今、ある通信会社から、電話がかかってきた。
かなり年配の女性の声だった。
いわく、「電話の基本料金が、今より1200円安くなります」と。
NTTという名前を、うまく混ぜて使った。
で、少し話を聞いていると、こう言った。

「トータルで、私どもの光通信にすると、今より、約1200円、安くなります」と。

私「何ですか、そのトータルというのは?」
女「光通信にするとですね、電話の基本料金が、1200円ほど、安くなります」
私「だからア、何と、トータルなのですか?」
女「インターネット、なさっていますね?」
私「しています」
女「インターネットと合わせて、トータルで安くなるということです」

私「だったら、プロバイダー(サーバー)を変えろということですか」
女「そういうことになります」
私「だったら、最初から、そう言うべきじゃ、ないですか」
女「ハア~」
私「最初から、プロバイダーを変えませんか、と」
女「そうですねエ」

私「あのね、プロバイダーなんて、簡単に変えられませんよ」
女「メールアドレスなんかも、全部、変えなければなりませんからね」
私「それだけでもないですよ。同じアドレスをあちこちで使っていますから」
女「そうですね……」
私「そういうずるい言い方をしては、だめでしょう。知らない人だったら、
『はい』って、言ってしまいますよ。で、あとでたいへんなことになる」と。

 ずるい人は、大事な情報を、どうでもよい情報でくるみながら、話をする。
私は、この種のずるい言い方に出会うと、どういうわけか、頭にカチンとくる。
私の近くにも、そういうずるい言い方をする人がいた。
さんざん、ひどい目にあった。
そのときの(怒り)が、フラッシュバックしてくる。

 許せない!、……ということで、電話の女性を相手に、言いまくった。

私「最初から、正直に言えばいい。人をだますような言い方はしてはいけない」
女「すみません」
私「そんな言い方で、相手を勧誘しておいて、あとで、知りませんでは、
通らないでしょ」と。

 しかしなぜ、私がこうまで不愉快に思うかというと、もうひとつ、理由がある。
実は、私自身も、若いころ、ずるい人間だった。
ずる賢いというか、小ずるいというか……。
そういう人間だった。

だからずるい人を見ると、自己嫌悪感も重なって、そういう人に腹が立つ。
心理学では、「投射」という言葉を使って、それを説明する。
自分の醜い部分や、いやな部分を、相手に投げつけて、その相手を嫌ったり、
憎んだりすることをいう。

『ずるい人間は、ずるい人間に厳しい』ということ。
『泥棒の家は、戸締りに厳重』に近いが、『泥棒ほど、泥棒を憎む』のほうが、よい。

 で、この話には、つづきがある。
そのあと、私とワイフは、夕食を、牛丼のY家で食べた。
ワイフが割引券をもっていた。
「セットもの、50円引き」とあった。

 で、私は、牛焼肉セット、ワイフは、豚カレーというのを食べた。
店を出る直前、割引券を見ると、「10月31日まで」とあった。
ギリギリ、セーフ!
で、その券といっしょに料金を払おうとして、別の割引券を、もう一度よく見ると、
「午後3時まで」とあった。

 割引券の有効期限が、10月31日の午後3時という。
が、そのときには、すでに店員が、50円引きで、レジを打ってしまっていた。
時刻は、午後7時を回っていた。

私「アノ~、有効期限が、午後3時までになっていますが、いいですか?」
店「……ああ、そうみたいですね。ハハハ。もう時間が過ぎていますね」
私「正直に言ったから、『まあ、いいです』ということにはなりませんか?」
店「ハハハ、申し訳ございません。そういうことにはなりません」と。

 こうして私たちは、50円、損した(?)。
が、気持ちよかった。
損か得かということになれば、私たちは料理の半分も食べていない。
そちらのほうが、よほど、損。
それを言うと、ワイフは笑った。

 Y家の牛丼にかぎらず、このところファーストフードの店は、どこも料理の
量が多すぎる。
とても1人では、食べきれない。
が、全部食べたら、自分の体を損(そこ)ねる。
だから半分は、残すようにしている。

 正直が、いちばん。
正直に生きるのが、いちばん。
そのほうが、後味もよい。
まさに後(味)。

 私たちは土曜日の夜を過ごすため、山荘に向かっていた。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT.09+++++++++はやし浩司

●WINDOW7に

 今日、ビスタ搭載のパソコンを、WINDOW7に、UPGRADEしようとした。
……といっても、その下準備。

 UPGRADEしたいパソコンのウィルス対策ソフトは、WINDOW7に
対応していない。
しかし今度買った、XPパソコンのウィルス対策ソフトは、WINDOW7に
対応している。
そこで2つのパソコンにインストールしてある、それぞれのウィルス対策ソフトを
交換することにした。

 一度、両方のウィルス対策ソフトを削除する。
その上で、改めて両方のウィルス対策ソフトを、インストールする。
口で言うと簡単そうに見えるが、その作業のために、何と、2時間もかかってしまった。
いろいろあった。

(わかりやすく言えば、ウィルス対策ソフトというのは、基本的には、別のパソコンに
再インストールできないようになっている。
それにXPに入っていたソフトは、一度、使用期限を延長して使っていた。
その更新手続きに、手間取った。)

 そしていよいよWINDOW7へのUPGRADEというところで、時間切れ。
このつづきは、また来週。


●Sxx教団

 コンビニで、週刊誌を読む。
その中に、いくつかのSxx教団の記事が載っていた。
世の中には、おかしな宗教がある。
宗教というよりは、カルト。
カルト教団。
その中のひとつでは、毎晩、祭壇でSxxをして、一日を終えるのだそうだ。
また別の教団では、何でもヨーグルトを塗ってから、Sxxをするのだそうだ。

 バカ臭さを通り越して、あきれてしまった。
あきれたというよりは、笑ってしまった。
「人間はここまでバカになれる」と。

 もっとも宗教というよりは、新しいタイプのSxxの楽しみ方かもしれない。
宗教は、大きく、神秘主義のものと、哲学主義のものに分かれる。
それらの混在型というのもある。
しかしここに書いたカルト教団は、神秘主義でもない。
もちろん哲学主義でもない。
生々しいほど、現実主義。
哲学など、もちろん、どこにもない。
物欲的で、享楽的。

死が宗教と大きく関係しているように、生もまた、宗教と関係している。
その「生」は、「性」によって、始まる。
人が死んだら、葬式をする。
同じように、Sxxによって、人は生まれる。
生まれるための儀式があっても、おかしくない。

 生と死。
それをうまくこじつけたのが、Sxxを売り物にするカルト教団ということになる。
(生)→(性)→(Sxx)と。
事実、世界の宗教の中には、インドのヒンズー教を例にあげるまでもなく、Sxxを
神聖視している教団も少なくない。
しかしここで矛盾が、出てくる。

 Sxxは、人間の欲望と深く、からんでいる。
その欲望と、どう切り離すのか。
欲望と切り離したら、Sxxは、成り立たなくなる。
一方、欲望を追求すれば、宗教性は、霧散する。

 結論を先に言えば、Sxxには、神秘性もなければ、哲学性もない。
性に飢えた人間には、神秘的かもしれないが、Sxxなど、ただの排泄。
Sxxに意味をもたせるほうが、おかしい。
「性は無」。
どこまでいっても、「性は無」。
若いころ、今東光が、私にそう教えてくれた。

 そのことは、男も更年期を迎えるとわかる。
私も55歳前後だったと思うが、一時期、Sxxに、まったく興味を失ってしまった
ことがある。
しかしあのとき感じた解放感は、今でも忘れない。
体中にからみついていた、細いクサリがほどけたような感覚だった。
私は、自分が、いかに性の奴隷であったかを知った。

 もしSxxに、宗教性があるとするなら、食欲教団というのは、どうか?
どこかで食事をしながら、生と死を論ずる。
あるいは排便教団というのでも、よい。
みながトイレに一列に並んで、便を出す。
出しながら、生と死を論ずる。
そのほうが、よほど哲学的。
それに楽しい。

 ともかくも、Sxx教団など、野に咲くあだ花のようなもの。
人間の世界を愉快にする、ジョーク。
が、笑ってばかりはおられない。

 もしあなたの子どもが、そういう教団の餌食となったら、どうする?
ものごとは、ここから考える。
身を捧げ(?)、マネーを捧げ(?)、最後は人生を捧げる(?)。
そうなったとき、あなたはそれを果たしてジョークと言って、笑えるだろうか。
カルト教団には、いつもそういう問題がからむ。
けっして、安易に考えてはいけない。
攻撃の手を緩めてはいけない。

 こうしたカルト教団は、いつも私やあなたの心の隙間をねらっている。
私やあなたの子どもの心の、すき間をねらっている。
攻撃こそ、最大の防御。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW Sxx教団 カルト教団 カルト問題)


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司

●早朝

 目の前には幾重にも重なった、山々が見える。
今、数えてみたが、5層になっている。
手前のほうが、より色が濃く、遠くへ行けばいくほど、淡く、水色を帯びている。

 今朝は、まったくの無風。
山では、朝方と夕方、一度、風の動きが止まる。
それにしても、まったくない日というのは、珍しい。
スチル写真のように、動きを止めている。

 空には、厚い雲。
よく見ると、その雲も、動きを止めている。
どこか肌寒く、どこか湿っぽい。
今日から11月。

 昨夜、ワイフは、もう一台のパソコンを使って、DVDを見ていた。
私は、お茶を飲みながら、雑誌を読んでいた。
床に入ったのが、午後11時半ごろ。
で、起きたのが、午前5時半ごろ。
6時間の睡眠ということになる。

 ワイフは、今日は、愛知県のほうまで紅葉を見に行こうと言っている。
昨夜、山荘へ来るとき、そう言っていた。
しかし私は休みの日に、計画を立てるのは好きではない。
万事、成り行き。
そのときは、そのとき。
だからこう言った。
「明日になったら、考えよう」と。

 で、その(明日)になった。
沈んだ景色。
先にも書いたように、厚い雲。
夕方には雨になるという。
それに今日は、どこかで昼寝をしなければならない。
遠出は無理かな……?

 
●ダイナブックUX

 ダイナブックUX(TOSHIBA)に、6セルバッテリーをつけてみた。
計算上では、これ1本で、カタログによれば、10時間の連続使用が可能。
で、数日前、本当にそうかどうか、調べてみた。

 (使用した時間)÷(バッテリーの減った%)で、計算できる。
たとえば、2時間使用して、バッテリーが、27%減ったとすると、
このばあい、120(分)÷0・27=7・4(時間)ということになる。

 それで計算してみたら、7・4時間という数字が出てきた。
悪くない。
「10時間」というのは、あくまでも目安。
実測時間は、その半分程度というのが、この世界では常識。
しかし7・5時間もあれば、じゅうぶん。
もう一本のバッテリー(3セル)と合わせて、10時間以上。
これならどこでも、時間を気にせず、使用できる。

 で、今のところ、このダイナブックUXが、いちばん気に入っている。
キータッチの感触がよい。
横に、16インチのノートパソコンがあっても、UXを使って文章を叩いている。
指先でいじっているだけで、気持ちよい。
ボケ防止にもなる。


●厚い雲

 先ほど、「厚い雲」と書いた。
午前6時前には、そうだった。
しかし今、空を見ると、ナント、雲の間に、水色の空が見えるではないか。
その向こうには、白い雲まで見える。
1時間もしない間に、空の様子が、一変した。
「こういうこともあるんだ」と、今、そう思った。

 もうすぐワイフが、起きてくるはず。
「どこかへ行こう」と言うはず。
どうしよう?

 「妻を退屈させないのは、夫の役目」。
何かの雑誌に、そう書いてあった。
一方、ワイフは、私の生きがいに、あれこれと気をくばってくれている。
やりたいように、させてくれている。
こういうのを、ギブ&テイクという。
あとの判断は、ワイフに任せよう。
愛知県のほうまで紅葉を見に行きたいと言えば、それに従うしかない。


Hiroshi Hayashi++++++++NOV.09+++++++++はやし浩司
 
●教師の本音(「教職の仕事は、こりごり」)

 昨日、74歳になる元教師という人と、しばらく話をさせてもらった。
YN氏という名前の人だった。
ときどき近くの小学校へ行って、ボランティア的な仕事をしているという。
で、その話を聞いたとき、私は、こう言った。

「どんな先生も、退職すると同時に、『教育なんて、もうコリゴリ』と言って、
教育の世界から遠ざかっていきます。が、珍しいですね」と。

 するとそのYN氏は、こう言った。 

「私も若いころ、退職していく先生が、そう言っているのを聞いた。
しかし40年近くも仕事をしながら、退職するときに、そう言うというのは、
自己否定もはなはだしい。
だから私は若いころ、自分は一生、教育と何らかの形で、関わっていきたいと
思っていた。
もちろん退職したあとも、ね。
しかしね、林先生(=私)、本音を言えば、そうですよ。
私も教育は、もう、こりごりです」と。

 教職は別として、サラリーマンの世界は、もう少しきびしい。
『退職したら、ただの人』と言う。
いくら肩書きや地位があっても、退職したら、ただの人。
まわりの人も、そうとらえるが、自分自身でも、「ただの人」になる。
またそうならないと、老後を楽しく暮らすことはできない。
みなに嫌われる。

 では、教職の世界は、どうか?
退職したら、ただの人なのか?
またそうであって、よいのか?
キャリアをもっと生かす方法とか、道とかはないのか。

 もっとも教職の世界にも、天下りというのがある。
たいていの教師は、退職と同時に、公共の施設で何らかの仕事をする。
図書館の館長とか、公民館の館長というのが、多い。
子育て相談や、いろいろな会合で講師をする人もいる。
大学の教壇に立つ人もいる。
こうして満65歳くらいまでは、たいていの教師は働く。
しかし「本音を言えば、こりごり」と。

 「今ではね、体育館で子どもが怪我をしても、教師はその子どもの家まで
行って、頭をさげなければなりません。
それだけでも1~2時間は、かかってしまいます。
昔なら、電話一本ですんだ話でも、今は、そういうわけにはいきません。
1~2時間も取られると、翌日の教材の用意もできなくなります。
したくもない雑用ばかりで、本来の教育が、どこかへ行ってしまっています。
そういうのも、理由のひとつではないでしょうか」と。

 多くの教師は、今の今も、(したい仕事)と(したくない仕事)のはざまで
もがいている。
が、残念なことに、実際には、(したくない仕事)のほうが、多い。
重圧感もある。

 その場にいた、現役の校長(小学校)も、こう言った。
「今では学校に、親が介入してきます。
子どもに神経を遣う部分が、70%。
親に神経を遣う部分が、30%。
その30%のほうで、教師は、疲れてしまうのです」と。

 そうした負担感が積もりに積もって、「もう、こりごり」となる。
それが教師の本音ということになる。
が、日本の教育にとって、これほど、まずいことはない。
だったら、どうするか?

 カナダのように、徹底して、(教育)を(学校)から抜き出す。
「学校は教育をするところ」と位置づけて、それ以外の雑務から、教師を
解放する。
日本の大病院の医療制度を想像すればよい。
医師は、自分の診察室内でのことには、責任をもつ。
しかし患者が一歩、診察室を出たら、医師はいっさいの責任から解放される。
同じように、教師は、自分の教室内でのことについては、全責任を負う。
しかし子どもが教室から一歩でも出たら、いっさい、関係なし。
そういうしくみを早急につくりあげないと、現場の教師は、みな、つぶれてしまう。

 今のように、生活指導も含めて、「何からなにまで先生が……」というしくみの
ほうが、おかしい。
世界的に見ても、異常。
まず、そのことを、政治が気づき、ついで、親たちが気づいたらよい。
また学校の教師にしても、できないことはできないと、はっきりと声に出して
言えばよい。
へたに何でも引き受けるから、自分で自分の首を絞めてしまう。

 EU諸国(ドイツ、イタリア、フランス)では、クラブ制度が発達している。
子どもたちは基本的な授業は学校で受けるが、それが終わると、みな、クラブ
(塾)へ通っている。
たとえば英語教育にしても、そういったものは、民間の英語教室に任せればよい。
その費用は、バウチャー券でも、子ども券でも何でもよい。
そういう形で、政府が負担すればよい。

(英語教育が必要と考える人)もいる。
(必要でないと考える人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたいと思う人)もいる。
(自分の子どもに、英語を教えたくないと思う人)もいる。
(英語を勉強したいと思う子ども)もいる。
(英語を勉強したくないと思う子ども)もいる。
(英語以外の言葉を勉強したいと思う子ども)もいる。

 そういう現状を無視して、北海道から沖縄まで、「平等で、同じ教育を」と
言うこと自体に、無理がある。

 ……とまあ、少し話が脱線したが、こうした無理も、教師からやる気を奪う
理由のひとつになっている。

 では、私は、どうか?
私は死ぬまで、今の仕事をつづける。
つづけたい。
年金の問題もあるが、(というのも、国民年金など、アテにならないので)、
それ以上に、こうして自由にものを考えたり、書いたりする時間があるのが、
楽しい。
もし今の仕事をやめたら、そのとたん、私は、生きる屍(しかばね)になって
しまう。
自分でも、それがよくわかっている。

 それに楽しいか、楽しくないかということになれば、幼児を相手に、ものを
教えることぐらい、楽しいことはない。
その子どもの、未来を創ることができる。
親がそこにいることも、気にならない。
だから62歳をすぎたが、「こりごり」という言葉は、私からは出てこない。

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